恩人の家
川幅は次第に狭まり、見えていた吊り橋を渡ると、その向こうには緩やかな九十九折の小路が続いていた。
この広葉樹林の中に佇む家はほとんどなく、あっても廃屋か、ひっそりとして人の気配が感じられないかのどちらか。おかげで、誰にも見られることなく、一行は目的の場所までやってくることができた。
その家もまた物音一つせず、シンと静まり返っていたが、確かな生活感が漂っていた。全体的には木造の小さな家で、外壁には農具が立て掛けられている。そして、石造りの暖炉の煙突が、取って付けたように家の横に張り出してあった。庭となっているスペースにはエミリオの記憶のままに井戸があり、蓋の上に滑車にかけられた木桶が乗っていて、水を汲んで浸けてあるらしい野菜がその中から覗いている。
とりあえず、誰か住んではいるようだ。
しかしそれが、あの日のままエミリオが気にかけている親子であるとは限らない。彼女たちはどこかへ移り住んで行き、今は別の家族が暮らしているのかもしれない。生活に困っても話せる事情ではないと思うことから、様子が見られないとなると、悪い方にしか考えられない。やはり無事でいる姿を一目確認したいと、エミリオはとにかく落ち着かなかった。
そんなエミリオと仲間たちは、頭を低くして周囲の藪に隠れていた。そこから様子を窺っているばかりでいたが、真正面に見える腰窓から中を覗くことができそうである。
「留守かな。」
声を潜めてレッドが言った。
「俺が見てきてやるよ。気配を殺すのは得意だ。」と、リューイが胸を張った。
左右を気にしながらも、素早く窓に忍び寄るリューイ。慎重に中を覗いてみる。
ところが、ほかの者たちが見ているうち、リューイは堂々と背筋を伸ばしたかと思うと、きょろきょろと不審者丸出しで室内を覗きこみだしたのである。
仲間たちは呆気にとられ、レッドなどは駆け寄って頭を殴ってやりたい気持ちになったが、その前にリューイは、今度は家の反対側へと勝手に回りこんで行ってしまった。
だが束の間だった。レッドが連れ戻そうと腰を上げる前に、リューイは戻ってきたのである。
背後に、女性と二人の少女を引き連れて・・・。
家の角から姿を現したリューイは、そこで立ち止って、困ったように頭を掻きながら、その女性と何か言葉を交わしている。
そしてついに・・・頭にやっていた指先を、仲間たちが隠れている茂みの方へ向けた。
「何考えてんだ、あいつ・・・。」
レッドは焦った。
そのうえ、さらにどうしようもなくなるリューイの軽い声が飛んできたのである。
「おーいみんな、悪りい・・・ちょうど帰ってこられて、バレちまった。何て言ったらいいか分からなくて、そのまま言っちまった。」
冷や汗をかきながら、ギルも額に手をやった。
「あいつを行かせたのは間違いだった。」
「一番ごまかすってことができないヤツだからな。言葉を知らねえから・・・。」と、レッドもため息混じりだ。
そして、エミリオの顔をそっと窺う仲間たち。もはや対面するほかないだろう。
エミリオはゆっくりと立ち上がり、藪の中から姿を現した。
合わせる顔がない・・・といったひどく気まずそうな表情が、仲間たちの目にあまりにも痛ましく映る。
一方、驚いた顔で固まっていたその女性は、ハッと息を飲みこむと、空いている方の 一一 子供の手と繋がっていない方の 一一 手を口に当てた。
「・・・ああ、生きておられたのですね。」
震える声でつぶやいたそれは、そばにいるリューイにしか聞き取ることはできなかったが、ギルやレッドは、それよりも真っ先に気になった少女たちの反応に目を向ける。
すると、幼い姉妹の顔には、めいいっぱい嬉しそうな笑顔が広がっていた。
「お兄ちゃんだ!」
そう叫んだのは、背が高い方の女の子。少女は、妹の手を強く引っ張り駆け出した。おかげで真ん中にいたその妹の手と、母親の手が離れてしまう。それを気にもしないで、背が低い少女の方もまた一生懸命についてきた。
「ナディア、パティ・・・。」
懐かしいその名前を、エミリオは恐る恐る口にした。本来ならこのまま静かに立ち去りたかったエミリオの足は今、羞恥心と罪悪感で動けずにいる。
そんな様子のおかしさにも構わず、無邪気な姉妹はまっしぐらに駆け寄ってきて、エミリオの腰にしがみついた。
「お兄ちゃん、悪い人たちから、ちゃんと逃げれた?」
「逃げれた?」
姉のナディアの言葉を、妹のパティが真似をした。
この光景を、ギルはまともに見ることができなかった。エミリオの立場や、父親がなぜ死んだのかをまだきちんと理解できないだろう、そのあまりに無垢な姿と単調なセリフは、ギルの想像の中で、ここで起こった惨劇をよけいに残酷なものにした。そして、そんな少女たちを、砕けそうな心で辛うじて受け止めているエミリオの姿・・・泣きたくもなるその問いに、笑って答えるには酷過ぎると、ギルは思った。
「ねえ、もう大丈夫?あの悪い人たち、もう追いかけてこないよね。」
「こないよね?」
エミリオはたまらず目を閉じた。零れそうな涙を堪え、動悸を必死におさえる。そして、この子たちはあの日の父親の言葉が分かっていないのだと思い、複雑な気持ちで目を開けると、不安そうに見つめてくる姉妹にほんの少し頬を緩めてみせた。
「ああ・・・。」
やっと出て来たその声はひどくか細かったが、ナディアとパティは笑顔で、はっきりと声をそろえた。
「よかった!」
エミリオは、夫人に目を向けた。
あの日のことを、子供たちからきかれなかったのだろうか・・・。
そんな彼を見て、微笑みを浮かべた夫人は、ゆっくりと一つうなずいてみせた。