絶叫
いきなり走りぬけたひどい悪寒と、別の種の気分の悪さに不吉を感じたエミリオは、カイルが飲ませた薬のせいもあって、朦朧とする意識のまま無理に病体を起こした。
この家の近くで、何かが起きている。カイルやテルマ殿は気づいているのか。それを確認したいと思うが、くらくらしながら立ち上がった体は、少しもまともに歩けないまま倒れるように壁にもたれかかった。立ってもいられない・・・そのまま壁を支えにして背中を擦りつけながら座り込むと、猛烈な眠気に襲われていた意識が瞬く間に遠のいていった。
そこへ、セシリアが食事を持ってやってきた。トレーの中のものが零れないか気にし、つまずいたり、どこかにぶつからないかよく注意しながらゆっくりと暗い部屋の中へ入ると、なんの物音もしないことに気づいて、エミリオは眠っているのかと思い顔を上げた。
壁にもたれて座ったまま、意識がないように見える不自然なその姿が目に飛び込んできた。
驚いたセシリアは、最初、持っていたトレーを焦って真下に下ろそうとした。そこで部屋の中央にあるテーブルが目にとまった。そこへ食事が入ったトレーを置きに行き、それからエミリオの様子をみに近づいて、すぐそばに腰を下ろした。
その時、不意に違和感がした。背後から射し込んでくる廊下の明かりが、急に弱まったような・・・違う、何かに遮られた。出入口のドアはずっと、全開で開けっ放しにされている。その明かりで、自分とエミリオの影は正面の壁に重なり合っているが、そこにもう一つ・・・大きな影が加わった気がした。
気のせいではなかった。かすかに聞こえる・・・素足で床を歩く音・・・何かおかしい。少し首を向けるだけで、それは確認できそうだった。でも・・・それは異様で恐ろしいもの・・・そう本能が察知した。息もできないほどの緊張で、目を向けるどころか身じろぎすらできなくなり、セシリアはただじっとしているだけが精一杯でいた。
早く・・・早く、起こさないと・・・なのに、腕を動かせない。セシリアは一心に願いながら、ぐったりと頭を下げているエミリオを見つめた。
お願い、目を開けて・・・!
だが不気味な背後の気配は、どうすることもできないそのうちにも、後ろからゆっくりと近寄ってくる。わきから徐々に伸びてくる影・・・ペタ・・・とも、ネチャ・・・とも聞こえる足音と、時折、ギシ・・・と鳴る軋み音が、さらに背筋を凍りつかせる。そして ——。
止まった。
影は全て繋がり、大きな一つに。
真後ろにいる・・・。
必死で冷静になり、無理に意を決して、セシリアは恐怖で引き攣る顔をそう・・・と肩越しへ向け・・・。
「 ―― っ⁉」
声もなく目を見開いた。そこには、灰色の外套を纏った大男がいた。手には細い鉄の槍。骨が見えている土色の手が、それを外套の合わせ目からシュッと振り上げるのを見たのだ。
エミリオはふと目を覚ました。
すると、霞む視界にいきなり夢とも現実ともつかない光景が ——!
絶叫がとどろいた。
悲鳴が聞こえた。
それがエミリオの声だったことに、ギルは驚いた。
あいつが叫び声を上げるなど、尋常ではない。
まさか・・・!
気が気ではなく、ギルはその部屋へ飛び込んで行った。
そして目に映った・・・エミリオの信じられない姿。
右の肩甲骨あたりを鉄の槍のようなものでひと突きにされている・・・!
なのに、倒れもせず壁に両手を付いたまま動こうとしないエミリオの胸の前には、すっかり怯えきったセシリアがいた。
エミリオはその時、すぐそばにいたセシリアをとっさに引き寄せながら背中を返していたのである。彼女を壁に押し付けて、自分の体が盾になるように。
そんなエミリオの背後には、灰色の外套を纏った大男がいる。
ギルは愕然となり、思わず立ち尽くした。
するとそいつは、ギルの目の前で凶器の槍を乱暴に引き抜くと、また勢いよく腕を後ろへ引いた。
「きさま、何を・・・⁉」
あわててギルは床を蹴った。横合いから抜き身の剣を突き出し、二度目をやろうとした大男の凶器を、あせって回り込んだ不自然な体勢のままでもどうにか食い止めた。そうしながら、ギルはそいつの顔を確認しようとしたが、頭巾を目深に被っている顔は影よりも暗くて分かり辛い。ただ、廊下の照明のおかげで、ぼんやりと浮かぶ唇と顎は変にひしゃげているように見えた。とにかく異様だ。
ガッ・・・グググ・・・!
「レッド、リューイ!」
下からすくい上げた剣を十文字に交差させたまま、ギルは大声を張り上げた。
すでに駆け出していた二人は、その声と同時に滑り込んできた。
すると大男は窓へ向かって逃走し、窓枠を乗り越えて落ちていった。
駆けつけたばかりの二人は仰天して、その窓縁に飛びついた。
下には何もなかった。だが視線を少し延ばすと、森の木々の中へ人影がサッと消えたのが一瞬見えた。
「エミリオッ、エミリオッ!」
二人の背後で、すっかり取り乱しているギルの喚き声が上がった。
窓際にいた二人は我に返り、ギルに体を支えられてぐったりとしているエミリオを見た。
ギルは必死になって、エミリオの傷口を直接手のひらで押さえつけている。あの大男が凶器を引き抜いたとたん、血の滝が流れ出し、それを見ていたギルがとっさにとった行動だった。とにかく傷口を圧迫しなければならない。だがそれは生き物のように溢れてきて、うまく手で塞ぎきれるものではなかった。
エミリオは声を出すこともかなわず、ただ喘ぐように早い呼吸をしている。顔面は青白く、額は滲み出す汗でじっとりと冷たくなっていた。ギルの懸命な呼びかけに、まだ辛うじて意識はあったようだが、返事は無かった。
ねっとりと濡れたギルの指の隙間から、血がたらたらと滴り落ち、失われていく。
とうとうエミリオは、失血によって起こる体の異変に耐えられなくなり、気を失った。