黒い書
テルマはそう言うと、飲みかけのカップを調理台に置いて話し始めた。そのあいだ質問が入らなかったので、そうしてエミリオに説明した時と同じように、確信はあるがあくまで推測だという内容が一通り語られた。
それに傾聴していた彼らの表情は様々に変わっていったが、この森で起こっている異常現象の理由や原理については、不思議なことに誰もがその全てを受け入れており、もはや半信半疑という者は一人もいなかった。ただ、裏で糸を引いていると考えられる人物の人間性については一様に戦慄を覚え、信じられないといった顔をしている。
「なんだ、私の顔がダメって、そういうことだったのね。なら、いいわ。」
不意にシャナイアが言いだした。
「いいわけないだろ、何言ってんだ。」
びっくりして、途端にレッドががなった。
二人は向かい合って座っていた。
「あんたねえっ!人の顔見ていきなり、その顔はダメだの生かしておけないだの言われてごらんなさいな!ちゃんと、あなたの美しさに王妃が嫉妬するので、やむをえずって言って欲しいわよ!」
「ばかばかしい。そこまでくそ丁寧に言ってくれるわけないだろ。面倒くさい。」
「そういう問題 !? 」
「お前こそ、そういう問題かっ。」
「まあまあ。」
いつものようにカイルがテキトーに仲裁する。
「で、どうするつもりだ?何とかする気あるんだろう?」
ギルがそう訊いた相手は、当然それを使命としているカイルだ。すでにその表情は深刻になっている。
「うん、でも・・・そんな邪悪な魂がひとりでに甦るだなんて・・・やっぱり、すごくおかしくなってるよ。きっと、何かすごく悪いことの前兆なんだよ。」
「大陸がなくなるとか?」と、リューイ。
「とにかく、この場合何から始めたらいいんだ?要は悪霊退散とか浄化ってやつだろう?」
レッドが言った。
「正確には、甦った魂を再びもといた場所へ・・・つまり、恐らく冥界。話を聞く限り浄化は厳しいと思う。だから、そこへ帰さなきゃあ。」
「といっても、簡単にはいかないんだろうな。」と、ギル。
「うん・・・この森の精霊達を、何もしなくてもおかしくさせるほどの悪霊なんだ。きっと、何百年っていう時空の暗い洞穴を、妖力みたいなものを身に着けながら通り抜けて無理やりこの世に現れた魂だから、無理やり送り帰す方法とか、新しい呪文も覚えないといけないかもしれない。何か特殊な力を得ているなら、ちゃんと調べて、それなりの準備をしておかないと。」
「あんたさん達が、本気でこれをどうにかしようって考えてるなら、あたしも力を貸すけどね。あたしゃあ、これでも神精術師だからね。こんなお婆さんでも、何かの役に立てるだろうよ。」
「けど・・・相手が王妃であるなら、王宮に潜入するってことだろ?潜入ってことは・・・だな・・・下手をすれば、逃げたり隠れたりしないといけないってことだぞ?」
「ああそっか、思いきり突っ走らないといけなくなっちまったような場合、婆さんじゃマズいな。」
レッドがわざわざ遠回しに言ったことを、その隣にいるリューイがさらりと口にした。リューイの側頭部にすかさずレッドのゲンコツが飛んできた。
テルマは声をたてて笑った。
「それもそうだね、あんたさんらに付いて行くなんて、とうてい無理だね。足手纏いになっちまうね。」
するとギルが言った。
「テルマ殿、我々がその件で留守にする間、ここが心配です。彼女達をお願いします。」
「対処法さえ見つかれば、何とかできると思うから。」と、カイルも続けた。
「そうかい。じゃあ調べるなら、今から行くかい。町外れに、術使い達が集まる、とある館があるのさね。そのほとんどはたいした能力者じゃないけどね、勉強熱心だけが取り柄だよ。呪術に関する書物が大量に置いてあるよ。ほかにも、この国だけでなく他国の歴史に関するものや、古代の地図とかね。一部、術使い達の日誌や、万が一関係者以外の手に渡ると危ないような書物については、特別に隠して保管されているけどね。それらはずいぶん昔からのものもあってね、何かの参考にはなると思うよ。」
「術使い達の日誌かあ・・・。」
カイルの双眸に、興味津々という煌きが宿った。
「中でも興味深いのが、ただ一つだけ・・・最も古ぼけた黒い書があるんだ。」
そんなカイルに、テルマは驚くべき言葉をかけようとしていた。
カイルの目の煌きがサッ・・・と消える。
「黒い書・・・?」
怯えるような目になるカイルを見つめて、テルマは声を低くした。
「妖術の本さね。」
やはり・・・と思い、言葉を失うカイル。
それに対する思いは、恐怖しかない。世にも恐ろしい力を生み出す禁断の書物。ゆえに、ことごとく処分されたはずのもの。それに手を出し、狂って破滅した者がどれだけいるだろう。実際、カイルもその一人を見て知っている。手にするのが怖くないはずはなかった。カイルは、今は存在が許されないはずのそれが、まだ幾つも残っている事実を受け入れたくはなかった。だが対処法があるとすれば、見つけられる可能性が最も高いもの・・・同時にそんな予感もした。
カイルは、「じゃあ・・・やっぱり・・・。」と、呟いて黙った。
テルマは強くうなずいた。
「伝説では、表向きは、妖術の書は人々が一丸となって完全に廃棄、処分したとされてるけどね。残ってたんだね。大陸各地でまだ幾つか生きてるんだよ、きっと。」
そのあと、しばらく沈黙が覆った。
ギルもレッドも、たまたま視線を向けているテーブルの一点を見つめて、いやに深刻な表情をしている。
二人共、それについてまだ詳しく知っているとは言えないが、これまでの恐怖体験やカイルの話から充分に想像することはできた。今聞いた話があらぬ方向へ動き出せば、つまり、大陸のあちらこちらでその禁断の書物がまた非道な者の手に渡り、安易に使われるようになるとしたら・・・そんな愚か者どもも予想だにしなかった事態を引き起こす恐れもあると。
それは人と魔物とが常に戦うようになる世界に・・・口にするのもおぞましいが、まさに魔界にこの世が変わり果てるということ。以前ならまさかと言って笑い飛ばせたろうが、今は二人共とてもそんな心境ではなかった。
「どうするね。今から急げば、夜になる前には戻れると思うけどね。いるものだけ持ち出して、ここでゆっくり調べりゃいいよ。まあ、あたしも見たからね。必要そうなものは、だいたい分かるさね。」
「じゃあ・・・僕行くよ。早く何とかしないといけないし・・・術使い達の日誌かあ・・・。」
ギルは、カイルの表情の微妙な変化に気付いた。そして、この坊やは本来の目的を忘れかねない・・・と心配になった。勤勉かつ職務熱心なカイルのおかげで、これまで余計な時間を取られたことが、何度あったことか。
「あんまり違うものにまで手を出して、帰りが遅れるなよ。それともお供しようか。」
「あんたさんは、お嬢さん達のそばにいておあげよ。ギルベルト皇子殿下。」
場の空気が固まった。