初めの頃
柔らかい陽の光りが降り注ぐ、のどかな午後だった。
からっとした心地良い風が吹き抜けていき、その度に、頭上の木の葉がかさかさと音をたててざわめいた。
この大陸では、それぞれの地域で一年を通して極端な違いは見られず、微妙に移り変わる季節の中で、今は秋も深まる頃。この時期、ここ北のヴルノーラ地方では、夜には寒さが応えるようになり、日中でも風が肌身に滲みてくる。重ね着ることが嫌いなリューイでさえ、外を歩く時は防寒着を着ずにはいられない気温になる。
エミリオとギルは、落ち葉で埋め尽くされた人気のない森の中にいた。数メートル眼下に大きな川が流れている場所に立って、話をしながら暇を潰していた。まとまった雨でも降れば、すぐに土砂崩れが起こりそうな場所だ。現に、すぐ目の前の川べりには、その跡が見られる。
「こんな状態だったのか・・・。」
エミリオが川を見下ろして呟いた。
「どういう意味だ。」
少し無言でいたあとで、ギルはきいた。
「皇宮を逃れた夜、この場所で、私は刺客の兵士を相手に戦ったんだ。暗くて足元はよく分からなかったが、その案内 札は覚えている。」
そう答えて、エミリオは、地面に突き立てられてある近くの立て札を指差した。
「逃れた夜・・・。」
ギルは小声で繰り返した。話を続けさせていいものかと考えたが、黙って様子を見ることにした。
エミリオはギルの顔から川の方へ視線を向けると、伏し目で語り始めた。
「皇宮を出たもののどうすればいいのか分からず、絶望感を引き摺りながらも、とりあえず隠れなければと、この森に入った。生きる気力も無くしていたはずなのに、刺客たちに追いつかれて私は・・・彼らを相手に剣を振るったんだ。自分が分からず、あの時はひどく自己嫌悪に陥った。」
「体に戦いが沁みついているからだ。だが、防御の構えしかとらなかったんだろ。俺にはもう、お前が言わなくても分かるよ。」
「別の場所で、一度目の襲撃を受けて肩を負傷したが・・・。そして、そのままここへ来て、ここから足を踏み外し、この川へ落ちた。」
「そうだったのか・・・。お前の肩の傷を見た時から、気にはなっていたんだ。ショックでもあった。俺以外の男に、お前がやられたのを見て。だが、そういうことなら話は別だな。」
そう答えると同時に、ギルはあの頃の自分たちをしみじみと思い出した。
初め、エミリオは全く皇子としての雰囲気が抜けきっておらず、この先どうなることかと、正直不安でもあった。とにかく、二人でやれるところまでやってみようと思った。だがすぐにレッドやリューイたちと出会い、その頃には想像もつかない展開を迎えることになった。何もかも、聞けばとんでもない運命によるものと教えられたギルだったが、それに感謝の一つもしたいほどだった。そのおかげで最高の仲間と出会い、理想の女性と相思相愛になれ、新たな夢と進む道を見つけることもできたのだから。
だがギルには、ただ一つ喜べないことがある。やはり、最終的にエミリオが一人になった時のことを考えると、どうにも心配でならない。セシリアを一人で送り届けると聞かされた時から、ギルはそのことばかりが気掛かりで仕方がなかった。
そのエミリオはいつもの読めない表情で、腕を伸ばして向こう岸を指差している。
「私はこのまま下流へ流されたから、その家族の家はきっとあの辺りだ。吊り橋の向こうの、あの森の木が切り開かれているところ。」
その場所を確認してから、ギルは、エミリオの横顔にこう話しかけた。
「なあ覚えているか、初めの頃の俺たち。一緒に川遊びをしたろ。」
「ああ。君が朝飯はこいつらだと言って、いきなり手掴みで川魚を捕まえだした。」
その時のことが鮮明に思い出され、懐かしさでエミリオの頬には笑みが浮かんだ。
