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水を打ったように静まり返った室内に、5人の生徒がいた。
黒髪、唯一の男子生徒。
彼に数学科目を教えている栗色髪の女子生徒。
本を読む、黒髪の女子生徒。
イヤホンを片耳に、英語の教科書にチェックを入れる銀髪の女子生徒。
男子生徒を睨む金髪。
教室内に、四宮と星倉の姿はない。商店街の人手が足らず、急遽加勢しに行ったそうだ。
この状況、何がヤバイか……。
俺以外全員、成績優秀。
そもそもよく考えれば、四宮と星倉がいたところで『出来ない奴』は俺1人だが、更に男1人になってしまうと、心細いなんてもんじゃない。細すぎて細すぎて2つに分かれそうだ。
赤坂は俺と目を合わせない。まるで『いないもの』として扱っているようだ……。今年が『ない年』でよかった。
千々寺は俺を見ている。俺でなく教科書を見ろと言いたいが、『出来ない奴』の俺は間違えても口に出してはいけないフレーズだと思う。それに女の子ハーレムを崩されて、相当お怒りのようだ。
猫井はこの空気感を察してか、俺が入室してしばらくすると、ノートをしまい『物語』の世界に入り込んだ。猫井さん、さっきから1ページも進んでいませんよ。
そして早沢。現在、数学の公式について教えてもらってる訳だが……。
1つのノートを2人で共有するさまは、まるで相合い傘のようだった。自然と体が触れ合い、シャンプーでも香水でもない匂いが俺の鼻孔につく。ああっ、なんだこれ! いわゆる『皮膚の匂い』が、俺の脳を狂わせる。
更に胸元にはアザレア。相変わらず校則違反を犯してまで着け続けているようだ。ま、実は俺もこっそり着けてるんだよね、とうもろこし。見えないけど。
「ちゃんと聞いてる?」
早沢は覗き込むように俺を見た。あっ、胸元が……。
π=カップ数(身長+体重)÷胸囲……違う違う!
髪に何か刺さった。払い落とすと、消しゴムのカスだ。こんなことをするのは1人しかいないのでスルー。
「こ、この数式が分からんのですよ先生」
疑惑の眼差しを凌ぐように、適当な問題を指差した。
「あぁ、それは……」
俺の手からシャープペンを取ろうとしたのか、早沢の白い指が俺の指と絡んだ。その一瞬の長さたるや。互いに「あっ」とか言って手を引っ込めるでもなく、まるでそれにすっかり慣れたように、2人の手は触れて離れた。いや、恐らく慣れてしまっていた。それも互いに、だ。
髪が触れても、吐息が当たっても、以前のように初々しい反応はない。内心興奮はしているけど。
「あ、あは、あはは……。ず、随分と仲がいいようで」
千々寺の声に遅れて、揃って頬を染めさせる。その反応が千々寺の怒りを加速させたらしい。
「ふ、ふん! わたしには赤坂さんがいるもん!」
千々寺がそう言って鼻を鳴らした直後、文芸部室にノックの音が響いた。
早沢が返事を返す。入ってきたのは津川だった。
「赤坂! 『召集』だ!」
『召集』……。魔族の襲撃か、作戦会議でもするのか。どちらにせよ、俺が気にすることではないな。
赤坂はサッとノートをしまい鞄を手に、津川と共に部室を出た。
「では皆さん、また明日」
しばらくのち、取り残された千々寺を慰めるように、猫井が立ち上がる。
「舞先輩にはわたしがいます」
そして二人で見つめあって……。
2人は下校の準備を済ませ立ち上がる。千々寺がガバッと猫井の腕をホールドし、肩に頬を擦り付けながら部室を後にした。歩きづらいだろ。
最後に、
「ふ、2人きりだからって、部室でこ、こ、子どもつくったりしないでよね?!」
何をおおっぴらに言ってるんだお前は。
猫井も「あちゃー」と言わんばかりの苦笑を浮かべた。
もしかして、千々寺はキスをしたら子どもが出来ると思ってる質か? もしくは俺と早沢が、部室で事を致すスリルを楽しむ変質者だと思っているのか。いや部室じゃなくてもしないが。
千々寺と猫井がいなくなり、とうとう部室内には俺と早沢の2人だけになってしまった。
