鐘楼広場の怪 《イラスト》
石畳の路地をはさんで軒を連ねる、屋根の高い住宅。家の戸口の呼び鈴は鉄の細工物で出来ていて、蔦の葉や薔薇の花を象りながら長く垂れ下がっている。二階、三階建てのベランダからよその家のベランダまで竿がかけられていて、頭上には洗濯物がずらりと干されてあった。あちこちに吊り下がっているそれらが、所々で日の光を遮っている。
青年は、この町を一人で散策するのは初めてのこと。いや、そのあとを、人目を盗んで追う影のような生き物がいた。
その路地を突き進むと、やがて様々な職人たちの工房が左右に並んで見えてくる。
その青年・・・リューイは、ふと立ち止まった。そして、入り口を開けっ放した工房の中で、鍛冶職人がガンガンと鉄をきたえているのに見惚れた。それから食べ物の匂いに誘われて十字路を右に折れ、市場もある賑やかな鐘楼広場へとやってきた。目の前をたくさんの人々が忙しなく横切っていく。
所狭しと並べられた商品を楽しそうに眺めながら、リューイは一人のんびりと歩いていた。
ところが、また急に立ち止まったリューイは、今度はあちこち視線をうろつかせた。
まったく唐突だった。油断していたところを、いきなり襲われるように。何か分からないが、恐ろしい感覚だ。度々覚えることがあった不吉な悪寒・・・外れた事など無かった。必ず、何かが起こった。
今度は何だってんだよ・・・。
しかし、一見その場の様子は変わらない。だが、恐らく自分一人だけが俄かに感じた胸騒ぎのせいで落ち着かない。
すると突然、今通り抜けてきたばかりの路地から悲鳴が ——!
「牛だ、牛が暴走してる!」
「いや、猪だ!」
叫んだのは、建物の二階の窓から見下ろしている男たちだ。その下は騒然とし、そこから大勢がどっとなだれ込んできた。騒ぎはそのまま市場で賑わう鐘楼広場まで拡がり、その場はたちまち大混乱に陥った。逃げ惑う人々は、悲鳴を上げながら必死になって何かに道を空けている。
こっちに来る・・・!
そう思うが早いか、リューイは恐れるよりも先に駆け出していた。
そこへ女性のかなぎり声が飛び込んできた。
「私の子が!」
この事態をリューイはサッと理解すると同時に、受け入れることができた。人々が避けてゆく先に見えたのは、一体の奇妙な獣だ。大きな猪のような体に、水牛のような二本の角を戴いた奇っ怪な生物。そんな類のヤツとなら、これまでにも関わっている。嫌な予感が的中した気分だった。
だが、そんなことで滅入っている場合ではなかった。向かってくる怪物を見た時、一緒に見えたものがあったのだ。凍りついたように立ちすくむ小さな少年の姿が。筋肉や腱を波打たせ、真っ赤な眼をらんらんと光らせながらやってくる そいつの進路にいる!
風のように現れた青年が、その謎の怪物と真っ向から対立するのは、まさに瞬時の出来事だった。暴走するそれを、青年は躊躇うことなく素手でがちりと食い止めたのだ。
どっと驚嘆の声がとどろく・・・が、次の瞬間、それは悲鳴に変わった。
リューイが足を滑らせたのである。後ろへ倒れた無防備の体に、謎の怪物はぐいぐい乗りあがり、喉を、肩を噛み切ろうとする。幸い、四肢の間に体のほとんどが入り込んでいる状態だが、右の前脚の蹄に、もろに左腕の付け根を押さえつけられていた。
それでもリューイは痛みに耐え、とっさにつかんだ角から手を放さなかった。すぐ目の前にあるぎょろりとした目玉は、血の色に燃えて飢えからくる食欲を漲らせているのである。手を放せば刹那に殺られる。一瞬でも怯むわけにはいかないと、リューイも至近距離にある醜悪な顔面を必死で押し返した。だが、出せる力の全てをもって対抗しようにも、上腕をやられてしまい、思うように力が入らない。その腕はもう頼りなく震え始め、脈が悲鳴を上げだした。
クソ・・・!
リューイは横目に、暗い路地裏の角を一瞥した。
「キース・・・!」
押し出したような声で呼ばれた時にはもう、それは堂々と姿を現し、疾風のごとく走り出している。
すると、その路地の方からまたも悲鳴と叫び声が上がる。
「危ない、今度はヒョウだ!」と。
瞬く間に現れたその逞しい黒ヒョウは、凄まじいスピードでまっしぐらにやってきて、果敢にその怪物の脇腹に食いついた。
謎の怪物はぐわっと口を開け、のけ反ってもがいた。
その瞬間、下にいるリューイは思わず仰天したが、うろたえはしなかった。
やはり、こいつは・・・!
そいつの大きな口は、大きすぎた。耳まで裂けていて、びっしりと鋸歯が敷き詰められている。おぞましい呻き声。そいつの顎から滴った唾液が、リューイの左肩にポトリと落ちた。
熱い・・・⁉
リューイは一瞬、痛みにもがいた。だが悲鳴ひとつ漏らさずそれにも耐えると、この隙にそいつの腹を力いっぱい蹴り上げる。
それは宙を舞って頭の上を越えていき、仰向けのまま、したたかに地面に叩きつけられてひきつけを起こした。
「今だ、かかれ!」
路地裏の鍛冶屋たちが、手に持ったまま出てきた鍛え終わっていない剣を、勢いよく振りかざして叫んだ。職人たちがおのおの武器になるようなものを手に、謎の怪物を血祭りにあげていく。
やがて、そいつの赤い目玉から生気が失せた。
リューイは荒い息をつきながら立ち上がり、肩口に目を向けた。蹄の痕がくっきりと押印されている。それに、小さいが抉られたような熱傷。こっちの腕は今日一日使いものになるまいと思って、参ったなとため息をついた。
とにかく、みんなに怪我がなくて良かった・・・と思い、リューイはそのまま普通に去ろうとした。今、注目の的になっていることになど気付いてはいなかった。いきなり拍手が上がってやっと、見られていると分かったのである。
すると、群衆の中から女性が一人進み出てきた。女性はリューイが助けた少年の手をしっかりと握りしめている。人々の喝采に取り巻かれているリューイに向かって頭を下げ、涙を流しながら。
「ありがとうございます。このご恩は――」
「ああいや、慣れっこだし。」
そんな返事が自然とリューイの口をついた。
一方、とどめを刺した勇敢な職人たちは、まだその場にいて頭を寄せ合っていた。誰もが眉間に皺を寄せたまま、やはり怪物としか言いようのない死骸を見下ろしている。
「なんだ、この生き物は。」
「こんなの見たことがねえ。」
「新種の生き物か?」
「別の大陸の生き物じゃないか?」
この様子を、同じように人だかりに混じって見守りながらも、冷たい視線を向けている、やつれた顔の男が一人。赤黒いシミのついた包みをさりげなく小脇に抱えているその男は、誰にも気づかれることなく、その場からそっと抜け出して静かに去って行った。




