最悪だ・・・
主宮殿へと戻ってたどり着いた先は、天井の高い二階の大広間だった。ほかの室内の照明は消されているのがほとんどだが、ここでは大きなシャンデリアが全て灯っていた。おかげで壁や柱の細微な漆喰細工が分かり、広い踊り場がある階段が玉座へと続いている奥の様相まで見てとることができた。
そこに、中肉中背の見知らぬ男が一人、異様に落ち着き払った・・・というより無反応、無表情で腰を下ろしているのも。
「おい・・・誰だ?」
心当たりが無いでもなかったが、リューイがきいた。
「考えられるのは、一つだな。」
ギルが言った。
「テルマ殿が言っていた、例の精霊使いか。」
エミリオが答えた。
レッドは顔をしかめ、「あの女・・・まさか・・・。」
「考えられるのは・・・一つだろ。」と、ギル。
そしてレッドとリューイは、背後にいる精霊使いの少年を振り返る。
「最悪だ・・・。」
そう声をそろえた二人は、左右に分かれて場所を空ける。そのあいだにも、男はもう指を組み合わせ、呪文を唱えだそうとしているのである。
「そんなこともできるんだ・・・。」
愕然とそう呟いたカイルは、考えた。
その精霊使いは、意識がまだある状態で、体内から命令されるように操られているのではないかと。でなければ、呪術に関して無知な者が、正確な印を結べるはずがない。
そして、きっと王妃も・・・。
つまり彼女は、自分が何をしているかは分かっていながら、その行いがどうであるかを判断できない状態でずっといたのでは。それは恐らく、幻聴が聞こえるような感覚。それによって狂うことがない代わりに、それを超えてほとんど従うだけの状態となった体は、もはや道具と化した。
同時にそうも考えたカイルは、とたに動揺してしまい、不安に駆られた。
これなら、知識が無くても呪術の戦いが可能となる。男の能力に、悪霊の力が加わった呪力で仕掛けられる攻撃に、勝てるのか・・・いや、対抗できるのか・・・。
「待って!」と、唐突にカイルは叫んだ。
男は上目遣いにカイルを見た。
「そなたは、なにゆえ私を連れ戻そうとする。」
カイルは声を張り上げた。
「あなたは、しかるべき場所へと送られた身。ここに居てはいけない。人の世はめぐり、今、違う時代が動いています。この違う時代で、今あなたがしていることには何の意味もない。罪を重くするだけ。だから——」
「こざかしい。」
悪霊にとり憑かれた男はそう低く吐き棄てただけで、そのまま呪文を唱え始めた。
「やっぱり、ぜんぜんダメだ・・・。」
やるしかない。カイルもさっさと気持ちを切り替え、その場に腰を下ろして立膝の姿勢をとった。相手が呪術の体勢に入った以上、粘り強く説得を続けるという行為は、愚か以外の何でもなくなる。向こうが攻めてくる前に防御や反撃の準備を整えておかなければ、対抗できる力があったとしても手遅れになる。
カイルの表情は例によって一変し、鋭い眼差しを虚空に向けたそこへ、両腕を差し伸べて呪文を唱え始めた。そして他の全てを遮断するように、その瞳はゆっくりと閉じられていく。勝負の状況は、見ていなくても召喚した精霊と一体となった精神で分かる。
カイルは、そのまま大きな動きで滑らかに腕を動かしていた。
多くの精霊、特に大群を呼び寄せるカイルの声は、驚くほど厳かな低音になる。
こうなると、ほかの者たちはただ黙って見守り、祈るほかなくなる。
たちまち超自然の戦いが始まった。
まず、炎の精霊群がやってきた。
それらは、カイルが呼び寄せたものではなかった。
カイルの呪文は精霊術によるものだが、エミリオには、カイルが呼びかけたのが水の精霊であることが分かっていた。その証拠に水の精霊群も速やかにやってきた。
彼らは幻影を見ていた。不規則に、豪快に動き回る炎と水の高波を。実際には、それらは人の目にはこう映るという精霊の姿であり、それらが纏まり群れとなって作り出したもの。とはいえ物質や実際の現象との違いは、急に現れたり消えたりできるかどうかというくらいで、性質もそう変わらない。
フロアのほぼ半分を火の海、もう半分を激流の川に変えてしまった炎と水の精霊陣。それらが広間の真ん中辺りで奇妙に混ざり合い、勢いよく飛び出して、あたかも本物の火花と水飛沫を激しく散らしながら幾度となくぶつかり合っているのである。
その最中、両者はいきなり、天井に届くほどの大きな火柱と水柱に姿を変えた・・・!
最初真っ直ぐに立ち昇ったそれらは、互いに呑み込んでやろうと豪快にうねりながら激突しては、いよいよ激しくもつれ合う。
「凄い・・・。」
さすがのレッドもリューイも思わず逃げ腰になるほどの迫力だ。くんずほぐれつ衝突し合う勇ましい竜巻きを見上げて、二人は息を呑んだ。
「凄いのは・・・カイルだよ。」
静かな声がそう言った。そのエミリオは硬い表情のままで言葉を続ける。
「相手の能力は、彼女の力が加わったことで数段増しているはずだ。それも、妖力という強烈な力が。それに対抗できてる。この旅の中で様々な体験、特に強い者と戦った経験や、己の限界を越えてきたことによって恐らく、カイルの呪力と技術は知らずと高められてきたのだろう。神精術師へと成長を遂げるのも、遠い話ではないかもしれない。」
カイルというまだ十代のこの少年に対して、改めて畏怖の念を感じずにはいられない瞬間だった。
だが、そう言いながらも戦いに向け続けているエミリオのその表情は、依然として険しく浮かないままだ。
「なら・・・勝てるよな。」
リューイが不安そうにきいた。
レッドも同じ気持ちで、エミリオの反応をうかがっている。
そのあいだも、炎と水の精霊群は一進一退を繰り返している。
エミリオは黙ったまま、完全に不動の精神に入って集中しているカイルを見つめた。
その様子から、代わりに答える形でギルは自身も感じていたことを口にした。
「恐らく互角だ、今のままならな。お前たちも見ただろう、もはや疲れきっていたこいつを。」
エミリオはうなずいた。
「カイルは、長くは持たない・・・。持久戦では、遥かに向こうに分がある。」
これまでに力を使ってしまった分、カイルは余計に体力を消耗しており、早くも息が乱れ始めていた。こめかみに浮いている玉のような汗が、見ている間にも輪郭を伝って顎から滴り落ちた。それでもまだ、カイルはしっかりとした口調で呪文を唱え、ただひたすら印を結び続けている。