シーナお嬢様
男が一人、我を忘れて突進して行く。刃物を振りかざして。
野次馬の中から〝危ない!〟と叫ぶ声や悲鳴が交錯した。リューイは無防備なのである。
だが束の間だった。男ががむしゃらに斬りつけようとしたナイフは簡単に避けられ、逆に鮮やかな回し蹴りを食らって、男は近くの酒樽の山へと突っ込んでいったからだ。ものすごい音がしたので、誰もがギョッとしてしばらく言葉を失った。
連中も同様で、それ以上手を出そうとする者などいない。
唐突にシンと静まり返った中で、リューイはしまったという顔をしている。それからリューイはそろそろと近寄っていき、倒れた男の様子を見て苦い顔になった。
男は、口から泡を噴いて失神していた。
「悪い。こんなつもりはなかったんだ。」
リューイは、気絶した男の仲間たちを振り返った。
すると男たちはそろって後ずさり。そして一斉に尻尾を巻いて逃げ出してしまった。
「あ、おい、友達・・・!」
あわててリューイは呼び止めたが、無駄だった。
見捨てられた男を見下ろして、気の毒に……と、リューイは肩をすくった。
そして気づけば、また盛大な拍手に取り巻かれている。
今日はなぜか目立つ日だな・・・。注目を浴びてリューイは思いながら、落ち着かないままその場を去ろうとした。
その時。
「お待ち下さい。」
今まで守られるだけだったお嬢様スタイルの少女が、背を返したリューイをあわてて呼び止めたのである。
澄んだ茶色の瞳、豊かな栗色の髪。まだあどけなさの残る、十五、六歳ほどの少女。
肩越しに振り向いたリューイは、彼女がすぐに言葉を続けずにいるので、何となくその顔を眺めていた。が、急に思い出したというように向き直って言った。
「ああそうだ、なああんた、白馬亭って所知らないか?この辺りだと思うんだけど。」
「おい、リューイ。」
その声は上から聞こえた。
思いもよらない所から呼ばれたリューイは、目の前にある建物の二階を見上げた。
ギルの声だ。エミリオの姿もある。
「ああ、いたいた。なんだ、ここか。」リューイは手を振って上にいる二人に応えると、ニコッと少女にほほ笑みかけた。「じゃあ、そういうことで。」
「あの、ぜひ御礼を!」
リューイが踏みだすと、少女は身を乗り出して叫んだ。普段大声を出さないらしく、自分の声に驚いたというように彼女は口に手を当てた。
リューイも少しびっくりして、少女を見た。
「あ、あの、ありがとうございます。ぜひ御礼をさせてください。」
「・・・なんで?」
「え・・・。」
その理解しかねるといったきょとん顔に、少女はただ見つめ返すしかできなくなってしまった。
リューイの方では助けたという意識はなく、ただ勝手に喧嘩を始めただけにすぎない。
そんな彼女に、リューイはまた無邪気な笑顔を見せた。そして片手を振りながら背中を返して、その店 〈白馬亭〉の入口へと足を向けた。
「あの子・・・。」
エミリオは察知したようだった。
ギルはエミリオと目を見合うと、それから再び外を見下ろした。その視線の先にいるのは、まだ呆然としたままでいる栗色の髪の少女である。
「・・・の、ようだ。まあ、俺が女でも惚れるがな。」
「正義感が強く、空のように純粋でたくましい金髪碧眼の美青年。天真爛漫というより、天衣無縫と言った方が当てはまるだろうね。その魅力を赤裸々《せきらら》に振りまいておいて、リューイ自身はそれに気付いていない。」エミリオはくすりと笑った。「困ったものだな。」
「笑い事じゃないぞ、エミリオ。そのうち求婚者が現れかねん。当然あいつは上手く諦めさせることなどできないばかりか、それに気付きさえしないで、相手をどんどん引き込んじまうんだ。そうでもなれば、結局は保護者同然の俺たちが悩まされる羽目になるんだぞ。」
ギルは本気で言っているのに、エミリオは穏やかにほほ笑み返して席についた。
「考えすぎだよ、ギル。」
これに、ギルは深々とため息をついた。お前は知らないだろうが、前にもあったんだよ、こんなことがよ。ギルは、リサの村でのことを思い出していた。もう、即興詩人は御免だぜ。
少女は、恍惚とした眼差しで彼を見送っていた。顔が火照っているのが分かり、胸がしめつけられるように苦しい。
私・・・私・・・。
「お嬢様、シーナお嬢様。」
お供の男性に呼ばれて、その少女シーナはハッとした。
「お嬢様、申し訳ございません。私の力が及ばずこのような醜態を・・・。」
男の顔は殴られて変形し、唇も切っていて喋り辛そうである。
「いいのよ。それより、あなた早く顔を冷やした方がいいわ。急いで戻りましょう。」
「お嬢様、あの方ならロザリオ様のお役に立てるのでは。」
侍女が囁きかけてきた。
とたんに、シーナは怯えるような目を向けた。
「いけないわ。助けていただいておいて、そのようなこと・・・。」
「しかしお嬢様、私どもには強い男が必要でございます。」と、護衛の男。
二人とも、訴えかけるような目をしている。
シーナは黙っていた。そして、白馬亭の二階の窓を見上げた。




