救い手の老女
しとしとと降りしきるものに変わった雨が、小屋の屋根を滑り落ちて、何かにぶつかりボトボトッと音をたてた。
セシリアは、ふと目を覚ました。頬をぴったり付けているエミリオの胸の動きが、いつの間にか激しくなっていた。頭の上から荒い息遣いも聞こえる。ハッとして顔を上げると、彼の顔や首が汗で濡れている。
セシリアは反射的に、手をエミリオの額にやって狼狽した。この短時間のあいだに、彼は驚くほどの高熱を出していたのである。
「ひどい熱ですわ・・・。」
セシリアはどうしていいかわからず、おろおろした。何もかもが慣れなくて、どう気を利かせばよいのかうまく頭が働かない。だが懸命に考えて、やっと思いついた。
やにわに立ち上がったセシリアは、先ほど見つけてきた手ぬぐいを手に取ると、急いで外へ出た。
異常に冷たい雨が降っていた。
だが、それを気にもしないで、近くに雨水の溜まっていそうな岩の窪みを見つけるや、セシリアは雨の中へためらいもなく身を投げ出した。そして、氷水のような水たまりに手ぬぐいを浸し、かじかむ指先でぎゅっと絞った。
急いでエミリオのもとへと戻ったセシリアは、ぐったりとソファーに凭れかかっている彼の顔や首の汗を丁寧に拭い始めた。そうしているうちに、何か恐ろしいものがじわじわと押し寄せてくる。
孤独・・・という恐怖。
それに気付いた途端に泣きそうになり、早く元気になって欲しい一心で手を動かした。
そんな様子に気付いてか、弱々しく動いたエミリオの左腕がその手を止めた。
そのままゆっくり、そしてぎゅっと握りしめてくれる彼の温もりが、痛いほど冷えきっていた指先に溶け込んでくる・・・いくらか気持ちが落ち着いた。セシリアは、今うっすらと目を開けた彼を見た。
「本当に、凍えてしまうだろう?」
手を温めてやりながら囁きかけたエミリオは、またそろそろと腕を動かして、彼女の冷たくなった頬を撫で、湿ったブロンドの髪に手櫛を通した。
「こんなに濡れてしまって・・・。」
「お願い・・・また一人にしないで。」
その声は不安のせいで震えていた。
「ああ・・・ずいぶん楽になった。ありがとう。」
エミリオは目で笑ってみせたが、その微笑みは儚げで、辛そうに呼吸をするところは変わらなかった。このあとまた眠ってしまうとしたら、次に目を覚ますのは自分だけではなかろうかとセシリアに思わせるものでしかない。
もう怖くて仕方がなくなっていたセシリアの瞳は、すでにこみ上げる涙でたっぷりと潤んでいた。
「また・・・涙が零れそうな目をしている・・・。」
エミリオも困ったように見つめ返した・・・が、その視線は、不意に彼女の顔から入り口へ飛んだ。
雨音と一緒になって近づいてくる足音に、いち早く気付いたからだ。それはこの小屋の前でぴたと止み、続けてゆっくりと木戸が引き開けられていく・・・。
エミリオは無理に気合を入れ、体を起こして剣に手を伸ばした。
すると、間もなくそこに現れたのは・・・一人の老女。腰の少しも曲がってはいない、若々しいお婆さんだ。
それを認めたとたん、エミリオはまた崩れるようにしてソファーにもたれた。緊張が解かれると同時に救い手が現れたと見て取れたことで、ひとまずホッとして意識が遠のいてゆくような感じがした。
その老女は二人を見るなりぽかんと口を開け、たいそう驚いた顔をしている。
「おやまあ、あたしゃあ夢を見ているのかね。そこに姫様がいるような・・・。」と、その老女は目をこすった。
「婆や!」
セシリアも歓声を上げて立ち上がっていた。とうとう涙腺は崩壊し、恐怖や不安がいっきに解消されたおかげで涙があふれた。
「まあ姫様 ⁉ 本当にロザナリアの姫様かい⁉」
たちまち血相を変えた老女は、あわてて小屋に踏みこんだ。
「ええ、わたくしですわ、婆や。婆やに会うためにここまで来ましたの。」
お上品に鼻をすすり上げながら、セシリアは涙ながらにそう伝える。
だがそれに対してかけられたのは、セシリアには思わぬことに突き放すような一言だったのである。
「なんてこと、姫様、あなたはこの町に来てはいけないお人です。」
