車中は急カーブにご用心
「お兄ちゃん、そろそろ降ろしていいよ」
妹が俺の首筋辺りに息を吹きかけて、くすぐるように言う。
ずっと考え事をしていたのですっかり忘れていた。
そう言えば、妹をおんぶしたままだった。
「立てるか?」
「うん」
組んでいた手を離して両腕の力を緩めると、妹はスルスルと歩道の上に降りた。
血の気が引いた両腕に血液が流れていくのが分かる。今更ながら腕の痺れを感じた。
妹は足の具合を調べつつ、怪訝そうな顔で言う。
「どうして家に帰らないの?」
そう言えば、妹に何も言っていなかった。
妹をおんぶしながら携帯電話で話をしていたので、すぐそばに妹の耳があるだろうから同時に聞こえていたと錯覚していたのかも知れない、
「うちの生徒会長が、今から家に来てくれ、と。車で迎えに来るらしい」
「ふーん。じゃあ私、家で待っているね」
「いや、お前も来て欲しいって」
「え? 私に何の用事があるの?」
(こちらが聞きたいくらいだ……)「さあ」
「折角のお弁当が冷えちゃうじゃない」
「ゴメンな」
「自分のせいじゃないんだから、そんな謝らないで」
言われてみればそうなのであるが、そうでもないような気がしていた。
小刻みに足を動かしながら待つこと15分。
俺達の横に、キィーッとブレーキの音を立てて黒塗りの高級車が止まった。
大衆向けホカ弁屋の店の前にいかにも金持ちが乗りそうな車という奇妙な取り合わせ。
夕食のため、持ち帰り弁当を買いに車を横付けする奴などいない。
(やっと来たな)
後部座席の窓が開いて中から顔を出したのは、やっぱりイヨだった。
ロングのツインテールに纏めたつやつやした黒髪が懐かしい。
小さい顔に大きな丸い眼鏡も久しぶりだ。店の明かりが眼鏡に反射している。
まだ服は見えないが、ドアの向こうに1ヶ月前の彼女の制服姿を思い描いていた。
しかし、彼女がドアを開けて車から外に出ると、その期待は良い方向に裏切られた。
花束がパッと飛び出したように見えたのである。
彼女は無言で『私を見て』と主張している。
赤を基調とした、色とりどりの花柄をプリントしたワンピース。
私服を初めて見るので、眩しかった。
ワンピース以外は、踝までの白い靴下、濃い茶色のローファー。これは、見慣れた装いである。
つまり、制服上下をワンピースに取り替えた姿だった。
(さすがにあの鞄におしゃれな靴まで入らないか……)
それでも彼女の私服姿の衝撃は揺らぐことはなかった。
イヨがこんなに可愛い女の子だとは思わなかった。
彼女は喜びのあまり叫んでしまいそうなのをグッと堪えているように口を閉じ、目は少し潤んでいた。
久しぶりの再会は俺にとっても喜びがひとしおで、貰い涙で視界が滲んだ。
元気でいるということは、彼女の家を血眼で探す連中から逃れて無事だったのだろう。
無事を喜ぶ一方で、二股の罪悪感、気まずさを感じていたのも事実であるが。
こういった逡巡から、さして嬉しそうでもない顔を彼女に向けていたと思うが、彼女はそれにはお構いなしに満面の笑顔で手招きをする。湿っぽい再会の場に、まるで花が咲いたように思えた。
「ささっ、先に妹さんに入ってもらって」
それが座席の位置関係として彼女自身に都合いいことは瞬時に理解した。
だが、それには応じなかった。
今の怪我人にとっては、移動距離を少なくしないといけないのである。
「妹は足を怪我しているから最後でいい。それと、ここじゃガードレールを乗り越えないとそっちに行けない」
「それもそうね」
イヨは後部座席へ腰から入って、上半身と両足を納めてからドアを閉めた。
5メートルくらい後ろにガードレールが切れている部分があったので、その所まで車がバックした。
外からドアを開けると、彼女は、運転席の真後ろでドアへ体を押しつけている。
座席のスペースを空けてくれていたのだ。
その親切心に感謝しながら、俺と妹の順番に乗り込んだ。
これで三人がきっちり隙間なく収まった。
