冷たい雨と精霊の異変
エミリオは、やはり何かを知っているに違いないテルマの様子に、妙な街の様子や、あの不可解な男達のことなど聞きたいことは山ほどあったが、先にセシリアのことをきちんと伝えなければと考えた。
「私は旅の仲間です。ほかにも仲間がいます。彼女とは、途中で出会いました。その時、彼女は一人きりでした。恐らく、本当の護衛達は、既に命を落としていることでしょう。」
「かわいそうに、辛かったろうね・・・。」
顔を曇らせたテルマは、またソファーを振り返って、今は穏やかな寝顔のセシリア王女を見た。そしてエミリオに向き直ると、だしぬけにこう言ったのである。
「それで、あんたさんは、姫様をどう思っているんだい。」
「え・・・どうって・・・?」
その質問がまったく呑みこめずにエミリオがきょとんとしていると、テルマは呆れたというように腕を組んだ。
「何とも思ってないってのかい。奴らの目当てはあんたじゃなく姫様なのは、明らかだったはずだよ。それで用心棒でもないのに、そんな大怪我を負わされて、なお命懸けで守り抜いたんだろうがね?多勢に無勢だったはずだけどね。姫様をおとなしく差し出しさえすれば、あんたは狙われずに済んだはずだよ。違うかい?」
「少なくとも、私の仲間達なら誰でも同じことをしますよ。」
「そうかい。姫様は、あんたを信頼しきってるように見えたがね。あんたは朦朧としていて気付いちゃいないだろうがね、ここへ来るまで姫様ずっと泣いてたんだよ。あんたを気使いながらね。」
ここでエミリオは、何となくテルマの言いたいことが分かった気がしたが、そうならとんだ的外れな思い込みだと思った。セシリアと同じ目に遭えば、誰でも泣きたくもなるだろう。
「それは・・・彼女はこれまで悲惨な目にあって、情緒不安定になっています。そのせいでしょう。」
「そうかねえ・・・。あんたさん、姫様と一緒になるつもりはないのかい。」
「何を・・・ですから、彼女と私はそういう関係では・・・。あの・・・彼女は王女殿下ですよ?」
エミリオは、意味深なことをずけずけとやぶから棒に繰り出すテルマに、いつになく調子を狂わされた。
「まあそうだけどね、姫様はお国を逃れてきたお人だよ。姫様に必要なのは、姫様を守り抜くことのできる男だと、あたしゃあ思うけどね。」
「私は、サウスエドリースに平和が戻れば、彼女をロザナリアへ送り届けるつもりでいます。ですが、彼女には、あなたと共に暮らすという選択枝もあります。それで、ここへ来たのです。」
「そうかい。だけど、あたしと一緒にはいられないよ。あたしゃあ年を取りすぎてる。あたしが元気でいられるうちに、サウスが落ち着くとは限らないからね。それに、今のこの国では、姫様の美貌では生きてはいけないよ。それなら、この先ずっと平和な土地で、あんたさんと一緒に暮らした方が、姫様はよほど安全で幸せだと思うね。どうだい、その気があるなら、姫様と一緒になってはくれないかい。」
「・・・私の一存では、決められないことです。」
「それは、そのうち問題なくなると思うがね。」
エミリオが呆れていると、テルマは話しながら作業していた手を止め、立ち上がって、エミリオの負傷している腕の下にタオルを敷いた。それから、その腕に皺くちゃに巻かれているものを解き始める。そして、傷周りにこびりついている血を、木桶の水に浸していた手ぬぐいで丁寧に除去していった。
「それにしても、驚いたね。まさかそういう意味だったとはね。」
「何のことです。」
痛みに顔をしかめながら、エミリオが問う。
「ここのところ気になることがあって、占いばかりしてたんだよ。そしたらどうだい、今日いつもと違う異変が現れたから、その方角へ行ってみたら・・・なんとまあ、あんたさんらがいたってわけさね。いつにも増して森も騒がしいし、久々に不吉な雨も降ったしね。あたしゃあ、これでも神精術師さね。精霊使いと、さほど変わりはしない程度だけどね。」
「あなたが術使いであることも、彼女から聞いて知っています。それで、森が騒がしい・・・とは、どういうことです。それに、一日命はもたないとか、彼女の美貌では・・・とか・・・。」
血で赤く汚れた手ぬぐいを木桶に戻したテルマは、何からどう話そうかと悩んで黙ったが、やがてこう口を開いた。
「あんたさんの熱は、その傷口が原因だよ。この森にはね、タチの悪い精霊どもが蠢いているのさ。その子達は、日が落ちて真っ暗になると活動する。この森でそれだけの傷を負えば、たちまち悪い精霊どもが悪戯をして、高熱を出させるのさね。」
テルマは、一度だけ窓の外に目をやって暗闇を見た。そして視線を戻すと、血を拭きとって露になった患部の具合を窺った。開いている大きな傷口は、縫う必要のあるものかもしれない。しかしテルマには、医学による縫合の知識や技術まではない。新しい血が艶やかに光った。
そこへ片手をかざしたテルマは、指先を動かしながら、何やらエミリオも知らない呪文を唱えた。
「うっ・・・。」
一瞬突き上げた痛烈な痛みに、エミリオは思わず身じろいだ。
それが済むと、ここで、テルマが先ほど熱心に作り続けていた傷薬が使われた。塗りつけるのでなく、それで患部を丁寧に覆っていく。これもまた応えたが、エミリオは、今度は歯を食いしばって耐えた。あとは包帯を巻いて、ようやく適切な応急処置の完了である。
「治せるのですか。」
呪術で・・・という意味で訊かれたことに、テルマも相応の返事を返す。
「今のは、悪戯っ子を追い出しただけさね。あの小屋にあるものの殆どは確かに薬草だけどね、そっくり売っちまうものばかりだよ。傷に効くものくらい少しは心得ているし、薬の原料になるそれを粉末にする方法も知っていて仕事にもしてるがね、医学や医術はさっぱりさね。明日になったら医者に診てもらった方がいい。あたしゃあ神精術師だが、医者じゃあない。」
「ですが、私達がここにいると彼らに知られるのも時間の問題では・・・。そう悠長にもしていられない。」
「まあ確かに、奴らはこの森へ、あんたと姫様二人の凍死体を確認しには来るだろうね。だけど、この家に入ることはできないよ。あたしゃあこれでも、この国じゃあけっこうな術使いとして知られている存在でね。ここにおとなしく隠れてさえいれば安全だよ。」
「凍死体を・・・?それに、さきほど不吉な雨とも・・・。」
「まあ、お待ちよ。」
エミリオのさきの質問にもまだきちんと答えおらず、順を追って説明したいテルマは、ふうと息を吐き出して、再び丸椅子に腰を落とした。