アイアスになった兄
北の庭園を取り囲む森の中では、暇を持て余しているレッドとリューイが待機していた。二人はシャナイアを送ったあと、約束の時間に間に合うよう再び馬車を飛ばして、地図に示されたこの落ち合い場所へとやってきたのだった。
「あの二人、まさか乱闘なんてことになってないだろうな。俺らみたいに。」
幌馬車の荷台に凭れながら、レッドが腕を組んで不安そうにリューイに話しかけた。
「二人とも何か嫌そうだったからなあ、あの時。それが気がかりだったんだぜ。」
「喧嘩の仕方なんて、分かんねえだろうからな。」
するとその時、それらしい立派な馬車が、広い道を外れて曲がってくるのが見えた。木々の間のまだ通れるところを、ガタゴトと車体を揺らしながらやって来る。
「レッド、来たぜ。」
馬車はゆっくりと二人の近くまできて、停まった。
ギルが手綱を置いて、御者台から降りてきた。
「待たせてすまなかった。」
「で、何も問題起こさなかったろうなあ。」
レッドが不安そうにきいた。
「ああ。特にな。」
「・・・何やらかしてきたんだ・・・。」
「よし、交代だ。」
ギルは言いながら、二人に合う制服を馬車の中から引っ張り出すと、それをそのままレッドとリューイに手渡した。アベンヌがまた予め用意してくれていたものだ。
レッドとリューイは、脱いだ上着をステラティス王家の幌馬車の方へ放り込んだ。そして、薄手のシャツの上からその制服に着替えた。ズボンの方はのちにまた着替える必要が出てくるため、アベンヌが手提げ袋の中に入れた。ただ、レッドが顔と額の刺青を隠していた制帽が用意されておらず、思えば、ギルとエミリオも堂々と顔を曝け出していた。
「あれ、帽子は?」
「庭園の使用人たちには知られていないから、大丈夫よ。」
事も無げに答えるアベンヌ。
「あ・・・そう。まあいいか。」
レッドは、布を外そうとして上げた手を、そのまま下ろすしかなくなってしまった。
そうして準備が整うと、彼らは馬車を交換した。
「じゃあ、裏口を出た辺りで待ってるぞ。」
そう言うと、ギルはエミリオと共にステラティス王家の馬車を回して去って行った。
レッドが操る王家の華麗な馬車は、森の木々の木漏れ日の下を進み、やがて例の庭園へと続く舗装された道に入って行く。
「あなた、その頭の布は制服には不自然で目立ちますわよ。お取りになったら?」
ある時、車体の席からレッドの背中に向かって、アベンヌがそう声をかけてきた。
「取ったら余計に目立つんだよ。」と、それには代わりにリューイが答えた。
「・・・どうして?」
それをレッドは初め無視したが、アベンヌがそのうち身を乗り出してきたので、もう思いきりよく片手を額へ持っていった。彼女なら騒ぐこともないだろうと。
そして布が外れたその瞬間、アベンヌはたちまち言葉を失った。が、思った通りあとは実に素早やかった。運転中のレッドの手からそれをもぎ取ると、またあわてて結び直したのである。
「つけてらしてちょうだい。」
「だから言ったろ。」と、リューイ。
一方、向かいの席に落ち着いているアリエルは、この様子にひとり首を傾げている。
「何ですの?」
「アイアスですわ。」と、簡潔に答えてアベンヌは説明を加える。「北方のロナバルス王国の町、ユダにだけあると言われている、大陸最強の戦士養成所。そうであると共に一つの組織で、その資格を勝ち得た者たちのことです。」
「大陸最強・・・あ、それで。」
「ええ、あの時、多勢を相手にかすり傷で済んでいたのも、納得ですわね。正式にはアイアンギルス。彼らは決まって、額に鷲の刺青を施しますの。数多くある養成所の合格基準を遥かに上回るレベルで選び抜かれるそうです。そして、その資格を得ると自動的に組織の一員となり、正義のため生涯戦いに身を捧げることになります。そういえば、その刺青には、そこにしかないと言われる特殊な色素が使われるそうなので、一見では分かりませんが、本物にしかない《《傷》》ですわね。」
「よく知ってるな。そこまで語ってくれた奴は初めてだ。」
するとその時、アベンヌの表情が何か急に重苦しくなったように見えた・・・。
そうと気付いてレッドが一瞬振り返ると、アベンヌはやがて語りだしたが、その声はどこか寂しそうな響きを帯びている。
「三年前に・・・傭兵稼業をしている私の兄が、アイアスになると言ってユダを目指しました。そして一年と半年ほど経ったある日、ついに鷲の紋章を施して戻って来たけれど・・・その一度きりでした。母は兄のことをとても案じて、逝ってしまったというのに・・・。」
「そうか・・・。」
「レッド、あなたも待っている人がいるなら・・・。」
レッドはこの瞬間、息が詰まった。なぜなら、自身も驚くほどの直球でそれは突き刺さってきたからだ。
そう・・・待っている人がいるとすれば、ただ一人・・・かつて本気で愛しながらも、結局は傷つける結果となってしまった女性・・・イヴ。
レッドは、胸の痛みを和らげようと、目を伏せた。それに答えられるようになるまで、やや時間がかかった。
「俺は一匹狼のようなもんだ。だから、一人で生きていくためにアイアスになった。」
「そう・・・ごめんなさい。」
レッドはそっと振り向いて、アベンヌの様子をうかがった・・・いっそう物思いに沈んでいるように見えた。かけられる言葉は見つからなかったが、ついおせっかいな気持ちが湧いた。
彼もきっと、こんな妹のことや、そして母親のことも思わない日はないだろう。アイアスの兄か・・・もし出会えることがあれば・・・。
レッドは、行く手に視線を戻した。
やがて、開け放たれた庭園の門が見えてきた。
正面ゲートだ。
ただ、蔓が絡まる門扉の前には、例によって門番が二人立っている。
リューイの目には、その二人が狼狽しだしたさまがよく分かった。
門の手前に来ると、レッドの方は冷静に馬車を停めた。
王家の馬車に向かって、うやうやしく頭を下げる門番の男たち。だが、誰の目にも明らかに顔が強張っている。
「王女様、本日は洞窟の方が工事中でございまして・・・。」と、一人がたどたどしく告げた。
「ええ構いません。わたくしは外の花々を観に来ただけですから。」
座席に落ち着いたままで、アリエルはそう答えた。
「ですが・・・。」
そこでアベンヌが顔を出し、「何かございますの。」と、痛烈な声で言った。
「い、いえ、何も・・・自分もお供いたしましょうか。」
「あなた方はここを守るのが務めでしょう。護衛ならこの二人がいますから、結構よ。さあ、通してくださいな。」
アベンヌは見事なまでに落ち着き払っている。
一方、門番の二人はバツの悪そうな顔を見合わせている。
その様子を横目に見ながら、レッドは待った。それ以上、下手なことは言えないと門番たちが判断するのは、アベンヌにも分かっていた。
すると間もなく、やはり門番の二人はすぐに身を引いた。
「はっ。では・・・どうぞ。」
手綱を軽く波打たせてレッドは馬車を進める。
「何か隠してるのがバレバレだな。」
馬車が門をくぐったところで、リューイは笑いをこらえながら振り返った。
「だからそこの門番なんだろ。」と、レッドも肩をすくった。
洞窟の前にも番人はいるだろうが、ああもたちまち焦り出すような者たちに、そちらを任せてはおけないだろう。