妹が割と大きめな音を立ててドアを閉めると、それを合図に車はブルルルっと発車した。
弁当の入ったビニール袋を膝の上に置くと、まだホンノリ残っている暖かみが足に伝わる。
それを感じていると、急に車が減速した。
その拍子に袋を足下に落としそうになったので、慌てて袋の前方を両手で押さえた。弁当をひっくり返しては妹に大目玉を食らいかねない。
一瞬、両腕と脇の間に隙間が出来る。
そこへ、待っていましたとばかり、イヨが左腕を絡めてきた。
さらに体の左横を右腕に押しつけてくる。
右腕から彼女の左横の輪郭を感じたので、心拍数が上がってきたのが分かった。
(やっぱり……この位置を狙っていたな。妹からは死角になるし)
左隣に妹がいるので平静さを装っていたが、徐々に鼓動が加速して早鐘のように打ち続く。
(気まずい……)
なぜなら、これから行くところにミキがいるからだ。
イヨとこのまま腕を組んで車を降りるところを彼女に見られたらと思うと、ゾゾッとする。
だからといって、今から腕を振り払うのも悪い。
筆を置いて首を長くして俺の帰還を待っていたイヨの想いを反故にする。
(このままにしておこう……)
とはいうものの、頬や鼻が熱を帯び、額に汗が噴き出してきたことは悟られないようにしないといけない。
表向きは平静さを保つように努力していたが、急に車が右へカーブした途端、それは徒労に終わった。
全員が左に傾いて、彼女がさらに体を右腕へ押しつけてきたのだ。
遠心力の為せる技だ。
右腕がギュッと絞られる。彼女が絡めた左腕に力を入れているようだ。
(気まずい……早く家に着いてくれ)
鼓動は収まりそうにない。
右カーブが終わり、緩く左カーブになって体勢を戻せた。
と思ったら、今度は右へ急カーブになった。
咄嗟に彼女が半身をこちらに捻って、左半身を正面から押しつけてくる。
これによって彼女の正面のボディラインを右腕に感じることになり、顔全体、耳の先まで熱を帯びてきた。
カーブは終わったが、彼女は体勢を変えない。
つまり、いつまでも半身をこちらに押しつけたままなのだ。
いや、右肩に口まで押しつけている。
こうなると、一気に逆上せてきて、顔の血管すべてが血液で充満し破裂寸前の気分になった。
「ぐ、……具合でも悪い?」
「ううん、大丈夫。無事でいてくれて嬉しいの」
服の薄い布を通して右肩に彼女の息遣いを感じ、ゾクゾクッとした。
もちろん、こちらも彼女が無事でいてくれて嬉しいのだが、浮かれている場合ではない。
何故なら、左隣で聞き耳を立てて、細い横目でこちらの様子を窺っている妹がいるからだ。
焼け跡が残る市街地を車はひた走りに走る。
イヨの頭があるので車窓に流れる光景はあまりよく見えなかったが、平和を愛する一般市民の生活空間にまで戦争の爪痕が残っている。
これだけで怒りを覚えるのには充分だった。
彼女は心地よい車の振動で眠ったのだろう。
目を閉じて体重をこちらに掛けたままだ。呼吸まで右腕に感じる。
12、3分で車は止まった。
左を見ると、この街に今時まだこんな建物があるのかと驚いた。
聳え立つ鉄格子のような門の向こうに見えるのは、横方向に長く伸びた2階建ての洋館。
薄暗くてよく分からないが、外壁はおそらく濃い茶色のレンガを積み上げているように見える。
こちらを向いている窓をざっと数えて、概算で部屋の数は16くらいあろうか。
その割に、明かりが差した窓は3つしかないので、他は空き部屋に見えてしまう。
門の両側には洋館と道路を隔てるレンガの塀があるが、高さは3メートルは優にあるだろう。
ここまで高いとこの建物がまるで収容所みたいで、外界との決別さえ感じさせる。
門の向こうから執事らしい年配の男が足早に近づいて来た。
門に辿り着くと、上半身を斜めにして全身に力を入れ、右から左方向に押す。
外界との接触を拒絶する鉄の番人は、ゴロゴロゴロと重い音を立ててゆっくりと移動させられた。
