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どれだけ経っただろう。行く宛もなく歩き続けた。家にも帰っていない。両親は心配しているだろうか。携帯電話がないので、連絡が来ていたとしても確認する術はない。
何も飲まず、何も食べず、しかし体調に変化はない。俺が『観測者』だからだろう。人はあっけなく死んでしまうのに、俺は何をしても死なない気がした。知らない公園のベンチにだらしなく腰を掛け、頭を下げた。靴が片方ない。もう片方もすっかり擦れ、ボロボロだった。
雪が降ってきた。露出した肌に積もっては、汚れた皮膚に染み込むように溶けていく。もう何度目かは分からないが、日は落ち、電灯が公園内を照らしていた。
俺は間違っていた。多くを望みすぎた。自分の意思で未来を変えたのに、後悔するのが遅すぎた。
呼んでいないのに、リエルは姿を現した。もしくは、呼んだことすら気付いていないのかもしれない。それだけ俺は憔悴しきっていたし、被害者面をした自分に苛立っていた。
俺はリエルに、彼女の名を告げた。
ずっと口にするつもりのなかった名前だ。それは俺を壊し、本物を始める切欠。俺が望んだ、希望と幸福に満ちた世界には必要のない名前だった。
それが今この瞬間、俺にとって何よりも不可欠な存在となっていた。早沢を救う為に必要な……。正確には、救うなんて立派な行為じゃない。『偽り』をやめ、本来世界が歩むべきだったルートに戻すだけだ。
リエルは静かに頷いた。
「あと10分。日付が変わる前に、この『偽り』の世界は終わり、私とあなたが出会ったあの瞬間から世界は始まります」
奇しくも、俺は新しい年を迎えることができなかった。大晦日の夜だ。もっとも、人ひとりを殺しておいて、迎える新年なんていらないが。
あと10分で全てが終わる。俺のこの悔しさも、怒りも、悲しさも、空しさも、半年間の記憶も、培ってきた関係も、リエルも、神さまも、早沢も。
全てが終わる。
1つだけ、ため息をついた。
「これを」
不意に、リエルが俺の着るジャンパーのポケットに何かを入れた。
「いつか、あなたを救ってください」
独り言だ。誰に向けての言葉でもない。それから、リエルの足が地面から離れた。公園には俺1人になった。何の音もない。雪はしんしんと降り続け、俺の体温を奪った。ポケットの中を見る気もない。体は凍え、小刻みに震える。
どうかこのまま、死んでくれ。
全てが終わる前に、全てを覚えたままで、俺だけを殺してくれ。
元の世界で、俺は早沢と繋がりを持つことはない。それでいい。そうやって、彼女とは無関係な場所でひっそりとしていればいい。
『四次元半』へ行けない。
文芸部との面識もない。
幽霊は見えない。
野球大会にも誘われない。
事件に巻き込まれることもない。
神も天使も知らない。
ずっと願っていた、何の力もないただの人間になれるのだ。
無理やりにでも、喜んだ。
靄を隅に追いやって、俺は目を閉じた。ゆっくりと、意識が遠のいていく。本当に死ぬみたいだ。これから起こることを考えると、あながち間違ってはいないが。
雪の降る速度に合わせるように、上体をベンチに寝かせる。それからしばらくして、『偽り』の世界は終わった。
隣にはやつれた中年男性が座っている。いつもの通学風景だ。ふと視線を動かすと、委員長の姿があった。ピンク色の髪を揺らし、電車の外を眺めている。こちらに気がつくと、軽く手を上げた。いつも通りの元気な笑顔を添えて、「おはよう」と口を動かす。俺も小さく会釈して返した。
教室に入ると、クラスメイトたちの喧騒が俺を出迎えた。四宮と適当な挨拶を交わすと、彼に説明を求める。何でも転校生が来るらしい。1時限目が始まると、担任の原崎は少し遅れて入室した。思わず声を漏らした。俺だけではない。クラス全体が共鳴するように、続いて入ってきた転校生の姿に見とれていた。
銀色の髪、白い肌。まるでお伽噺話の中から出てきたような、妖艶さと気高さを纏った少女は、吐き捨てるように自らの名を告げた。