気まずい雰囲気だけ残していきやがって……。
「俺たちもそろそろ……」
雰囲気に耐えかねて立ち上がろうとした俺の手を、早沢の手が押さえた。
「あっ……、こ、このページまでは、しなさいよ……」
……まぁ、中途半端なとこだしな。
早沢の、命令というより懇願の瞳を直に受け、シャープペンを取り、数式を見つめる。
部室内にある音は、時計の針が進むクリック音、シャープペンの芯が紙に擦れる音、早沢の吐息と俺の呼吸音。
声はない。ひたすら問題を解き、ひたすらそれを見守る。
やはり、心臓の鼓動は常より遅い。落ち着きながら、体は火照り小さな物音にさえ敏感に反応する。早沢と体が触れる度、脳から爪先まで微弱な電流のような刺激が走った。
『匂いに操られる』を今まさに体感している。問題に集中しようとしても、隣に早沢がいては10秒も持たない。
「あ、あのさ」
破りたくない心地のいい沈黙だったが、破らなければおかしくなりそうだった。俺は思わず声を出した。
「星倉と四宮って、付き合ってんの?」
「ん、んー……」
星倉はしばらく思い出すような素振りを見せた。
「ごめん。四宮君のことはあんまり知らないかな。七美も四宮君の話をしないから、多分付き合ってはないと思うけど」
俺が『星倉』の話題を出したとき、早沢の表情の変化を俺は見逃さなかった。
だから彼女が取り繕うように言った言葉の真意も、なんとなく分かった。
「七美はいい子だし魅力的だし……。わたしとは大違いだね」
気付くと、俺は早沢の手をとっていた。指の末端まで激しく打つ脈が早沢の指先を共鳴させる。触れている箇所は次第に熱くなり、やや汗ばんでくる。
何が俺をそうさせたのか。
匂いか、早沢の言葉か。
とにかくそれは、考えての行動ではなく、感じての行動だった。
「俺はお前が好きだけどな」
何度も言うように、これは感じての行動だ。
つまり早沢に対して練りに練った感情を口にしたわけでなく、今の早沢の言葉を否定するため、言うべき言葉を反射的に口にしたにすぎない。きっとそうだ。俺はなぜか焦っていた。俺の言葉は本音ではなく建前のようなものだ。そんな表情をさせてはならないと、内部からの警鐘だった。良心の呵責というやつだろう。
「友達としてだけど」
淡々と修飾した。心臓の鼓動が遅いせいだ。いくら緊張していても、いくら焦っていても、妙に落ち着いている俺がいた。
「分かってるよ」
心にもないことを言った。これは考えての行動だった。しかし何を考えて選んだ言葉なのか、しばらく考えても分からなかった。
これは言わない方がよかった。頷き笑みを浮かべる早沢を見て、そう思った。
2人で並んで帰った。雨は降っていない。朝の天気予報では50%の確率だったので、一応折り畳み傘を持ってきてはいたが……。
会話は疎らだ。日常的な会話から、将来の話まで。と言っても、俺も早沢もまだ確定した未来図は持っておらず、ただ漠然とした夢を語るだけだった。
早沢は税理士を候補の1つにしているらしい。早沢父が小さな会社を経営しており、母がそこで税理士として働いているそうだ。
いいなぁ、俺もその会社で雇ってくれないかしら。冗談混じりに聞いてみると、早沢ははにかんで言った。
「じゃあまずは、お父さんに挨拶しないとね」
それからポツポツと話しては、互いの歩幅を探るように歩いた。相合い傘をしているわけではないのに、半身同士が磁石のようにくっついては離れる。
しばらくそんな下校風景を繰り広げ、早沢宅の公園で足を止めた。
「ねえ、あんたの連絡先、教えてよ」
そう言えば、文芸部で連絡先を知らないのは早沢だけだ。(千々寺とは1度も連絡を取っていないが)
早沢との連絡先を交換し終え、早沢宅の前に着く。
「じゃ、帰るわ」
手を振ると、早沢もそれに応えた。その顔に一瞬影が差したのを、俺はやはり見逃さなかった。
「明日も……」
言い終える前に、早沢は扉を閉めた。
羞恥な行動に「よかった」と安心する俺と、言えなかったことに気を落とす俺がいた。
どちらも正真正銘、『普通』でただの俺だった。