車が左折してガタゴトと歩道に乗り上げる。
門を抜けると延々と庭でもあるのかと想像していたが、車のスピードではそれを堪能する暇を与えず、あっけなく玄関の前で横付けになった。
「着きました」
運転手に促されたのをチャンスだと思い、弁当を持つ振りをして彼女の絡んだ腕を優しく解く。
彼女の残念そうな顔は気の毒なので見ないようにした。
玄関の前で待ち構えていた別の若い執事が駆け寄ってきてドアを開ける。
まず妹が降りた、足は大丈夫そうだ。
妹に続いて体をずらしながら、慎重に車を降りた。
今大事なのは、まだ右腕に彼女の温もりと輪郭の感触が残っていても平静さを保つことと、弁当がひっくり返らないことだ。
車を降りている間に、玄関のドアがギーッと開いた。
そちらに視線を移すと、青いドレスに身を包んだ女性が、シャナリシャナリと出てきた。
ルイだ。
ドレスは、舞踏会か何かの会場で見かける夜会服のような代物である。もちろん、知識はテレビでしか得ていないが。
制服姿の彼女のイメージが強烈なので、この艶やかな姿を見ると、淑女に見えてしまう。
この手のドレスは、どうして胸のラインが強調されるのだろう。
制服を着ているとスレンダーに見える彼女は、こうしてみるとボディラインが大人のようで、実に目のやり場に困るのだ。
彼女にしてみれば賓客のお出迎えという大役に相応しい晴れ姿なのだろうが、あまりに似合っているので、実はお嬢様は普段着もドレスなのかと疑ってしまう。
おっと、馬子にも衣装、と危うくからかってしまうところだった。
見慣れない彼女の姿に圧倒されたが、唯一安心出来たのは、例のトレードマークとなっている縦ロールの髪型がいつも通りだったことだ。髪型まで変えられると、反則である。
彼女はそのトレードマークを揺らしてお辞儀をする。
「ようこそ、マモルさん」
俺はまだ不機嫌を装って黙っていた。
「と、そちらが妹さん?」
「ああ」
「お名前を伺ってよろしいかしら?」
「マユリだ」
「マユリさん、初めまして。わたくし、蛾余島ルイと申します」
「初めまして」
「生徒会長さんだ」
「兄がお世話になっています」
「なっていない」
彼女は口に手を当てて上品に笑い、眉を八の字にする。
「あらあら、そうおっしゃらず。イヨさんの時はこれでも奔走しましたのよ」
そう言って彼女はツツッとこちらに近寄り、耳打ちをする。彼女の息で耳がくすぐったい。
「ミキさんは『お風呂』に入っていらっしゃいます。イヨさんのお相手をして差し上げて」
「お前に指図される覚えはない」
「フフッ、相変わらずですこと」
「それと『お風呂』は強調するな。妄想を期待しても無駄だ」
「あらまあ、まだご機嫌斜めのご様子。こないだの一件を怒っていらして?」
「ああ。礼儀知らずにもほどがある。あれでイヨが怖じ気づいたじゃないか」
「ゴメン遊ばせ。でも、あれは緊急事態でしたから仕方ありませんのよ」
不機嫌を装っていたが、間近に見る彼女の艶やかな姿に惹きつけられて、内心は、悔しいかな、少しばかりときめいてしまっていたのである。
彼女は、そばにいた年配の執事、あの鉄の番人を従順させた執事に向かって「マユリさんを応接間へご案内差し上げて」と指示する。
彼は一礼して、「どうぞこちらへ」と妹を促す。
妹は不安そうな目をこちらに向けて歩こうとしない。
「お兄ちゃんも来て。一緒にお弁当食べようよ」
「お兄様は、イヨさんとちょっとお話がありますの。執事が応接間へご案内しますから、どうぞお休みになって」
優しく言葉を掛けてくれるが、いくらホストの家だからと言って、何でも言いなりにはならない。
「いや、おれも腹減ったから、一緒に弁当を食べる」
彼女は溜息をつく。
「仲がよろしいこと。わたくし、兄弟がおりませんのでうらやましい限りですわ。仕方ありませんわね。……イヨさん、お部屋へ行きましょう」
彼女は手招きをし、イヨを連れて中へ入っていった。