廊下を歩いていると、腹部に鈍い痛みを感じた。丁度角を曲がるところだった。視線を下にやると、栗色の髪の女子生徒が大量のプリントを散らばらせて尻餅をついている。俺は慌てて謝罪し、せっせとプリントをかき集めた。まとめたそれを女子生徒に渡すと、揃って立ち上がった。
「ありがとう」
早沢夕という名前らしい。文芸部としての活動をするにあたって、必要な書類を貰った帰りだそうだ。俺も文芸部に入らないか、と誘われたが、親しくもない上に他3人の生徒も含めた全員が女子生徒だったので、丁重にお断りした。
それからしばらく、早沢と雑談をし、連絡先を交換した。彼女の趣味と俺の趣味に共通点があったことから、会話は案外盛り上がった。
赤坂と、他クラスの津川という男子生徒が付き合っている、という噂が流れた。両者とも激しく否定しているが、見ていて、ただの同じ学年の生徒だとは思えなかった。もっと深い、俺たちの知らない何かで繋がっていると、そういう印象を受けた。
下校中、たまたま津川千尋を見つけ、どうしてか他愛もなく話しかけたことから、彼とは休日にも遊ぶ約束をする仲となった。
夜間、校内に侵入したとして、委員長と1年生の女子生徒が謹慎処分になった。1年生の方は文芸部の部員らしい。早沢がそう嘆いていた。それにしても、あの真面目な委員長がどんな目的でそんなことを……。謹慎明けの委員長に聞いてみたが、ヒラヒラかわされるだけだった。だが、委員長の満ち足りた表情を見て、少なくとも悪い結果ではなかったようだ。だからそれ以上は聞かないことにした。
早沢の誕生日パーティーに誘われたが、もちろん行かなかった。当日は金曜日。放課後に僅かな時間を貰い、手に持った紙袋を手渡した。中に入っているのは編み棒だ。早沢とのやり取りで、彼女が最近編み物にはまっていること、使用していた編み棒を折ってしまったことを知っていたからだ。早沢は「欲しかったんだ」と紙袋を抱き締めた。取り敢えず、喜んでもらえたようだ。
せっかくの日曜日を、俺はグラウンドで過ごしていた。四宮からの誘いで野球の大会に出ているのだ。早くも試合は決勝戦。俺も四宮も大した出番のないまま、『商店街シューティングスターズ』は優勝した。優勝賞金は砂浜でのバーベキュー大会費用に消えたが、それなりに楽しかった。
沖縄への修学旅行当日の朝。俺は早沢にあるメッセージを送っていた。首里城の見学を2人で行いたい、という旨のものだ。了承する返事が届くと、俺は小さく胸を撫で下ろした。
四宮と山本に別れを告げ、俺は早沢と合流した。しばらくの間、何度か来たことのある首里城を、さも初めて訪れるような新鮮味を醸しながら歩き回り、ついに俺はその言葉を口にした。
早沢は頬を赤く染め、笑顔で頷いた。
白いアザレアのペンダントが、2人の胸元で光る。互いへのプレゼントとして、ブティックで購入したのだ。間の伸びた話し方の店員も、随分と褒めてくれた。口車に上手く乗せられて、言われるがままに買ってしまったが、いい買い物だったと思う。
四宮、山本、津川と休日の待ち合わせをしていた。山本は遅刻し、3人で銀行へと入ると、不幸なことに銀行強盗の現場へ巻き込まれてしまった。銃を持った強盗たちに怯えながら解放を待つ俺たちを救ったのは、人質に取られていた赤い髪の女性と、機動隊の隊員たちだった。強盗たちが捕らえられてすぐ、赤い髪の女性は姿を消してしまったが、そのことに気づいたのはそれから数日経過した後だった。
クリスマスイブの前日、周囲を気にする俺を、早沢は心配そうに、あるいは不審げに見た。
俺は言った。「何でもない」と。
その実、頭の中にもつれ絡まった記憶の糸をほどいては、正体の分からない靄に顔をしかめた。
何か、何かがおかしい。
雪が降ってきた。肌に積もっては吸い込まれ、俺の体温を奪った。
「また明日」
結局、俺は何もせず、何も出来なかった。疑問は解決には至らず、心の奥底にしまいこんで知らないふりをした。
早沢は手を振った。急に彼女が遠くに感じた。俺は慌てて手を伸ばす。しかし早沢には届かない。その背中がどんどん遠くなり、ついには人の波が、俺と早沢の間を隔てた。ドクン、と心臓が1つ、大きく鼓動した。伸ばした手を下ろし、俺はしばらく早沢の消えた方向を見つめていた。
そしてクリスマスイブがきた。




