月の女神
何をしかけても毅然と立ち続ける男の背後に、透き通る巨大な白銀の美女がいる。同じように弓弦を引いた構えでいるその姿と、纏っている光の美しさに、ネメレは呆然とした。まさに心が洗われゆくような、例えようのない、えもいわれぬ光彩・・・。
「月の女神・・・。」
時の彼方の暗闇に消えた、心の奥から這い出した感情がどっとあふれた。
〝さあ、二人が待っているわ・・・ずっと。だけど今、あなたは試されている。道を誤ればそれまで。だから帰ってあげて欲しい。あの子のところへ。〟
再びそう姉の声が聞こえて、ネメレはその場に立ちすくんだ。とてつもない虚しさと後悔に襲われた。己の罪深さに恐ろしくなり、愚かで惨めで、不意に独りでいることに耐えられなくなった。愛しい者を無性に追い求めたくなり、叶うならその場所へ帰りたくてたまらなくなった。
だが、どれほど痛切で悲しくても、もう泣くことすらできない。もう血も涙も涸れ果てた醜い体。この世にも、そしてあの世にも存在を許されない身体を無理やり引きずっているのだから、涙のような純粋で汚れないものを流せるはずもない・・・。
ギルは、誰かに支えられた、と思った。
エミリオか・・・違う、この感触は・・・。
そして同時に、ネメレの頭上から差し込んできた一筋の白い光を見た。
陽の光よりも柔らかくて優しい、それは・・・月光。
その光の中で、相手は棒のように立ち尽くしている。完全で、絶好の的だ。ギルは、照準が定まったことを確信した。今なら命中させることができるだろう。
たった今生じた、この迷いさえなければ・・・。
「姉さん、助けて・・・苦しくて、胸がつぶれそう。」
〝ええ。それでいい。さあ行きましょう。〟
〝黄泉を司るザウス(ザウスドルーガの通称)のもとへ、愛する者たちのそばへ行くといい。〟
「ディオネス・・・グラント。」
白銀の女神が筈を手放した。
しかし、実際に矢を放ったのはギルだった。ネメレの目には、向かってくる銀の矢は光沢を帯びたプラチナ色に見えた。その眩い光の輝きに、ネメレはうっとりと見入っていた。
ギルは祈る思いで見守った。痛みと必死に闘い、今やっと放つことができたその矢のことは、もうどうでもよかった。ギルは筈から手を放すと同時に、ひと言心の中で叫んでいたのである。
「そうだ、暗闇から抜け出せ。」と。
胸の前で両手の指を組み合わせたネメレは、その腕をゆっくりと上げていき、上を向いた。
「ああザウスよ、どうか・・・。」
そうしてネメレは、犯した罪に対するひたむきな懺悔と共に、忌々《いまいま》しく恐怖しか感じなくなったもの、だが捨てきることができなかったものを心の深淵から拾い上げて、死の神に乞い、くず折れ・・・やがて・・・安らかに床に伏した。
「シャーナ・・・。」
ミーアの小さな頭をぎゅっと抱きしめていたシャナイアは、確かに声を聞いたと思い、涙で濡れている瞳を開けた。
真っ先に光が射し込んできた。
雨はあがり、恐ろしい爪痕の残った部屋は、いつの間にか明るい陽光に満ちている。
ミーアの笑顔を見たシャナイアは、張り詰めた緊張と恐怖からにわかに解放された。
「シャーナ、もう平気。」
「ほんとに ? ほんとに大丈夫 ? どこも何ともないのね。」
元気よくうなずいてみせるミーアを見ると、シャナイアはほっとして手をほどき、ふらふらと床に座り込んだ。
ふと気づけば、夫人もそばで泣いている。そんな妻の肩を、主人が優しく抱き寄せていた。
シャナイアは、荒れた部屋の様相を呆然と眺めた。そうしながら、これまでのことを冷静に思い起こしてみる。そして・・・最後に、あることを確信した。
「やったんだわ・・・。」
かすれた声でそう呟いたシャナイアは、まだガクガクする膝を無理に伸ばして、よろめきながら窓辺へ向かった。そして割れている窓を開け、夢中で首を伸ばした。
「ああ、危ないですよっ。」
あわてて声をかける主人。
勢いよく振り返ったシャナイアは、満面の笑顔。
「やったのよ ! もうすぐ帰ってくるわ、必ず !」
シャナイアはますます身を乗り出した。




