二章
「ねぇ!この鏡はキミの落とし物だろ!」
リーンハルトが後を追った。
思ったよりも広い屋敷で廊下にはいくつもドアがあった。少年が向かって行ったのは廊下の突き当りのドアだった。白いドアはガラス窓が付いていて、ガラス窓を覗くと向こうには夕暮れ色に染まった中庭が見えた。
しかし、少年の姿が見えない。本当に少年は中庭に入って行ったのだろうか。リーンハルトはドアノブを回すが、鍵が掛かっていて開けることが出来なかった。
「鍵が掛かってる……」
鍵が掛かっていては少年を追うこともできない。リーンハルトは持っていた手鏡を見つめた。
「なんで、同じ鏡を持ってたんだろう。」
姉が大事にしていた鏡。姉が持っていた鏡は少し古めかしかったが、この鏡はまるで新品同様のように綺麗だ。それに、なぜか鏡が嵌っていない。リーンハルトは自分が埋めた姉の鏡を思い出し、胸を痛めた。
「……見えるところに置いておいたら気づくよね。」
とてもきれいな鏡だ。なんであの少年が持っていたのかわからないが、大事な物だったら大変だ。
リーンハルトは元来た廊下を戻り、玄関に向かう。
ジリリリリリリリリリッ!ジリリリリリリリリッ!
玄関につくと、どこかで電話が鳴る音が聞こえた。
「電話……」
それは階段を上った二階からだった。
もしかしたら、人がいるかもしれないとリーンハルトは階段を駆け上がる。
すると、一室だけドアが開いているのを見つけた。部屋の近くまでくると、電話の呼び出し音も止まり、リーンハルトは部屋の中を覗き込む。しかし、そこには人がおらず、電話の受話器が外れたまま置かれていた。
「……あれ?」
さっき確かに電話が鳴っていた。しかし、受話器が外れているのだ。さっきでたのかと思ったが、人が出入りした様子もない。
リーンハルトは受話器を取って耳に当てる。しかし、受話器から声が聞こえないどころか、あの独特な電子音すらも聞こえてこなかった。
「……おかしいな。」
リーンハルトは受話器を戻すと、手を放す前に再び電話が鳴った。
「わぁっ!?」
驚いたリーンハルトは受話器を落としてしまい、慌てて拾う。受話器の向こうから声が聞こえてきたので、電話を切る前に相手に事情を話そうと思った。もしかしたら、大事な電話かもしれない。
痛いほど心臓がリーンハルトの胸を叩いた。受話器から聞こえたのは女性の声だった。
「もしもし、執事長?ちょっとお話が……」
執事長という言葉を聞いてリーンハルトはこの電話が内線だと知った。勝手に屋敷に入った自分が電話に出て怒られるのを覚悟して口を開いた。
「あ、あの!ボク……!」
「あれ?お嬢様!お嬢様、執事長のお部屋にいたのですか?」
人違いだ。自分は男だし、それ以前にこの屋敷の人ではない。
「ち、違います。ぼくは……」
「またそんな嘘をついて!中庭の鍵をどこに隠したのですか?とても困っているんですから、早く鍵を開けてくださいね!」
ガチャと一方的に切られてしまう。
リーンハルトは受話器を降ろすと、電話のすぐ隣に置いてあったメモを見つけた。
『朝礼で使用人たちに伝えること。中庭の鍵が見つからない時は、お嬢様が中庭で奥様に内密に花冠を作っていること多い。お嬢様がよく隠す場所は玄関のテーブルの裏。鍵を開けたらお嬢様に見つからないようにすること。』
「玄関のテーブル……」
リーンハルトは玄関に荷物を置けるようにテーブルがあったのを思い出した。
「……」
リーンハルトは玄関に向かい、テーブルの下を確認すると、テープで小さなカギが貼りつけられていた。
「……もし、鍵が開いてたら……戻そう。」
リーンハルトは中庭のドアに向かい、ドアノブを回す。
まだ鍵は開いていない。
リーンハルトは鍵を差し込んで、鍵を開けた。
おそらく、この中庭にあの少年がいる。鏡を返したら、事情を話して電話を貸してもらおう。そんなことを考えながらドアを開けた。
「え……?」
リーンハルトがドアを開けると、辺りは暗く、空に雨雲が掛かっている。ガラス窓越しからは夕暮れが見えていたのに、なぜ曇り空になっているのだろう。どこからか教会の鐘の音が聞こえてきた。
ゴーン……ゴーン……
リーンハルトは不思議と恐怖感を覚えながらも奥へと進む。
「……中庭だよね。」
中庭というにはかなり広く、石造りの塀に囲まれている。
そこで、大勢の人を見つけ、思わずリーンハルトは茂みに隠れた。
列を作って立っている大人たちは皆、黒い服を着ており、中にはハンカチで涙を拭く人もいた。屋敷の中に誰もいなかったのは、きっと皆がここにいたからだと思った。しかし、リーンハルトはなんでみんなが黒い服をきて悲しんでいるのかが分からなかった。
