ロナバルスの傭兵
南の海アースオルフェ(通称オルフェ海)沿岸のトルクメイ公国は、豊富にとれる天然資源や魚介類、そして果実のおかげで海上貿易を成功させた平和な国で、南国の楽園とも呼ばれていた。この乱世においてそう呼ばれる平和の理由には、この国を擁する国家の保護下にあるだけでなく、友好貿易相手には、強国アルバドル帝国のロアフォード家がいた。その後ろ盾があることもあり、この国を訪れた旅人は誰でも、まさに南国の楽園と呼ばれるにふさわしい待遇で歓迎される。
まず、鮮やかな緑色の大葉をつけたヤシや、常緑色の葉を持つ高木の列が迎えてくれ、それを通り抜けると、間もなく白い砂浜とエメラルドグリーンの海が、心身ともに疲れを癒してくれるからだ。そればかりではない。この国の人々はみな陽気で、酒場が立ち並ぶ街区や繁華街へ繰り出せば、美味な食材の数々を堪能しながら、気のいい店員たちと楽しいひとときを過ごすこともできた。
そして、この楽園を治める公爵の城は、南国の草花に囲まれて、ラグーンを背後にゆったりと胡坐をかいていた。というのは、その城はひときわ大きな中央ドームと、山のように連なる半ドーム群で形成されているからだ。赤い壁で構築された城、トルクメイ・ブランダウア城である。
その城の方角から駆けてきた一人の少女が、今、大急ぎで広場の鐘楼のトンネルを潜り抜けて行った。この少女はいつも、ほかの誰も知らない壊れた壁の隙間から這い出して、こっそりと出掛けていく。
快活そうな小麦色の肌に大きな小豆色の瞳の、まだ四歳のその小柄な少女は、白い砂浜のビーチを目指していた。肩を少し過ぎたあたりで切りそろえられた焦げ茶色の髪が、右に左に忙しなく揺れ動いている。
その海岸側には、二層のアーチで構成された石造りの水道橋があるほかは、青空と絶景の海を背に、旅館や賃貸住宅が軒並みをそろえていた。
とりわけ海に近い所に、淡いオレンジ色の建物があった。そのオーシャンビューのバルコニーが張り出している二階の一室では、一人の若者が黙々と荷造りをしている。それで、据え置きのテーブルの上には、様々なものが無造作に置かれていた。日持ちする食料、岩塩、水、蝋燭、小さな燭台、掌に収まるほどの折りたたみ式小型ナイフ、火打ち石と火打ち金のほか、簡単に点火できる小型の装置、路銀・・・赤い布。
若者はその布を掴み取って、褐色の前髪が覆う額に結び付けた。今隠れた彼の眉間の上には、刺青がはっきりと彫ってあった。獲物を捕らえる瞬間を象った、聖獣イーグルの紋章が。それは、世に名高い戦士養成所〝アイアンギルス〟、通称アイアスと呼ばれる組織の紋章であり、名誉の象徴でもあった。
この乱世には、多くの傭兵がいる。そして傭兵は、どこの国でも自由に仕事を選ぶことができ、雇う側も自由に使うことができるという暗黙の了解があった。そのほとんどの者が、大陸中に散在している様々な戦士養成所でまた自由に資格を取り、職を探すが、その証として、誰もが組織の紋章(刺青)を体に入れている。ゆえに雇い主に、どこの養成所の出身か、資格はあるかなどの質問はされても、生まれはどこかと問われることはなかった。
そんな数多くある戦士養成所の中で、一つ遥かに抜きんでているところがある。そこはもはや養成所ではなく、資格更新のための試験場であり、伝説の組織だ。なぜなら、ほかとは比較にならない合格基準で選び抜かれるため、普通は、すでに何年も培った経験と自信を武器に挑んでくるベテラン戦士ばかりであること。また、合格者が出ることは稀だからである。
それが、ロナバルス王国の北のはずれ、ユダの町にだけ存在する戦士養成所、アイアンギルス。通称〝アイアス〟。
その合格者が稀な理由には、それにふさわしいかどうか、試験ではさらに様々な人間性をも試されるからだ。つまり、一次試験では戦うセンスと能力を、そして二次試験では、交代で試験官を務めている現役のアイアスと共に、およそ半年間の旅に出る。そして大陸を、特に戦地を渡り歩き、勇気や忠誠心などを見定められるのである。
そのことから、政府の管理の行き届かない町の外は無法地帯と化し、ならず者が堂々と悪事を働く時代が続いている今、アイアスは〝世直し部隊〟とも言われていた。
しかし、別の資格やその実績を掲げ、何年も培った経験と自信を武器に挑んでも、その合格率はわずか一万人に一人と。大陸でも数えるほどしかいないと言われる、伝説の男たちなのである。
そして、額に鷲の刺青を施しているその男、紛れもないその伝説の戦士は、弱冠 二十歳で名をレドリー・カーフェイといった。しかも彼は・・・生粋のアイアスだ。つまり異例のことだが、彼の場合は、アイアンギルス暦がほぼ正確な戦士暦となる。普通では考えられないことだが、彼には十歳にも満たない少年の頃からそれだけの素質と、そして理由があった・・・。
レドリー・カーフェイ。切れ長の瞳と、精悍な顔つきのその男は、傭兵仲間のスエヴィと共にこの楽園に来て、少し骨休めをしたあとはすぐまた旅立つつもりが・・・それから三か月と経っていた。それというのも、このトルクメイ公国が故郷であるスエヴィが、レドリーを引き止めるために、城に仕える知人にレドリーの噂を流し・・・結局のところ、レドリーは半ば否応無く、軍の訓練施設で三か月間、剣術指導師を務める契約を結ばされたのである。
いくら陽気で平和な楽園といえど、この乱世に国を守る準備もそっちのけにするほど愚かでおめでたい国ではなかった。レドリーは、この国の輝かしさを失わせたくないと思い、それに応えたのである。スエヴィの思惑通りに。
そして昨日、ようやくその任期を終えたばかりのレドリーは、今日中にはこの国を出ると決めていた。
必要なものをだいたいそろえ終えたレドリーは、次に剣の手入れをしようと、二本ある剣の鞘から一本を引き抜き・・・その時だった。
「レッド。」
不意に、息を切らせた少女の声が。