新たな戦いの予兆
エミリオはただ一人だけで呼び出されて、テオ・グラントと共に修道院の図書室へと続く廊下を渡っていた。
「夕べ、何か感じたかね。」
「いいえ・・・特には。」そう答えたあと、エミリオは瞬時に悟った。「もしや、この町にも?」
「うむ・・・。闇が動き出しておるのじゃあ。しかし、まだ弱い。妖力が強まらぬうちに手を打ちたいところじゃが。」
「妖力・・・ですか。」
エミリオは、未だどこか信じきれない口ぶりである。
「昔なら、こういう話はもっと受け入れてもらえたろうがね。」
テオは、皺だらけの分かり辛い苦笑を返した。
「わしらが常に感じるようになってからでは、遅いのかもしれん。手遅れになれば、街は大惨事に陥るじゃろう。どこかにそれらは潜んでおるはずじゃが・・・。実は、すでに関係のある何かが起こった可能性が高い。それも、今日の昼間に・・・。」
瞬間的に、エミリオはリューイのことを思い出した。
「テオ殿、実は今日、リューイが奇怪な獣と組み合って肩を焼かれました。鐘楼のある広場でだそうです。原因は、その生き物の唾液だと彼が・・・。」
「トリーゴの広場じゃな。なんと、あのような公の場で。しかもその話によると、さらに特殊な力を加えているようじゃ。そうとう妖術にのめり込んでしもうた者の仕業じゃな。」
テオは厳しい顔でううむと唸り、黙っていたが、それからエミリオを見て言った。
「ニルスでは、やむなく神精術を使わされたそうじゃな。呪術を知らぬと聞いたが・・・。」
「ええ。」
「本来、決してやってはならぬこと。あやつの力が及ばず、お前さんを危険な目に遭わせてしもうて申し訳ない。」
エミリオは、微笑とともに首を振った。
「彼の判断は正しかったと思います。あの窮地を切り抜けられる手段は、ほかには無かったでしょう。応えることができて本当によかった。正直、少し時間が経った今は、あの時のことは夢のような感覚ですが。」
「少しは自覚してくれたかと思うておったが・・・そうか。」
テオはため息をついて、エミリオを見上げた。老人の深く落ちくぼんだ目は、エミリオを見つめる時どことなく恍惚となった。
「あれをどう思う。」
「立派なお孫さんでおられる。彼には、教えられることばかりです。」
「いや、あやつのことではない。お前さん達が戦った相手じゃよ。」
「ああ・・・。カイルが言っていました。恨み、憎しみ、悲しみ、そういった人間の強烈な感情が生み出した創造物だと。見えないものでも神秘の力で形になると。」
「神秘の力で・・・じゃとな。なるほど違いはないが。神秘の力には、どんなものがあると思うかね。神は善良な者ばかりではない。争いや流血を好む神もおった。遠い昔に封印された神々じゃあ。しかし、その神々がいなくなったところで、この世の邪悪な力が消滅するというわけではない。人間の醜い欲望や欲求は、その邪悪な神々が芽生えさせたものだと言われておるが、一度生まれた悪感情はなかなか消せぬもの。ゆえに、それは本来人間から生み出されるものでもある。お前さんには多くを理解してもらいたい。」
図書室の前へ来ると、テオは骨ばった手で部屋のドアをゆっくりと押し開けた。
「さあ、お入り。何か冷たいものでも頼んできてあげよう。少し待っていておくれ。」
エミリオは促されるままに入室した。
老人の引きずるような足音が遠くなると、エミリオは奥の円卓につこうと、並列する本棚の間を通って行った。
さすがに厳かな室内だ。渋い赤の絨毯が木製の風格ある本棚とよく調和しており、しっとりとして落ち着いた雰囲気をつくりだしている。奥の大きな窓から射し込む日差しで、読書のためにしつらえられたテーブルのある場所が、赤銅色にぼやけていた。
エミリオにとって、それは心の和む場所。
自分の背丈よりも少し高い本棚には、書籍がきちんと種類分けされていて、非常に見やすくなっている。神話に聖書に詩集、実用書も充実しており、家庭の医学や料理本まである。
エミリオは読書を好み、何にでも興味を示した。特に歴史に関するものが好きで、古代の知恵を学ぼうとした。彼らの心理などについても知りたがった。何もかも、一心にエルファラム帝国の平和を考えてのことだ。いずれ自身が治めるはずだった国のことを・・・。
それらを眺めながら歩いて、エミリオはふと一冊を手に取った。神殿の建築に関する本だ。エミリオは適当に開いてみて、目についた箇所を黙読した。
すると、まだ二行と目を通さないうちに、駆け足ではないが、何やら忙しない足音がどんどん近付いてくることに気付いた。
さすがにテオ殿ではないな・・・と推測して、エミリオは顔を上げ耳をすます。
間もなく、図書室のドアがバタンと開いた。
現れたのはイヴである。
だが、エミリオは本棚で隠れているので、来るなり聞こえたイヴのただならない声しか分からない。
「おじいさま、テオおじいさまっ。」
「ここだよ、イヴ。」
イヴは、声のした方へすぐさま足を向けた。
エミリオは本を棚に直して、イヴと向かい合った。
「テオ殿は、今はここにはいないよ。すぐに戻られるはずだが。」
首をかしげる思いで、エミリオはイヴの瞳をのぞき込む。
「そんなにあわてて。いったい、どうしたんだい。」
「エミリオ様、大変ですの。」
「エミリオでいい。それから、敬語も無用だ。お願いだから。」
エミリオは苦笑した。その呼び方は皮肉というより、過去の悲しみが思い出されて切なくなるので、聞きたくはなかった。
「エミリオ様、エミリオ、大変よ。どこかで呪いが・・・。」
「呪い・・・?」
エミリオは眉をひそめる。
「ええ、親友のアンリが、担当のおじさまの屋敷で見たの。きっと呪詛の御供えを。彼、アンリの伯父なのよ。」
息をきらせたイヴは、狼狽して喉をからませながら告げた。
エミリオは思わず視線をドアの向こうへ。
「テオ殿・・・。」
まさに我々は、間もなく、また恐怖と困難に立ち向かうことになるだろう・・・。




