エミリオ皇子・・・
例によって顔を隠したエミリオとギル、そして正式な訪問客としてのロダンが、大陸有数の壮麗さを誇る皇宮、サンヴェルリーニ宮殿へと入って行った。エミリオが知り尽くしているこの宮殿内を、三人は召使いが案内してくれるままに付いて行き、右手に鏡張りの窓が並ぶまばゆい広廊を通り抜けて、突き当たりの会議の間を左に折れた。
やがて彼らが通された広い応接室には、皇帝ルシアスの姿は無く、ランセル皇太子と、そのそばに側近の重臣や数人の近衛騎士が控えているだけだった。
そこは、淡い黄色の壁に施された銀の葉模様と、空の水色を基調とした天井画が見事な部屋だったが、ギルはそれらに気付かないほど頭を下げて入室した。
ランセルは、ロダンの背後に控えている従者とも思えない二人の人物が気にはなったが、にこやかな表情を崩さずに客人を迎える。
「よくぞお越しくださいました、アドルバート侯爵。」
「皇太子殿下、突然の訪問による無礼をお詫びいたします。」
ロダンは、極めて礼儀正しくかしこまった挨拶をした。
これを不思議に思ったランセルは、「何か問題でも?」と、いくらか不安そうな声に。
「実は・・・いえ、とにかく、まずは彼をご覧ください。」
あらかじめギルやエミリオから言われていた通りの運びにもっていくと、ロダンはこう付け加える。
「ただ、先に申し上げておきます。これには、実に深刻な訳があるということを。」
ランセルが何かと思う前に、エミリオはもう頭巾に手をかけながら立ち上がっていた。
そして・・・思い切りよく顔を露にしたのである。
エミリオは、胸を突かれて言葉を忘れたかのようになっているランセルと見つめ合った。
だがそのそばにいる従者たちの驚きようは、それ以上だ。彼らの中に、あの日の追っ手・・・つまり、カイルのアイデアによって、表向きだけは上手くエミリオ皇子を抹殺したという真実を知る者がいないからだ。そのため、その時、エミリオとギルが共にいたということを知る者もいなかった。それゆえ、エミリオ皇子が生きていたというそのことから驚いて、一様に狐につままれたような顔をしている彼らの間から、そのうち敬意のこもったつぶやきが漏れ始めた。
「エミリオ皇子・・・。」と。
やっと驚きから覚めたランセルも、たちまち込み上げてきた喜びに床を蹴っていた。
「兄上、やっと戻ってきてくださったのですね!」
そしてエミリオは、はばかりなく胸に飛び込んできた義弟を抱き止めた。
「ランセル・・・すまぬ、そうではない。だが、そなたの力を借りたいのだ。」
「え・・・。」
全く訳が分からず黙り込んだランセルは、ここで隣にいる者にも目を向ける。
「兄上・・・彼は?」
そう訊かれて、その男に目をやったエミリオは、それからランセルに向き直ると、その男・・・ギルに対してもこう答えた。
「これまで、誰よりも私の心を支えてくれた者だ。そなたももう存じているように、私はこれまで己の罪深さに苛まれ続けていた。その私を励まし、力になってくれた者だ。」
ギルは、頭巾の陰の中にある顔を、ランセルにだけ分かるように上げた。
二人の目が合った。
その瞬間、ランセルはまさかと思った。
ランセルは、話に聞いただけだが、稀な青紫色の瞳をした端整な男を、一人知っている。それは、かつて兄が生死を賭けて対決した相手。アルバドル帝国の英雄ギルベルト皇子である。ヘルクトロイの戦いが起こった時に気になったランセルは、その心境を思ってエミリオ本人に問うことはなかったが、代わりに、側近からそれについての話を聞きだしていた。
そして、今ここで目が合っているその男は端整な顔立ちで、その双眸は・・・青紫色なのである。
ギルは頭巾を後ろへやり、立ち上がって堂々と顔を見せた。
すると途端に、ランセルがいた場所から騒々しい音が。
