凶悪な男
一方、その可愛い少女は、恐ろしい風貌の親分の前へと訳も分からず連れていかれて、ただ恐怖のあまり泣きわめいていた。一度は親の元へ駆け戻ろうともしたが、すぐにまた乱暴に連れ戻されたため、もはや泣くことしかできないでいる。その金ぎり声は、冷酷な男をむしょうにイラつかせた。
「うるせえっ、殺すぞ!」
次の瞬間、小さな体がいきなり飛び上がって地面に転がった。ベクターが、カイルを捕まえていながら、少女の腹を何の躊躇もなく蹴飛ばしたのだ。
「なんてことをっ。」
衝動的にカイルも身をよじったが、頬を殴りつけられ、駆け寄ることは叶わなかった。
「てめえもまた切られたいのか! おとなしくしてろっ。」
ベクターは口汚く怒鳴りながら、顔を殴られてよろめいたカイルを、また背後から取り押さえ直した。
少女はおなかを抱えて、泣きながら痛みにもがいている。
「許せねえ、あとで追いかけて思い切りぶっ飛ばしてやる・・・!」
我慢の限界にきていながら、賢明にもリューイは一歩も動かず耐えている。
凄まじい目つきで睨み続けているレッドの口からも、唸り声のような悪態が漏れた。外道が・・・。
ベクターはほくそえみ、盗みにかかれという合図を送った。手っ取り早く済ませるために、子分たちは手分けして散っていった。
思いも寄らないことが起こった・・・!
急に悲鳴を上げたベクターが、手首をつかんでしゃがみ込んだのだ。捕まえていた少年に思い切り噛みつかれてのことだった。これにはベクターもたまらず、持っていた凶器を簡単に放り出していた。
しかし、落とした短剣は、痛みが引いて手を伸ばすことさえできれば、すぐに届く場所にある。
拘束が弱まった隙にスルリと逃れたカイルは、少女を抱き上げて逃走していた。だが咄嗟のことで、足の向くまま闇雲に走り出したそこには、レッドもリューイも待ってはいない。カイルは別方向へ逃げたのだ。
リューイが急いで駆けだし、同時にレッドも地面を蹴った。
ベクターは落とした短剣をもう拾い上げようとしている。
くそ・・・!
どうしようもなくレッドは焦った。
間に合わない!
ベクターは慌てて拾い上げた刃物をもう手放していたのである。
それは逃げたカイルの体を突き刺しはした。が、致命傷とはならなかった。不自然な体勢のまま投げつけられ、位置が低かったことが幸いした。傷つけられたのは右の腿である。
生々しい大きな傷を負ったカイルは、それでも少女を抱えたまま足を引きずるようにして逃げる途中、とうとう膝と片手をついて止まった。
そこへリューイが駆けつけることになった。
ベクターに飛び掛っていったレッドの胸に、相手にとも、自分にともつかない怒りが突き上げた。
応戦しようと、ベクターもあわてて武器を引き抜いていた。が、あっという間に跳ね飛ばされ、その威力というより、迫力に押されて後ろへ倒れた。しかも、すぐに起き上がることができない。手足に力が入らないからだ。レッドの剣が向かってきた時、ベクターは武器をほとんど握っていただけだった。抵抗する間もなく、その気力さえ持てなかったのである。戦意など、武器を跳ね飛ばされるよりも先に吹き飛ばされてしまった。
子分たちが戻ってくることを予想して、ジュリアスは再び身構えた。
ギルも今度は剣を引き抜きながら出ようとした。
だが踏み出したとたん、どちらも不意に足を止めた。親分が倒されたのを見ていながら、その誰も動こうとしないからである。
地面に背中をつけたまま動けない体に、レッドは正面から足を掛けた。
踏みつけにされたベクターは、眉間にきつく皺を寄せているその凄まじい形相を、震えながら見上げた。
ライデルの陰で怯えていた少年が、仲間たちに守られるだけだった少年が、さっきはまるで、簡単に人肉を喰いちぎる獰猛な獣そのものに見えた。本気を出した時のとてつもない強さ、恐ろしさを、何たることか・・・今のわずか一瞬で思い知らされた。
子分もみな立ち竦んだまま固まっている。下手に斬りかかろうものなら、今度こそ殺される・・・。彼らにとって今、レッドの背中を見ているのも、飢えた猛獣の目と向かい合っているのも変わらなかった。
レッドは足をずらして、そのままベクターの腹を跨いだ。そうしながら両手で剣の柄を握り締め、切っ先を下にして構えた。真下には、すっかり血の気の失せた男の心臓が。
思わず目を閉じたベクターのこめかみに、冷や汗が伝った。命乞いをしようにも、掠れた声すら出ない。
周囲にいる人々までもが、ゾッ・・・とした。
ベクターはぎゅっと目を瞑ったまま唇を震わせている。
レッドは舌打ちし、重い唸り声をあげながら剣を振り下ろした・・・!
「ひいいいっ!」
恐怖で出なかった声が、断末魔の絶叫となって迸った・・・が、痛みを感じなかった。即死というわけではない。ベクターは、恐る恐る瞼を上げる。依然として険しい顔つきのレッドを見ることができた。五体満足らしかった。
そして、顔面すれすれのところには、殺されるかと思われたレッドの長剣。地面にめり込んで突き立っている。
それを確認したベクターは、そのまま徐々に視線を上げていく。凍てつくような目で見据えてくる切れ長の瞳と、目が合った。