セシリアは唖然とし、そして戸惑った。
「どういうことですの、婆や。」
それに答える前に、続けて老女はぐったりしている青年に目を向ける。
「・・・誰です ? 病気じゃないのかね。」
あとの部分はセシリアにではなく、青年に対して訊いた。
「婆や、彼はひどい熱ですの。わたくし、どうしていいか分からなくて。」
途方に暮れていたであろうその姿を見ると、持っていたランタンを床に置いた老女は、優しくセシリアの両手を取って頷きながら微笑みかける。
「もう大丈夫ですよ、姫様。それにしても、よくご無事でいらっしゃいました。」
「この御方が私を守ってくださいましたの。」
「ではやはり・・・。」
老女は眉をひそめて、唸るような声を出した。
だが、その青年の腕にある包帯代わりに巻かれているものを目にすると、老女はたちまちそちらに気がいって、しげしげとセシリア王女を見つめた。
「彼のその腕の手当ては、姫様が?」
セシリアは顔を赤らめた。あまりの見苦しい出来栄えに否定したかったが、恥ずかしそうに小さくうなずいた。
「でも、治療らしいことは何も・・・。」
小屋の中にあるシーツがかけられた籠の中身は、実は全て薬草である。それらを原料にした解熱剤や傷薬程度のものなら、ここにもある。だが、それを王女が見て正しく判断できるはずもないと分かっている老女も、いちいち口にはしなかった。それよりも、ある直感を覚えてしまい思わず顔をほころばせていた。というのは、そんな姫様の心を動かし精一杯の手当てをさせたのは、命懸けで姫様を守り抜いた〝強くて優しい勇敢な美青年〟。これほど姫様にうってつけの相手はいないだろう。そう思われたからだ。あまりにお似合いな、この二人。
それで老女は、「この青年は、姫様の用心棒でございますか。従者には見えませんがね。」と、わざと意味深に問いかけた。
「いいえ違いますわ、婆や。彼は私の命の恩人で、お友達ですの。」
微妙な答えがさらりと返ってきた。どうもその意図するところは察してもらえなかったようだ。
「お友達・・・はあ・・・。確かに、彼一人で、よく姫様を守りきれたものです。彼は、相当手だれの剣士でしょう。でなければ、一日さえも奴らの手を逃れることなどできないはず・・・。それほど、姫様にとって、ここは恐ろしいところなのです。」
先ほどから理解に苦しんでいるセシリアは、少し黙った。
「婆や、いったい何を言っていますの。」
「とにかく、あたしの家へ参りましょう。詳しい話は、そこで。」
老女はそう言うと、ひどく弱っている青年の額に手を当てた。
「お前さん、立てるかい。」
「ええ・・・。」
老女は持ってきたランタンを拾い上げたあと、床に置いてあった方を消して、玄関の柱に戻した。そして振り返って、二人を促しながら外へ出た。
すっかり消耗しきったエミリオは、萎える足を踏みしめて立ち上がった。体が振動する度に頭痛が響く。辛い頭を押さえながら、ふらつく足を無理に押し出し、どうにか確かな歩調を保って歩いた。
そうして戸口をくぐったエミリオは、そこで、なんといきなり呪文を唱えだす老女の姿を見た。そうだ、彼女は術使いだと聞いていた。それは思い出したが、この体の不調のせいで、彼女のすることをなぜ・・・と、不思議に思う余裕はなかった。
すると間もなく、キラキラと光り輝くもの達がやってきた。どこからともなく現れたその微粒子は、ふわふわと浮遊しながら小屋の前に集まった。それらが一つに纏まると、老女は、必要のなくなるランタンを消して、腕に掛けた。次に三つの印を結んでまた呪文を唱え、それらの精霊に簡単な指示を与える。
すると、ひと塊となったそれらが、お安い御用とばかりに一度大きくうねった。あとはついて歩くだけでいい。
老女は、ここまでさしてきた傘を再び開いた。そして、長身の青年と姫様が濡れないようにめいいっぱい腕を上げ、その二人を連れて歩きだした。
だが、自宅までの道案内ができるのは、今は、行く手を照らし出してくれている、それら光の精霊たちだけだった。




