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そこにリエルの姿はない。ついさっきまですぐ隣に座っていたリエルは、煙のように消えていた。
俺は電車内にくまなく視線を走らせる。寝ていたわけではないのだ。隣に座っている人間が立ち上がれば、それに気付かないはずがない。
だがその思いに反して、とうとうリエルの姿を確認することは出来なかった。
どうなってんだ?
彼の捜索を諦めた直後、隣、リエルがもともと座っていた席に、そのハンサム面は当然のように腰を下ろしていた。
「は、はぁ!? どこに行ってたんだよ!」
まるで恋人の行動を把握したい彼氏のように、俺は声を潜めてリエルに詰め寄った。もっとも、電車内の視線を集める程度には潜めきれていなかったが。
リエルはそんな視線など気にもせず、淡々と続けた。
「これが、あなたに対してわたしが特異な存在であると証明する一番有効な方法だと思ったのです。簡潔に言いますと、天使であるわたしは姿を消すことができます」
そう言うと、リエルはまたパッと姿を消した。種も仕掛けもない。消えるといえば、煙がボワンと上がったり、光で周りの目を潰してからだったりを想像していたが、リエルのそれはまさに一瞬。電気のスイッチをパチパチと押し、点灯、点滅を繰り返すように、リエルは現れては消えを繰り返す。その様はもはや笑いさえも生んでしまう。
「わ、分かったから! 分かりたくないけど分かったから!」
タイミングを計りリエルの肩に触れると、ようやくリエルは点滅を止める。
「ちなみに、わたしはあなた以外の人間には見えないようになっています」
それでその珍妙な格好でも騒がれなかったのか、と疑問が一つだけ解決した。
本当のことをいうと、いまだにリエルが特異な存在だと認めたくない自分がいる。あれだけの点滅を見せられて、他人には見えない宣言をされてなお、これが何かドッキリの類いだと疑っていた。しかしすぐに落胆する。カメラは見つからない、ただの公共交通機関にそんなものがあるわけがない。
すっかり観念してしまった俺に、リエルはまた説明を始める。
「さて、先ほどの『主人公が7人いる』件、正確には神が観測対象に選んだ人間が6人いる、ということです」
「観測対象?」
「ええ」
リエルは大きく頷いた。
「主人公とは漫画やアニメなど、フィクション世界の象徴ともいえる存在であり、ノンフィクションであるこの世界には主人公はいません。……ですが、世界にはまさしく主人公だと言わざるを得ない人間が6名存在しています。例えば不可思議な現象が起こる祠を守りし者、例えばある日を境に超人的な能力を会得した者、例えばかつて魔王と対峙し討ち滅ぼした祖先を持つ者、例えば不特定多数の異性から不自然なほどの好意を得る者……。神はそんな彼ら彼女らに可能性を感じ、観察することにしたのです」
「ちょっと待って」
「更に神はこうも考えました。本来交わることのない六つの物語をどうにかして交わらせ、その結果生まれる『色』を見てみたい、と。そこで神は他でもないあなたを、唯一全ての物語に干渉できる『観測者』として選んだのです」
「ちょっと待って」
話についていけないのは、俺の想像力が乏しいせいではない。あまりに突拍子のない話をリエルが行うからだ。つまりなんだ? 世の中にはビックリ人間が6人いて、神さまはそいつらを観察して悦に入ろうってのか?
そっくりそのまま質問してやろう、と開いた口を、リエルは手で制した。
「大丈夫、わたしはあなたの思考を読み取ることが出来るので。質問に答えましょう。その通りです。一つだけ訂正するならば、神の目的は娯楽ではない、人間の可能性を確かめることです」
そう話すリエルの表情にふざけている様子はない。もし先ほどの点滅劇を見ていなければ、あるいは宗教の勧誘だと思って早々に車両を変えていただろう。とにかく、リエルの表情から嘘や嘲りを見出だすことは出来なかった。
というか、なんだ6人って。もう1人はどこにいった。なんてふと考えてみるが、前後の文から何となくこうだろうと確信を得ていた。
『観測者』つまりそういうことか。
曰く俺の思考を読み取ることが出来るというリエルは、また大きく頷く。
「その通り、あなたこそ選ばれし7人目。あなたの役割は文字通り、彼ら彼女らの織り成す物語を観測することです。ちなみに『観測者』であるからといって一切制限を設けておりません。つまり彼ら彼女らに変わって悪魔を討伐したり、意中の相手の心を盗んでみたり……。神はあなたの行動すべてを望んでいるのです」
「今さらっと言いやがったな? 悪魔? 討伐? まさかこの世界にそんなものが存在しているとでも言うのか?」
とうとう俺は声を荒げた。周りの視線なんかどうでもいい。
しかしリエルは飄々とした表情で答えた。
「今あなたの目の前には天使がいるのですよ?」
悪魔ぐらい、いたって不思議ではないでしょう、と付け足すと、リエルはニッコリと微笑んだ。
そんな……、悪魔とか天使とか、想像上の、フィクションに生きる架空の生物だろうが……。ふざけるなよ……! 戦争だろうが……、疑っているうちはまだしも、それを口にしたら……、戦争だろうがっ!
