ランセル皇子の償い
夫人の好意に甘えて、一行は、大人数で小さなロイド家に転がり込むことになった。
平屋造りの家の玄関を開けると、狭い廊下が伸びていて、客人たちはそのまま暖炉のある奥の居間に通された。
その部屋に入るなり、エミリオは記憶と雰囲気が違うことに気付いた。必要最小限の家具しかない内装に以前と大きな変化が見られたわけではなかったが、壁や床が部分的に張り替えられてあるのは一目で分かり、家具の細かい破損箇所に至るまで、主人も貧しさゆえ手を付けられなかったらしいところが、見事に修繕されている。
誰が直したのだろう・・・と考えているエミリオの様子に気付いた夫人は、自分の方からこう答えた。
「ランセル皇子が、お忍びでいらっしゃるのです。」と。
エミリオは驚いた。それで言葉もなく、ただ目を大きくして夫人の顔を見つめた。
その思いを察して、夫人は続ける。
「皇子様はここへ初めていらした時に、こうおっしゃいました。兄上と、夫や私たち家族への、せめてもの罪滅ぼしをさせて欲しい。兄上はきっと、あなた方のことが気掛かりでならないだろうから・・・と。でも、いらっしゃる時はいつも朝方ですから、今日はもうお見えになることはありませんわ。」
動揺を隠せないでいるエミリオに、イヴがそっと歩み寄った。
「あの時やっぱり気付いたのね、ランセル皇子・・・。」
イヴのその言葉の意味が、エミリオにはすぐに理解できた。あの時・・・ヴェネッサの町で、偶然ランセルと再会した日のことである。エミリオは考えた。自分が刺客たちからどう逃げきったかを彼が詳しく知ったり、この家族と関わりを持ったりするのは、シャロン皇妃が亡くなった今なら難しいことではなかったろうが、彼にその気持ちを起こさせたのは、ヴェネッサの町で再会して、自分が生きていると確信を持ったことがきっかけに違いないと。夫人のその話は、そう推測できるものだった。だから同時に、エミリオはあの時必死で別人のふりをしてみせたものの、結局は気付かれたのだとイヴにも分かったのである。
「皇子様は、その時にこの家の様相を知られて、初めは家具を買いそろえ直そうとしてくださったんです。でも、主人との思い出を大切にしたいのでと申し上げましたら、何かハッとされたご様子で、それでいろいろと修理をしてくださったあとは、充分すぎるほどの生活費まで援助してくださるようになって・・・。」
夫人はそれから、リューイが見ているそばで、キースを撫で回しているナディアとパティに目を向けた。
「あの子たちにも、とてもよくしてくださるのです。私は恐れ多くて、正直なところ少し戸惑っているのですが、実際、とても助かっているので・・・。そのおかげで、こうして主人の立派なお墓をたてることもできたのです。」
エミリオは複雑な心境だった。己がもたらしたものの代償として与えられた何不自由のない暮らしであっても、この家族にとって裕福であることは幸せではなく、どう配慮しても満たされるものではない。貧しくとも、以前の幸せに敵うものなどないのである。それを、ランセルも承知で関わり続けていくのだろうと思うと、何か過ちに気づいた気がしていたエミリオの胸に、己の罪深さを恥じる気持ちや苦しみが引き返してきた。
エミリオがまた沈み込んでしまい、何も返せないままでいると、夫人は言った。
「私の最後の言葉、覚えていますか。」と。
忘れるはずもなかった。
〝主人の死を無駄にしないで・・・!〟
何よりもその言葉が深く胸に突き刺さっているために、どれほど罪深さに苛まれて生きる気力を無くしても、自暴自棄になることも無駄に自害することもできなかったのだから。
エミリオは辛そうに頷いたそのまま、下を向いた。
夫人は、静かに動いて彼の真正面に立っていた。
それに気付いたエミリオが戸惑うような顔を上げると、夫人の両手が伸びてきて頬に添えられたのである。
本人はもちろん、仲間の誰もが驚いて目を向けた。
夫人は、エミリオの顔を両手で抱いていた。そのように見えた。聖母と見紛う優しい微笑みを、真っ直ぐに彼の瞳に向けている。
萎え果てた心が、何か温かいものに包み込まれるような感覚。この感じ・・・知っていると、エミリオは気づいた。瀕死の体を救われたあの日、己の境遇や罪悪感に耐えきれなくなり、泣きだした自分を抱き締めてくれた・・・・その時と同じだ。
「本当に・・・よく生きて、会いに来てくださいました。」
夫人はひとつひとつ丁寧に、ゆっくりとその言葉を述べた。
本当のところは、まさにあの日そうして彼を落ち着かせたように、その顔を胸に抱き寄せたい思いでいた夫人。しかし立っている彼とでは身長差がありすぎるため、せめてそうするしかできなかったのである。それでも、夫人が意図したことは、幸い上手く伝えることができた。
