心より感謝を
ランセル皇子である。
馬から降りて来た皇子も、慣れた様子で親子に歩み寄って行く。
数名いる近衛騎士も次々とあとに続いた。騎士たちは皇子のやや斜め後ろに控えながら、夫人に礼儀正しく挨拶をした。
別れの寂しさから曇りがちだった少女たちの顔に、この時、パッと明るい光が射し込んだ。
「皇子様!」
ランセルは優しい微笑を浮かべた。腰を落として、愛想良く駆け寄ってきた少女たちを抱き止めるその仕草も自然だ。
「やあナディア、パティ、元気にしてたかい。」
「うんっ。」
従者たちは、のちに大国の皇帝となるこの若い皇太子の心の美しさに嬉しくなり、それに、かつてもう一人いた、未だ全ての臣民に愛されている慈悲深い第一皇子の姿を重ねて見ていた。
「今日も・・・受け取ってもらえますね。」
ランセルは、夫人を見てそう言った。
皇子には、いくらか気後れしている様子がうかがえた。やはり、実はここを訪問することを皇室や従者たちからよく思われていないのでは・・・と、夫人は考えた。
「あの・・・どうか、これ以上お気を使われますのは・・・。」
「何か・・・問題でも?」
「いえ、そうでは・・・正直に申しますと、とても助かっております。ですが・・・恐れ多いのです。主人のことなら、お気になさらないでください。そのために、皇太子様がわざわざこのようにしてくださるかと思うと・・・。」
「そうか・・・。では、私に勉強をさせてはもらえないだろうか。民を知り、国を知る。しかしみな遠慮して、素直な意見ができないようだ。それに、私にはもう、母も兄もいない。だから、よければ私の話し相手になってはくれないか。ナディアやパティにも。何よりあなた方は、特にご主人は、この上ない手柄を立てられた。尊敬に値する見事なまでの信念のもとに。よってこれは、あなたが受け取ることのできる妥当で正当なものです。それなら、受け取ってもらえますか。」
実際にそこでそれを見せたわけではないが、これはというのは無論、次に訪れるまでの充分な生活費にあたる金銭である。
夫人はその話にもいくらかためらったものの、結局はいつものように首を縦に振っていた。
「え・・・ええ・・・ありがとうございます。」
「よかった。実は、このことがあなた方を辱めることにもなりかねないと、つい先日、側近の者に忠告されたところだったのです。自分は、そのことにも気付かないほど配慮がなっていない。私は、国民のための政治がしたいのだ。今はほとんど周りに助けられての執政だが、いずれは立派に兄上の意志を継いだ統治をと思っている。」
「あの・・・では、私に対してその・・・言葉遣いを・・・。」
ランセルは、威厳の中にも、彼女に対して、知らずとへりくだったものの言い方をしていた。それは従者たちも気になるところで、彼はいつもそうだった。そして夫人も、それが恐れ多くてならなかったのである。
ランセルは、今気付いたというような顔をして、自分の騎士たちを振り返った。一様に、やれやれという苦笑にも似た面持ちだ。
「兄上の恩人である人の家族だから・・・つい・・・。」
「恩人・・・。」
その言葉を噛み締める夫人の瞳から、一滴の涙が頬を伝った。夫人は、ややうつむいてそれを拭った。それから顔をあげて、遠慮がちにほほ笑んでみせた。
「主人は、あの時ただ夢中で・・・とにかく必死でした。それは・・・とても光栄なことですわ。」
ここでふと、ランセルは、そばにいるほかの気配に気づいた。
何か言いたそうに、ナディアがニコニコと笑顔を向けてくる。
気づいてもらえたと分かったところで、ナディアは声を弾ませてこう言った。
「ねえ皇子様、聞いて。昨日ね、ずっと前に友達になった綺麗なお兄ちゃんが、たくさんお友達を連れて遊びに来てくれたの。でね、さっき帰っていったの。」
焦ったのは夫人である。
「ナディア!」
なぜいきなり怒鳴られたのか分からず、ナディアはびくっと肩を飛び上がらせて、母を怪訝そうに見つめる。
「え・・・綺麗なお兄さん・・・?友達?」
次の瞬間、ランセルは、木々の間を透かし見るように目を凝らしていた。が、今すぐ追いかけて探しに行こうなどとは、もはや思わなかった。
ランセルはただため息をつくと、訳も分からず母に叱られて、怯えているナディアに目を向け直した。そして、優しくほほ笑みかけながらきく。
「そのお兄さんは、寂しそうにしていなかったかな。何か・・・言った?」
「えっとね・・・えっと・・・。」
一方、懸命に答えようとするナディアを、夫人は黙って見守っていた。少し時間がかかった。
思いきることができるまで。
「救われた命を無駄にはしないと・・・その方が。」
それは、ランセルが気になる全てを答えていた。
そして夫人の面上には、そのひと言以上に何か語りかけてくる微笑が浮かんでいる。
それを、ランセルも確かに感じ取った。それで充分だった。
「そうか・・・。」
ランセルはまた、森の小道のずっと先に視線を向けた。そして、それが雑木林と重なり、分からなくなるところを見つめて、一人そっとほほ笑んだ。
その頃、一行は森を抜けて、だだっ広いすすき野原の細道を歩いていた。他愛ない会話に軽い冗談を交わし、明るい笑い声を上げながら、気のいい仲間たちと軽快に旅路を進んでいた。
仲間たちのお喋りににこやかな笑顔で応えていたエミリオは、ふと地平線に目を向け、絹積雲が彼方まで続いている爽やかな青空と、すすきの穂がそよぐ白銀の大地を眺めた。
私は、報いなければならない・・・。
エミリオはそのまま、空高く視線を上げていく。
この先は堂々と前を向いて、振り返らずに歩いて行こう。あなたのおかげで今ある我が身、悔いなく生かしきれるように。
心より感謝します・・・命の恩人、ウィル・ロイド殿。