五章
「アンタなんて、生まれてこなければよかったのに!」
彼女が次第に黒い靄のようなものに包まれていく。
「お姉さま……?」
自分の姉とは違うと分かっていても彼女をそう呼ぶと、キッとこちらを睨んだ。
「うるさい!!!!」
そう一喝し、持っていたラベンダーをその場に落とした。
「嫌い……私からまたお母様を奪っていく貴方なんて……! 嫌い! いなくなれ!!!」
黒い靄に飲まれた彼女は獅子の姿に変わり、足元に散らばったラベンダーが枯れていく。
ぱっくりと開いた口からリーンハルトを見つめる目と目が合う。
「いなくなってしまえ!!!」
フロイデの姿がエルガーに変わり、しゃがれた声でそう叫んだ。
リーンハルトは持っていた手鏡を握りしめ、言葉が出ない代わりにエルガーを必死に睨みつけた。
何も言い返せない。なんて言い返せばいいのか、そんなことを考えるにはリーンハルトは幼過ぎた。
しかし、フロイデが発した言葉はリーンハルトの胸を締め付けていた。
「リーンハルト!!!!」
遠くから声がし、リーンハルトはハッとする。
「フロー……!」
「リーンハルト、こっち!」
ドアの向こうにフローが現れ、リーンハルトは彼の元へ向かった。
しかし、エルガーが二人の間に立ちはだかり口の中の目がフローを見つめた。
「なんでなんでなんでなんでなんで!!!! なんでお前はリーンハルトの味方をするんだ!!!」
「…………」
フローはエルガーの問いに答えなかった。
そのままエルガーはフローに問い詰める。
「リーンハルトはお母様を奪った! リーンハルトが生まれたからお母様はいなくなったんだ!!! リーンハルトが生まれなければ…………お母様はもっと生きられたんだ!!!!」
「…………」
「それに、また……また私からお母様を奪った!!! 二度も!!! 許さない! 許さない!」
「もうやめよう、エルガー」
フローは静かに言った。
「……リーンハルトは、わたし達から何も奪ってないよ」
「ウソだ!!!! ウソだ!!!!」
「ウソじゃない……だって……」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!」
エルガーは狂ったように叫び、フローに襲い掛かった。
「フロー!」
リーンハルトが叫ぶが、彼は動かなかった。
「……だって……」
微かに彼の唇が動いた。
「…………だって……お母様はもう映らないわ」
その言葉を聞いて、エルガーはピタリと動きを止めた。
「うるさい……うるさい……」
ぽろぽろとエルガーが涙をこぼした。
「お母様はいるんだ……リーンハルトが奪っていったんだ……許さない……許さない……」
エルガーの姿がおぼろげになり、フロイデの姿に戻った。
「お母様……お母様はどこにいるの? どこにいるの?」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、フロイデの姿が変わっていく。
「許さない……おかあさま…………リーンハルト……どこ……おかあさま………」
まるで陽炎のように揺らめきながら、黒い服に変わり、獣に変わり、姿形を変えていく彼女をフローは抱きしめた。
「うん、いいんだよ。許さなくて……その気持ちを忘れなくていいんだ……」
彼女の姿が段々小さくなっていく。
「もう、私たちは子どもじゃなくなったんだから」
陽炎のように揺らめいていた彼女は、フローの言葉を聞いて消えた。
フローの手の中に鏡の破片が残されていて、彼はリーンハルトの元へ行き、それを差し出した。
「はい……これであと一つだね……」
フローは悲し気な顔をして笑った。
鏡の破片はリーンハルトが持っていた手鏡に綺麗に嵌る。
「ねえ……さっきのは……」
リーンハルトがそう言いかけると、彼は首を横に振った。
「言わないで……それとごめんね。わたしは貴方を傷つけちゃった……」
フローはそういうと、目深くかぶっていた帽子を脱いだ。
さらりと金色の髪が流れ落ち、澄んだ水の色をした瞳が現れた。
「お姉さま……?」
その顔はフロイデを少し大人にしたような、自分が知る姉の顔だった。
しかし、フローは首を横に振った。
「残念、ちょっと違うよ……でも、答え合わせはしないよ」
フローはそういうと、リーンハルトの手を両手で握った。
「最後の欠片、キミにあげる……帰るにはどうしたらいいか、覚えてるよね?」
「うん……でも……フローも消えちゃうの?」
「もちろん……」
フローはそう言って笑うが、リーンハルトはうつむく。
何か言いたげに口を開閉させたあと、思い切って声を振り絞った。
「フローも……ボクが嫌い?」
リーンハルトは呟くように言った。
『アンタなんて生まれこなければよかったのに』
フロイデの言葉はリーンハルトの心に深く突き刺さっていた。
誰かにあんな風に恨まれているなんて知らなかった。
誰かに嫌われるなんて考えもしなかった。
「ボクのせいで……お母様は死んでしまったの?」
「…………」
フローは震えるリーンハルトの手を強く握り、こつんと自身の額をリーンハルトの額にくっつけた。
「答えは自分で見つけておいで……ラベンダーも見つかっていないんでしょ?」
「…………うん」
「鏡も、リーンハルトの好きにするといい……頑張ってね」
「……うん」
リーンハルトが頷くと、フローは優しく微笑んで姿を消した。
リーンハルトの手には鏡の破片が残っており、それは手鏡に綺麗に嵌った。