「あの時は驚いたな。生でそれを食べるのかと思ったから。」
「そんな顔してたな。」
二人は声を上げて笑った。
「あの時は俺たちだけだった。旅は道連れ・・・成り行きに身を任せてみようと、先のことも、カイルの言う運命とやらもろくに考えずに過ごしてきたが、まさか・・・こうなるとはな。」
「想像もつかなかった。」
「お前は、世にも不思議な技だか、術まで覚えさせられる羽目になったしな。」
エミリオは苦笑で応えた。
「それについては、正直なところまだ戸惑ってはいるし、自信も無いが・・・今では、カイルの言っていたことも全て信じられる。恐ろしいことだが・・・その日は確実に来るような気がするんだ。」
「これだけ摩訶不思議で、奇奇怪怪な出来事ばかりに出くわしてきたんじゃな。特に、ニルスよりもジュノンの森の一件でお前の力を見せつけられた時には、俺でもさすがに怖くなったよ。自分についての自覚は、相変わらずだが。」
「大陸の終焉など考えたくもないが・・・もし、本当にそこで私が必要とされているのなら、少なくともそれまでは・・・私にも、存在価値があるのだな。」
エミリオはいきなり、どこか悲哀めいた口調でそう言いだした。
ギルは、呆れるよりも先に不安にさせられた。
「おい、しっかりしてくれ。そんなこと考えるなって前にも言ったろ。それに、セシリアにもお前が必要だ。一緒にいてやるんだろ?」
「エドリースに平和が戻るまでだが。」と、エミリオは事務的な口調で答えた。
「そのあと・・・どこを目指すつもりだ。」
「実は、そのまま彼女の国で暮らそうと思っている。私にできることは、楽を奏でることと、戦うことだ。いつか平和な時代になり戦争がなくなるとしても、警備は必要だろう。だから、そういう仕事に志願すれば、また何か問題が起きた時には、彼女の護衛ができるかもしれない。」
初めて聞くことが出来た、エミリオの具体的な身の振り方だ。だがギルには、それをいい考えだと言って同意してやることはできなかった。
それで、ギルは言った。
「お前の腕なら確実だが、そんな回りくどいことを考えなくても、彼女を連れて帰った時点で、それは向こうから話があると思うぞ。だが・・・一つきいていいか。」
「なんだい。」
いくらかためらったが、ギルは確かめずにはいられなかったのである。
「それって・・・そういうのを、愛してるって言わないのか。それは、お前の優しさや思いやりを越えているような気がするんだがな。」
エミリオの表情に、かすかな変化があった。それから、すぐには答えず、何か核心をつかれたようにも見える顔をしたが、はっきりと頷くことはなかった。
「・・・よく・・・分からないんだ。」
ギルのその目から視線を逸らして、やがてエミリオは答えた。
例えセシリアと両想いになれたとしても、今は才能しかないエミリオが、その身分でセシリア王女と一緒になれる可能性は無に等しく、しかも下手をすれば、彼女のそばにいることすらできなくなる恐れもある。
そしてギルには、二人はいずれ本気で愛し合うようになるだろうという、強い予感があった。
「きっと・・・辛いぞ。」
ギルは、囁くようにそっと言った。
「・・・そうかもしれない。」
まだ何ともいえない感情だと言っていたその声に、今、胸が締め付けられるような切なさが滲んでいたのは確かだった。
ギルは無性にやるせなくなり、「いっそのこと、いつまでも二人で暮らすことを考えてみたらどうだ。その方が、彼女はずっと安全で幸せかもしれないぜ。」と、胸の内だけで思っていたことを口にした。
「彼女には家族がいる。きっと、彼女の身を案じて止まないはずだ。」
視線を上げたエミリオの口から、そんな割り切ったような声がでてきた。
「そうだな。分かってて言ってみたんだがな・・・。」と、ギルはため息混じりに返した。