大人たちが屋敷の中に戻っていき、そこに小さな子どもが一人だけ残された。
黒い服を着てうずくまった子どもはおそらく女の子だろう。顔を手で覆い、泣いているようだった。リーンハルトが探していた少年ではない。
「ひっく……ひっく……お母様……お母様……」
リーンハルトは泣いている少女が可哀想になり近づいた。
「あ、あの……なんで泣いてるの?」
少女がリーンハルトに気付いて、顔を上げた。
「ひっ……!」
リーンハルトは少女の小さく悲鳴を上げた。
うつむいていた少女のその顔は黒く、目や鼻の位置が分からなるほど爛れてしまっていた。
少女はリーンハルトを見て、顔を歪ませる。
「お母様、そんなところにいたのね。」
嬉しそうにそう言い、リーンハルトに手を伸ばした。
少女の手がリーンハルトに触れた時、リーンハルトはその手を払った。
「こ、こないで!」
そして、すぐに駆け出した。
「ねえ、どこ行くの?」
リーンハルトは中庭を出て、玄関に向かって走る。
「はぁ……はぁ……」
玄関までは一直線。リーンハルトは後ろを向くと、少女が歩いてこちらに向かってくる。しかし、歩いているのに走っているリーンハルトとの距離を徐々に縮めていた。
「な、なんで……うわぁ!」
足元に転がっていたものに足を取られて、倒れ込む。
「いてて……あ!」
手元にあった鏡が倒れた拍子にリーンハルトの手から滑っていき、少女の足元に行ってしまう。
「……」
少女はその鏡を拾う。
鏡が付いていない鏡を見つめて言った。
「やっと見つけた。お母様。」
安心しきった声で少女は言うと、鏡だけを残して消えてしまう。
「え……」
まるで幽霊のように消えてしまった。
リーンハルトは起き上がり、その鏡を拾う。
「なんで……?」
鏡を覗くと、ついていなかった鏡面があった。それはたった一部で、リーンハルトの顔を一部だけ映していた。
さっきまでついていなかった。さっきの少女と何か関係があるのだろうか。
「か、帰ろう……鏡は置いて……」
わけがわからない。なんで少女が自分を追いかけ、そして消えてしまったのか。そして、中庭にいた大人たちは屋敷に入っていったのに、なぜか屋敷に人気はない。
リーンハルトは恐怖でこの屋敷から出たい気持ちでいっぱいだった。
玄関にテーブルがあった。そこに鍵と鏡を置けば誰かが気づくだろう。リーンハルトは鏡を抱えて玄関にたどりついた。
鍵と鏡をテーブルに置いて、リーンハルトは小さな声で「勝手に人のお家に入ってごめんなさい。」と誰もいないのに謝る。
そして、そのテーブルから離れた時だった。どこからか視線を感じて振り返る。
「グルルルルッ!」
二階に向かう階段に化け物がいた。四つ足でリーンハルトよりも体が大きく、真っ黒な体毛で覆われた生き物。それは低い唸り声をあげて、リーンハルトを見つめていた。
「!」
リーンハルトが玄関に向かって逃げると、化け物は二階の階段から飛び降りて、玄関を塞いだ。
「わっ!!!!」
目の前に現れた化け物は口を開く。その口の中は塗り潰されたように黒く、二つの人の目がリーンハルトを見つめていた。
「うわぁあああああああ!!!」
リーンハルトは恐怖でその場から逃げだした。
しかし、化け物はあっという間に追いついて、リーンハルトの退路を断った。
「!!!」
開いた真っ黒な口から見える目がリーンハルトを恨めしそうに見つめ、そして言ったのだ。
「いなくなれ。」
ひどくしゃがれた声で化け物は言った。
「全部お前のせいだ。お前が悪いんだ。お前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいで!!!!!」
身の覚えのないことでリーンハルトは責め立てられ、化け物の爪がリーンハルトを襲おうとした時だった。
目の前が白い煙で覆われ、強い力で腕を引っ張られた。
「こっち!」
誰かの声がし、引っ張られるままリーンハルトはついていく。
どこかの一室に入り、リーンハルトから手を放す。その人物はドアの前で化け物が通り過ぎるのを確認して安堵を漏らした。
「よかった。アイツ、ちょっと性格が悪いからすぐ諦めてくれるといいんだけど。」
そういったその人物をリーンハルトはまじまじと見つめた。
帽子を目深くかぶり、シャツにリボンタイを付け、サスペンダー付のズボンを履いている。その人物はリーンハルトが探していた鏡を落とした少年だった。




