黒い液体の恐怖
すると間もなく、そこから得体の知れない何か黒いドロドロとしたものが、湧き水のように流れてきたのである。気づけば、それは隅の方の至るところから発生している。そして、足元にひたひたと不気味に近寄ってくる。じりじりと追い詰められて、多くの者が知らずと中心へ集まっていった。
だが、一行はみなその場から大きく動くことはなかった。こうなっては、じたばたしても仕方が無い・・・と、彼らは潔く思う反面、不思議と危機や恐怖を感じることもなかった。カイルが黙っているからだ。そしてアランは、エミリオやギル、それにレッドの堂々としているこの様子にそう思うことができた。
しかし次第に、ただ落ち着いてばかりもいられなくなった。それは黒い水のようだったが、足元に絡みつくと弾力があり、タールのような粘り気を帯びていて、爪先からいやらしく這い上がってくるのである。そして身体のあらゆる部位に纏わりついたかと思うと、次の瞬間には、そうしてがっちりと食らいついたまま、じわじわときつく体を締め上げていく化け物だったのだ。
「うわっ!」
「ぐああっ!」
「なんだこれは!」
「助けてくれえっ!」
メサロバキア側の男たちは、次々と悲鳴を上げ始めた。
一方、どうしたのか、カイルやエミリオは一向にただ虚空を見つめているばかり。だが不思議なことに、この二人に限ってはほとんど無害だった。腰ほどまでは、足元の液体から現れ出す突起物が熱心にのぼり始めるのだが、どういうわけか、それらはためらいがちにすぐに引いていくのである。その繰り返しで、二人はこのうっとうしいものの影響を受けてはいなかった。
それを見たギルやレッドは、考えた。相手に好かれたか、嫌われたか・・・ただ、この二人に共通して言えるのは、どちらも呪術を使える強大な霊能力の持ち主であるということ。それが、少なからずこれらに抵抗感を与えているのだろう・・・と。
「おいカイル、何やってんだ、早くどうにかしてくれっ。」
ただうっとうしいという理由でじたばたせずにいられなくなったリューイが、腕やら足をぶんぶんと振り回しながらわめいた。
「亡霊たちがいるんだ・・・大勢・・・。」
虚空に目を向けたまま、カイルは静かにそう言った。
「なにっ⁉ああ、もうっ。」
リューイは、相手にならないものと懸命に格闘している。
かたや、敵国の王の側近であるあの男も、激しく抵抗しながら怒鳴り散らしていた。
「おい、連れてきた術使いはどうした!何とかしろ!」
その術使いは柱のそばにいた。男がすぐに見つけ出せないのも無理はなかった。なぜなら、辛気臭い顔つきのその術使いは黒い外套を纏っており、おまけにその男にはしっかりとドロドロがへばり付いているのだから。
その術使いは、彼らが外で戦っていた時にはずっと男のそばに控えていたのだが、そのあいだも存在感が全く無かったような小男で、霊を扱う仕事をしていると言えば、なるほど彼自身が死神のようだと思わせる、見た目は病的な男だった。
その姿に、まだ冷静でいられたギルやレッドは気づいていたので、同じ術使いであってもカイルとこうも違うものかと、二人は無駄にあがいているその術使いに不思議そうな目を向けたりもしていた。
「先ほどから、してはおりますが・・・力が大きすぎて・・・。」と、相手のその術使いは狼狽しきって答えた。
なるほど、くねくねと指先を動かして、どうにか組み合わせようとしてはいるらしい。だが締め付けられる息苦しさもあり、実は声を出すことすらままならないのは傍目にも明らか。呪術で手も口も思うように使えないのでは、致命的だろう。
「ええいっ、この役立たずめ!」
陰の将軍の威勢のよいのも、これまでだった。
黒い液体は腰の下にまで達していて、今やこの火山神殿は黒い水槽と化しているのである。成す術なく、それでリューイも無駄な抵抗を止めて、一行はみなされるままおとなしくしていた。
