計画、始動
「クラレス!」
驚いて声を上げたロベルトは、エミリオ皇子の前で膝を付いたクラレスが、何の躊躇いもなく両手を伸ばして、そのまま皇子の体をぎゅっと引き寄せるのを見た。まるで我が子を抱きしめるかのように。
これにはエミリオも驚いた。そして、たちまち熱くなった目頭から、危うく零れそうになった涙をあわてて堪えた。まるで母に抱き締められているような、切なくて懐かしい同じ温もりを感じたせいだ。
母上・・・されるままに身を委ねたエミリオは、胸の内で一言そう囁いた。
やがてクラレスは、エミリオ皇子の首に回していた腕を解いて顔を上げると、立ち上がって夫を振り返った。
「陛下、わたくしには分かります。ヘルクトロイの戦い、エミリオ皇子にはどれほど辛いものだったか・・・。彼は、この国の誰もが愛したフェルミスお姉様の実子でございますよ。」
渋面を浮かべて妻とエミリオの二人を見つめる父ロベルトと、それを真っ直ぐに見つめ返す母クラレスを黙って見守っていたギルは、母のこの思わぬ行動を利用して、ここぞとばかりに話を戻した。
「周知の通り彼は屈強の戦士。呪術を学ぶ理由などどこにもなく、また呪術も、生半可な気持ちで身につけられるようなものではありません。それでもなぜ、彼がそれに応え、そうまでせねばならなかったかを、よくお考えになられてみてください。そして、今この大陸の西で巻き起こっている狂気じみた戦争を。」
ギルも無礼を承知で立ち上がった。
「私が、わざわざたわけた嘘をつきに、この耐え難い恥辱と、そのお叱りを受けるのを承知で戻ったとお思いか。」
ディオマルクも間髪入れずに続ける。
「陛下、ギルベルト皇子が申していることは、何もかも真実なのです。すでに、我らダルアバス王国は動き始めています。モルドドゥーロ大公国が落ちれば、瞬く間に我らのダルアバスも地獄と化すでしょう。何とぞお力をお貸しください。」
険しい表情のまま、ロベルト皇帝はしばらく口を利かなかった。
これに続くやや長い沈黙の中で、陛下の機嫌をうかがいながら、誰もが落ち着かないままただ待っていた。この場はどう収まるのかと。
やがて、ようやく口を開いたロベルトは、低い声でひと言こう言った。
「ギルベルト・・・そなた、私にそのようなことを頼むのは、お門違いというものだ。」と。
「重々承知です。ですが 一一」
「今、軍事を取り仕切っておるのは、アドルバート侯ロダンだ。」
ギルは、驚いたように父を見た。
ロベルトは席を立ち、息子には目もくれずにディオマルク王子のそばへ行くと言った。
「遠路はるばるお越しいただき、お疲れでしょう。今宵はごゆるりとされるがいい。」
ロベルトはそれから、エミリオ皇子の傍らで佇んでいる妻のクラレスを促して、謁見の間を去って行った。その時クラレスは何度も息子の顔を振り返り、その目をギルも見つめ返していたが、ロベルトが顧みることは一度もなかった。
「・・・父上。」
ギルはいくらかためらったものの、二度とここでそう呼ぶことはないだろうその言葉を、切なさと愛しさを滲ませて口に乗せた。
皇帝と皇后が部屋を出るまで待っていたアナリスとロダンが、あわてて立ち上がり駆け寄ってきた。
「お兄様!」
「殿下っ。」
「ロダン、時間が無い。すぐにエミリオ皇子と共にエルファラム帝国へ向かわねばならん。かの国の軍隊も必要なのだ。連合軍を用意して欲しい。」
ロダンと面と向かい合ったギルは、切羽詰まる声できっぱりとそう言った。
仰天するあまり、一瞬、声を詰まらせるロダン。
「本気ですか !?」
「嘘も本気も、やらねばならんのだ。さもなくば、大陸が滅びることになる。そなたは我々と共に来て、エルファラムのランセル皇太子と話をつけて欲しい。」
硬い表情でさすがに考え込んだ様子のロダンだったが、すぐに心を決めると首を縦に振ってみせた。
「・・・分かりました、やってみましょう。ただ軍は・・・動かせても五万が限度だと思います。」
「可能な範囲でいい。頼む。」
「では、すぐに緊急会議を開いて、我々が帝都エルファラムへ向かうそのあいだにも、準備を進めておくのがよいでしょう。一晩待っていただけますか。ここは居辛いでしょうから、今夜は離宮の方でお休みください。」
「すまない。ああロダン、我々が戻るまで、ディオマルク王子をここで待たせてくれないか。エルファラムとは、王子は何の関係もないのでな。」
「無論です。ディオマルク王子、どうぞ、思いのままにお過ごしください。すぐにお付きの者を参らせます。」
「すまぬ。では、ご厚意に甘えて、それまで好きに楽しませてもらうとしよう。」
ひとまず、親友のためこの大陸のため、父レイノルダス大王を説得してその承諾を得ることと、ギルとエミリオの二人をロベルト皇帝に上手く会わせるという大仕事をやり遂げたディオマルクは、やっと緊張が解かれる思いでホッと吐息をついた。
「ああ、無理難題を押し付けてすまなかった。それに・・・いろいろと巻き込んじまって。」
いつになく悪びれた素振りを見せるギルベルトに、ディオマルクは、今度は屈託ない微笑を返す。
「次には、余に会いたくなったと訪れてくれる気になったか。」
ギルはふっとほほ笑み返して、うなずいた。