控えている従者の誰もが、愕然としながらも一斉に剣の柄に手を掛けたのである。条件反射だった。ヘルクトロイの戦いでそら恐ろしいまでの強さを見せつけ、さんざん苦しめてくれたギルベルト皇子の存在を知っているからだ。
「止めろ!」
ランセルは厳しい口調でそれらを制した。
「アドルバート侯の前で、無礼な真似はするな。」
エルファラム帝国でもまた、ギルベルト皇子は死亡したと知れ渡っている。理由はどうであれ、ギルも、もはやエミリオ同様にその存在を消されている身であるととれても、ロダンは、今や関係を修復し、友好的な付き合いをしている国の立派な皇族なのである。
「は、申し訳ございません、殿下。」
従者たちは引き抜きかけた剣を速やかに収めたが、ギルの方では思わず両手を上げていた。
「まあ・・・恨まれて当然か。」
何一つ理解できずに、ランセルは困惑を隠しきれない面持ちで向き直る。
「兄上・・・これは一体。」
「ランセル、事情はあとで詳しく説明する。とにかく父上に会わねば。父上はどこにいる。」
エミリオがランセルの顔を覗きこむようにそう問うと、ランセルは悲しげに視線を落とした。
「体調を崩されて休まれています・・・。」
か細い声で悄然と答えるランセルの姿に、エミリオは、これまで心配していた通りそれが一時的なものではなく、父が今どういう状態にあるのかを悟った。
この豪華絢爛とした王宮の中にありながら至ってシンプルな内装のそこは、エミリオにとっては並々ならぬ愛着の湧く部屋だった。
エミリオは、昔のままにそこにあるサテンのソファーを見つめていた。そこに、幼き日の自分と母がいるからである。そして窓辺には、ほほ笑みを浮かべて愛する妻と我が子を見守る父の姿・・・。切ない微笑をそこに向けたエミリオは、ランセルと共に、そのまま部屋の側面にあるドアの前に立った。この部屋を通らなければ入れないそこに数か月前から皇帝ルシアスは入り浸るようになり、今はそこで療養しているのだという。
この時、ギルとロダンは廊下で待たされていた。
そこへは従者も付き添わず、エミリオとランセルだけが入って行った。
するとルシアスは、エミリオが思わず眉根を寄せるほどに弱々しく、以前の貫禄などすっかり抜け落ちた変わり果てた姿で、静かに横になっていた。
そんな父の枕元にそっと現れたエミリオは、そこに両膝を付いて少し屈みこんだ。
「おお・・・エミリオ、まことエミリオか。余を迎えに来てくれたのだな。」
別段驚きもせずに虚ろな眼差しを向けたルシアスは、黄泉の国を見つめているつもりでそう言った。
エミリオは、悲愴なまでに痩せ細った父のその手を、両手で丁寧に拾い上げた。
「父上、お気を確かに。私は、みなに嘘をついておりました。私はこの通り生きてはおりますが、国民にはどうかこのままで。私がここへ戻ることはありませんから。」
これを聞いたランセルは、僅かに抱きかけていた期待を完全に断ち切った。
だが、不思議と意図したほどの悲しみはなかった。エミリオがロイド家を訪れるために一度この国へ戻ったとランセルが知ったあの日、兄がもう過去の辛い記憶に苛まれることなく、今は新たな人生を前向きに歩み始めたのだと悟った。それにホッとすると同時に、それを応援したいという気持ちを抱いたのである。多くの仲間を得ることもできた、生まれ変わった兄を。その思いが、ランセルにこの時、絶望感を味わわせなかったからだ。
一方、憔悴しきったルシアスは、エミリオに向かって懸命に口を動かし続けている。囁くようなか細い声で。
「エミリオ・・・余を許してくれるか。余は疲れておったのだ。しかし、そなたのこともフェルミスのことも、ひとときも忘れず愛しておった。」
「分かっています、父上。」
悲しいことに、まともに話ができそうにないそんな父の姿に、エミリオはそのまま部屋をあとにするしかなかった。
エミリオは最後に、ルシアスがこよなく愛した、今は亡き先代皇后フェルミスによく似たその顔で、父に優しくほほ笑みかけてから退室していった。