その中で、レッドにはさらに気づいたことがあった。それはメサロバキア側の兵士たちの、見るに耐えないほどもがき苦しむ姿だ。その物質は首回りにまで這い上がってくるので、自分もそれなりに気味の悪さや苦しさを我慢してはいるが、どうにかなってしまうほどではない。
レッドは、仲間たちに目を向けた。カイルやエミリオは問題ないが、ギルとアランは困ったように、リューイは不愉快そうに、少々顔を歪めているに過ぎない。それなのに、敵の男たちは狂ったように喉を引っ掻いたり、半狂乱に陥って胴体を振り回す始末。どういうわけか・・・と考え始めると、すぐに思いついた。それは、自分たちが正統な側であるということ。この得体の知れない生命体が、それを見分けてくれたとしかレッドには思えなかった。
だが実際には、得体の知れないその生命体の仕業ではなく、カイルが言った〝亡霊たち〟が起こしていることである。それらはまず、彼らが正統であるかどうかというよりも先に、単純に善か悪かを見分けていた。彼らが命を賭けてここへ来た理由、それを窺い知ることができそうなほど清らかに澄みきった魂を、その全ての者に見ることができるからだ。そして今は、まさに彼らの中の誰がその人であるか・・・ということに、亡霊たちは悩まされていた。
そして、善と悪を判別したとは思わなかったレッドは、正統かそうでないかと区別するそれらの正体は何なのか・・・と、次に考え始めていた。
そんなレッドのすぐ背後で、不意に妙な物音がした。
レッドが反射的に振り向くと、白目をむいて仰向けに倒れこんだ男が一人、無意識のまま黒い液体の中へ沈んでいくところだった。
レッドは思わず身をよじった。そしてどうにか片腕の自由を取り戻すと、慌ててその男を引っ張り起こしていた。
この有様に、レッドもさすがに焦りを覚えてカイルを見た。
エミリオやカイルには、常人には見ることのできないものがはっきりと見えている。空中を自由に動き回っている何体もの亡霊たち。そして、彼らの中の何人かが、時々妙な手の動きを見せることに、カイルはまさかと思い眉根を寄せていた。
「こんなことって・・・。」
それを聞き取ったエミリオがどうしたのかと顔を向けると、カイルは虚空を見つめているそのままで答えた。
「亡霊たちの中に、術使いが何人もいる。体が無いのに・・・闇の精霊たちが応えてる。これは一人の力じゃない。彼らを説得しなきゃダメだ。」
カイルは、まず先に闇の精霊たちを抑えようと、珍しく立ったままで腕を動かし始めた。座った方が集中できるが、いつものようにそれをやると、顔が黒い液体に埋もれてしまうので仕方ない。
カイルは滑らかな両手の動きと共に、優しくもの静かな声で呪文を唱え始めた。
すると、黒い何か生命体の威力が急に弱まった。凝縮していたそれらがやにわに柔らかくなったかと思うと、締めつけられていた者たちの苦悶の声もいくらか治まり、呼吸に変わったのである。
カイルの支配はたちまちにして利いた。だが完全にそれらを消し去ることをしないままに、カイルはあるところで、わざと呪術を終えた。そして、また亡霊たちを見つめている。周りのひどく苦しむ姿や声に気の毒になり、先に闇の精霊たちを抑えておくことにしたが、それさえなければ、本来は亡霊たちと話しをすることから始めているところだ。
カイルが見ている前で、その亡霊たちは、何かを探すようにして一行のそばをぐるぐると旋回している。ことにエミリオやギル、そしてアランには、大勢の霊が近づいては離れてをしきりに繰り返していた。無意味な行為ではなかったが、カイルには、それらが何をしたいのかは分からなかった。
エミリオもまた、寄ってくるそんな霊たちをただ目で追うばかりである。




