王妃シルビアの異変
ギルとレッドは、正面二階から大きく張り出しているバルコニーに出て、そこから左右対称に設けられている曲がり階段を下りた。そのまま大庭園に出て、今度は外の造りを記憶しながら、澄ました顔で目的の場所へと向かう。
そこは見当がついていたので、すぐに見つけることができた。罅の目立つ白壁の古びた塔が健気に佇んでいた。蔦が這っていて今ではすっかり人の出入りなど無さそうだが、これがあるのと無いのとでは、風格や見栄えが全然違うのが想像できる。
さて、景観を良くするという以外にも建てられた理由が、その下にあるかどうか。
「あの古い地図を当てにするとしたら、水路はあの下ってことになるが。」
頭の中にある図面を思い出しながら、その白壁の塔を指差してギルが言った。
やがて、二人は塔の前に立った。それから中へ入れる所を探して、周囲をぐるりと回ってみる。すると、ぽっかりと空いたアーチの入口があった。そこから中を覗いてみれば、確かに、埃と砂まみれの螺旋階段が伸びている。
「やはり今は使われていないらしいな。」
ギルが言った。
「じゃあ、下りて調べてみるか。湖がここへうまく繋がっているとしたら、小舟でやって来られるってことだろ。けど、今この入口に扉も何もないってことは、下にはあるはずだからな。意外と頑丈な鍵でもかけられていたら、外しておかねえと。」
ギルはうなずいて、上着のポケットに忍ばせておいた小型の燭台や蝋燭などを取り出し、さっそく火を点けた。
二人は階段を下りていった。
すると、行き着いた場所に一つだけ扉があった。カンヌキ式の、大きな鉄の扉である・・・が、いつ何が起こったのか、カンヌキ受けの金具が一つ壊れて外れかけている。扉の状態や、他にも幾つか気になる点が見られた。何かが外から無理に押し開けようとした・・・そんな感じだ。
「簡単に外せる錠無しのカンヌキ扉・・・これを素直に喜べないのは俺だけか?」
ギルが顔をしかめて唸るように言った。
「ああ分かる。トラウマだろうな。扉の向こうは洞窟だろうと思うと、この状況は嫌な予感しかしない。念のため、ここからの侵入は止めた方がいいと、俺は思うな。」
「やっぱりそうか?さっき通ってきたこの近くに、警備の緩そうな裏門があったろ。そこから忍び込むとしないか。」
「そっちに賛成だ。」
二人は、今この場所から逃げるように踵を返した。
この時、時刻はもう夕暮れにさしかかる頃。ジュノンの森に切り込むようにして建っている王宮には、寒いくらいの風が吹きそよぎだし、湖に面している庭園の方からは、また異様な冷気が漂い始めていた。
橙色の空に輝く夕日が、刻一刻と西の山脈に隠れようとしている。
主宮殿の最上階にある王の寝室は、部屋中が綺麗な夕焼け色に染まっていた。その部屋の大きな両開きの窓の半分と、もう一つ、横の小窓はわざと少し開けてあった。
そこから吹き抜けていく切ない涼風を浴びながら、大きな安楽椅子に弱々しく凭れかかっている男性がいる。
無論、国王であるその男性は、遠くの空を物憂げに眺めていた。高身長で体つきは年相応だが、灰色の細い髪と、刻み込まれた顔の皺が、実際の歳よりもいくぶん老けてみせていた。全体的に細身でいかにも病弱という感じを、背の高さで、辛うじて見た目の威厳を保っているようである。
この部屋には、ほかに侍従と侍医がいた。侍従は五十歳前の逞しい男で、用心棒も兼ねている。君主の雑用もこなし、ガードもする男だ。そして侍医は、王が若い頃からその主治医を務める年老いたベテラン名医である。
「陛下・・・今日はまた一段と美しい夕焼けでございますね。」
後ろに控えながら見守っていた侍従が、ある時そっと声をかけた。
「ん・・・んん・・・。」
侍従の顔を見ることなく、王は心ここにあらずといった返事をした。
「陛下・・・かなりお疲れのご様子ですが・・・ご気分はいかがでしょうか。そろそろ寒くなってまいりましたので、窓をお閉めいたしましょうか。」
今度は、侍医がそう気使った。
王は聞いていなかったのか、これには何も返さなかった。
だが少しすると、夕日に目を向けているそのままで意味深にこう口を開いた。
「最近はまた・・・ひどく冷えるようになったな。」と。
「ええ・・・。」
その訳を知っている侍従は、すぐには気の利いた返事が見つからずに一瞬黙り込む。
「二日前か・・・。シルビアは・・・若い近衛騎士たちを連れて、まだこの森の湖へ出掛けるようだが・・・。」
「王妃様は・・・以前からあの場所をとてもお気に召されておられますから、離れられないのでございましょう。」
苦し紛れながらも、侍従は確かな口調で答えた。
故意にか、王は派手なため息をついた。
「シルビアは・・・王妃となってからというもの、次第に変わってしまった。しかし、この数か月間は・・・まるで別人のようだ。」
そう。最初は何も下心などなく、シルビアは寂しそうな王に純粋な気持ちで接していた。ところが王妃に迎えられると、王族の中には、聡明でそれなりに綺麗でもあった先代王妃と彼女とを比べる者も多くおり、王の心はまだ先代王妃にあって、寂しさをただ輝くばかりの若さと美貌で紛らせている。彼女は飾りに過ぎないと陰口を叩かれるようになった。そのストレスに耐えかねたシルビアがどうなったかといえば・・なんと、開き直ったのだ。そしてシルビアは堂々と美貌を鼻にかけ、陰口を叩いていた者たちが態度を改めるほど強い女性となっていき、実際、彼女が何をしても王に庇われ許された。
そうして、シルビアは変わっていった・・・。
「何か・・・なかったか。」
「何か・・・で、ございますか・・・。」
ジュノンの森の異常現象はもう国民の誰もが知っていることで、最初の怪事件については王都で報じられもした。だがその後、その裏で起こり始めた世にも恐ろしい動きまで、王の耳には届いていないはずだ。しかし、王はうすうす感づいているのでは・・・という不安が侍従の胸をよぎったが、それでもとぼけることを考えていた侍従に・・・。
「シルビアのことでだ。」
王はそう力強い口調できき、ここで初めて侍従に目を向けた。
侍従は息を呑み込んだ。それでもなお落ち着いた態度を装う。
「いえ、特にございませんが・・・。」
黙ってその目を見据えていた王は、やがてまたため息をつくと、今度はうな垂れるようなうつむき加減で言った。
「シルビアが恐ろしいことを考え、密かに一部の兵士を動かしているのは知っている。シルビアと本気で話をせねばならぬ。何でもいい・・・。シルビアが言ったことは、何もなかったか。余は気になって仕方がないのだ。」
侍従は蒼白になった。だが同時に、何か変えられるかもしれないという期待も湧いた。
「陛下・・・先日のことでございますが。」
侍従は躊躇いながらも、こう一言だけ慎重に告げる。
「ある兵士に向かって、王妃様はこう仰せられました。未だに森が騒がしいのはどういうことか・・・と。」
かなり曖昧にされたそんな言葉でも、王には真意を悟ることができた。その証拠にいっそう顔色を悪くし、肘掛けに置いていた右手を額に当て、震える声でこう言ったのである。
「やはり、そうか・・・なんたることだ。シルビアは・・・シルビアは、どうしてしまったというのだ・・・。」
「陛下、少し横になられた方が・・・。」
動く気力もない王の体を侍従が支えてベッドまで連れていき、侍医は二つの窓を閉めて不吉な冷気を遮断した。