そして、ようやくエミリオ皇子にはっきりと気づかせたのである。エミリオはこれまで、あの出来事を思い返す度に自虐し続け、ひどい自己嫌悪に陥るばかりだった。心の中でひたすら「すまない・・・。」を繰り返し、「ありがとう・・・。」と言ったことなど無かったのではないか・・・と。
やっと、彼の心をいくらか宥めることができたようであるのを見て取ると、夫人はレッドやリューイに向かって言った。
「申し訳ありませんが、椅子が全く足りませんのでゴザの上でお寛ぎください。今、持ってきますから。テーブルを隅の方へ運んでいただけますかしら。」
快諾した二人に礼を言うと、夫人はいったん居間を出て行った。
ギルは、我ながらよく決断したと己惚れた。思い切ってやってきて正解だったと。そんな顔でエミリオのことを見つめていたので、気づかれたのか目が合った。謝る以上に感謝すべきだということに、きっとあいつも気づいたろう。この長い旅のあいだもずっと苦しんでいた、そんな相棒が返してきた気弱な微笑は、そう見て取れるものだった。
やがて、居間の真ん中にいぐさで編まれたゴザが敷かれた。
早速、もてなしの準備のために、夫人は子供たちを連れてまた部屋を出て行った。
一行は、ゴザの上に適当に腰を下ろした。
ミーアだけは、部屋の隅にいるキースに凭れて、どうもひと眠りしようとしている。それに気づいたレッドは滅入る思いがした。夕食前のこの時間にこうなると、実際ひと眠りといえるものでは済まず、無理やり起こす羽目になる。するとこのお年頃ではどうなるかというと、とたんに不機嫌になり泣いて暴れ出されるという幼い子供の行動パターンを学んだレッドは、また手を焼かされるなとため息をついて、仲間たちの会話に戻った。
話題はいろいろと転々としたが、そのうち、帝都の街の様子や目にしてきた建築物、それに、たまたま見かけた一風変わった通行人などの話になった。
「本当に素敵な街だったわね。」と、メイリンが声を弾ませた。
「中でも新築の建物が目立っていたが、低所得者のための賃貸住宅とかじゃないか。とにかく街は活気と笑顔で溢れていたよ。」
レッドは、余計なことまで言わないように慎重になりながら、エミリオのためにそう報告した。
エミリオは、安堵の笑みを浮かべた。
「それに、あのすごい宮殿 —— 」
「行ったのか。」
ギルはすかさず、そう言いだしたカイルを見た。
同行した誰もが、焦ってカイルに注目。
しまった・・・という顔で、カイルは肩をすくめる。
「ごめん・・・。」
「叱られるようなことではないよ。なぜだい。」
エミリオは穏やかに問う。
「だって、いろいろと何か嫌なこと思い出すかもしれないから、絶対言うなって・・・レッドが。」
カイルの指先が向いているところで、レッドは口元をひきつらせている。
「だから、それを言うなって・・・。」
「いや、それは叱られるべきだぞ。」と、そこでギルが、わざとらしく顔をしかめてこう言った。「おかげで、俺たちの昼飯が遅くなった。」
レッドの口からふっと笑い声が漏れた。心配しすぎだったか・・・と思い、ほかの者たちも、今はもう普段と変わらない様子でいるエミリオに笑顔を交わし合う。
「でも、あんなピカピカの偉そうな皇宮の皇子様が、どうしてこんなにいい人なんだろ。不思議・・・。」
カイルの勝手な偏見にあきれたレッドだったが、そこでまたパン屋の主人の話を思い出して、言った。
「そういえば、先代皇后のおかげで、皇帝もずいぶん変わったと聞いた。エルファラム帝国は昔から大陸でも屈指の強国、ヴルノーラ地方では長く頂点に君臨してきたような国だが、臣民の生活は今のように平穏ではなかったんだろうな。例えば、軍事大国とも言われるだけあって、そのための取り立てが厳しかったとか。」
「確かに・・・昔は軍事費や、皇族の生活を潤すためにその多くが使われたらしいが、それを母上が上手く間接的に変えていったと、私に学問を授けてくれた恩師が密かに教えてくれたことがあった。」
「つまり、エミリオの父親であるルシアス皇帝は、もともとはピカピカの偉そうな皇宮がよく似合う性格だったわけか。実際、フェルミス皇后も脅されて嫁いだ政略結婚だしな。若い頃は、権力を欲しいままにしていたんだろう。」
ギルが言った。
「じゃあ、エミリオがいい人なのは、お母様がそんな人でも丸くしてしまうほどの優しさと魅力と、才能を持っていたからなのね。どうしたら、そんなに素敵な女性になれるのかしら。」
シャナイアは憧れ羨ましそうな顔をしている。
「そりゃあ、初め弱小国で、平民にも支えられながら成り立っていたアルバドルで育ったからだろう。彼女は聡明で、国のため臣民のため勉学にも励んだそうだ。そう母上が《《姉》》自慢をしていた。」
ギルが、あまりにも自然な口ぶりと流れのままに答えた。
沈黙におおわれた。