常識と、目の前にいる非常識がせめぎ合い、吐き気さえ催す。
「悪魔だけではありません。世間を賑わせる正体不明の怪盗集団、小さい体で事件の真相を暴き出す小学生探偵、想い人の心を独占するためなら刃物を持ち出す女子高生、地球侵略を企む未確認地球外生命体、住民同士で殺し合う限界集落まで、あなたの考えうる全ての『ありえない』に、『ありえる』可能性があるのです」
いや、女子高生はありえる側だろ、と苦言を呈す前にリエルは話を続けた。
「そうですね、あらゆるジャンルの漫画や小説の中から六つの物語が一つの世界で同時に進行している、と例えると分かりやすいでしょうか」
「つまり、あっちでは人間と悪魔が火花を散らして死闘を繰り広げ、そのすぐ隣で何の特徴もない男子高校生が周りの女子を侍らせハーレムを形成している、と」
「ええ、あくまで一例、ですがね」
そう言って、リエルは屈託のない笑顔を見せた。
「さて、簡単ではありましたがこれで説明を終わらせていただきます。なにか質問は……、といっても、これから少しずつ理解していけばいいと思いますよ。わたしもニホンゴを覚えるのに人間時間で三年は費やしましたから」
胃からこみ上げてくるモノを左手で抑え込み、右手は上に。そうすることで、質問があることをリエルに示した。
「質問といえばキリがないが、一つだけ聞かせてくれ。もし俺がお前の言う悪魔との戦いで……、あるいは恋愛感情のもつれから、逆上した女の子にナイフで刺されて命を落とすとどうなる?」
我ながら馬鹿な質問だと思った。端的に考えて、命を落とすとどうなるか。答えは、死ぬ、だ。
しかし質問の真意はそこにはない。俺が聞きたいのは、死んでしまった後のことではない。死ぬ前のことだ。
果たして神は、リエルという神の代行は、俺が命の危機に瀕したとき、この命を救ってくれるのか。
リエルは見透かすように肩を竦めた。そういえばリエルは俺の考えが読めたっけ、と僅かに恥じらいが生じた。
「あなたは死にませんよ。わたしが守りますから。……すみません、冗談です。もちろん、出来る限りのサポートはするつもりですが、最後にあなたの命を守るのはあなた自信です。ですが安心して下さい。『観測者』として選ばれたあなたは例えるなら『マスターキー』、きっと全ての物語において、あなたは優先されるはずです」
「『マスターキー?』」
言葉を反芻する。妙に引っかかる単語だが、核心に迫る前にリエルが口を開く。
「1つの『物語』につき1つ……。それらを有利に進めるためにあなたに与えられた『能力』と言えば分かりますか? いいタイミングですね。前方、左側のドア付近に注目してください」
ちょうど駅へ停車し、乗客の乗り降りが完了したところだ。リエルの指差す方向は出入口ということもあって、比較的人口密度が高い。
何だよ、別におかしいところなんか何も……。
その疑り深い瞳を大きく見開き、俺は言葉を失った。一体、一日に何度驚けば神さまは満足するというのか。
電車の外で優雅に花びらを散らす桜の木。日本の四季の内、春の象徴ともいえる桜、それと全く同じ色をしていた。
鮮やかなピンクの髪の女子生徒が、さも当たり前のようにそこに立っていたのだ。
いやいやいやいや……、漫画かよ。
漫画の世界において、髪の色はキャラ分け手法の一種、と聞いたことがあるが、ここはまごうことなき三次元。もはや髪色どうこうの話ではない。どうやって染めたのか、甚だ疑問だけが残った。
「ええ、あなたの言いたいことは手に取るように理解できます。しかしながら彼女の髪は至って自然なものであり……。要するに、地毛、ですね」
思わず吹き出してしまった。
「これもまた『マスターキー』の効果。『あの女子生徒の髪はピンクだ、これは常識的に考えておかしい』と感じることが出来るのは、『観測者』として選ばれたあなたにのみ与えられた特権なのです。あなたは今日この時をもって、世界の常識から外れた存在になる。『観測者』とは『自覚者』。さしずめあなたは『自覚系主人公』とはいえるでしょう」
熱血、やれやれと種類のあるそれだが、ついに自分が主人公であることを自覚してしまう『自覚系』なるジャンルが生まれてしまったか。
「『観測者』であるあなたは他の主人公たちとは違い、物語を客観的に見ることが出来る。つまりあなたは全ての物語の主人公であり、モブキャラであり、キーマンであり、ゲームマスターであり、読者であり、神でもあるのです」
リエルは微笑むと、すぐに表情を引き締めた。
「これから先何が起こるのか、わたしにはわかりません。ですが精一杯あなたをサポートしますので、何卒」
一瞬だった。瞬きによりコンマ数秒視界が暗転すると、隣に座っていたはずのリエルはまた煙よりも早く姿を消していた。まさかさっきまでの出来事は夢か空想だったのか、とも思ったが、相変わらずピンクヘアーの女子生徒が視界の隅で存在感を垂れ流しにしているため、これが紛れもなく現実なのだと悟った。
それにしてもあの女子生徒、同じ高校の制服を着ている……。見覚えがない……、ような気がするが、新入生だろうか。
疑問が解決へと変わることはなく、やがて電車の揺れが収まると、俺も彼女も人混みに飲まれ、流された。