存在価値
楕円形の広大な湖が視界一杯に広がっている。ここは、ニルスの町と隣接している樫の森。湖は高い山に囲まれ、森の丈高い藪の中には、崩れた遺跡が顔を出す昔の集落墓地が静かに横たわっている。白亜の街ニルスは、長い歴史を持つ城郭都市だ。ニルスの住人は飲料水、その他全ての水をこの湖に頼っていた。
この土地では、今は日中の暑さが応える季節にあたる。樫の森の朝は広大な湖のおかげで快い涼気に満ちていたが、真昼近くの今となってはそれも薄れ、喘ぐような酷暑を癒すまでには物足りなかった。
そんな蒸すような熱気の中でも、エミリオは汗一つ滲ませずに、端麗な顔を曇らせていた。瞳は眼下の湖に向けられているようだが、その光景をただぼんやりと鑑賞しているわけではない。彼の瞳は翳っていた。
あの悲惨な出来事を思い出す度に、エミリオは自虐した。(※1)
〝生き抜いてください・・・!〝
〝主人の死を無駄にしないで!〟
かけがえのない命を奪い、その家族を不幸にした。幸せな家庭を壊した・・・。
「私のせいで・・・。」
エミリオは震える声でつぶやいた。
その言葉は、今この場へ来たばかりのギルには聞こえていたが、ギルは何のことかと問う気になれなかった。
ギルは悲しげなエミリオの横顔にため息をつくと、つぶやくように言った。
「同じだ。」
声がして、エミリオはその曇ったままの顔を上げる。
「ああ、ギル。」
声の主を認めてエミリオはそう口にしたものの、その口調はずいぶん虚ろに感じられた。
「お前、あの時と同じ顔してる。」
城を出て最初にエミリオと会った日、オリーブの木の下で、そして夕焼けの中で見たその表情と。だが実際には、ギルはこれまで何度も気付いていたことだ。
エミリオは、足元の青々とした野草に視線を落とした。
「すまない・・・。」
「何に謝ってるんだ。」
ギルはやれやれというように横を向き、そこから見ることのできる湖上のずっと遠くに目をやった。
風が出てきていた。木々のざわめき、ゆらめく湖・・・聞くというより、心で感じる自然の合唱に、ギルは耳をすました。
「存在価値って・・・考えたことあるだろう。」
ギルは、視線をそのままにして話しかけた。
「存在価値・・・。」
「自身の存在価値だ。俺は城を出てからというもの、度々考えてしまうことがある。」
ギルはそう口にすると、目を伏せた。
ギルの言わんとしていることが、エミリオには分かった。そして、彼もそれに苛まれていること、あらゆる不安と懸念から無理に身を振りもごうとしていることを、エミリオは知った。彼にもまたすべきことがあり、守るべきものがあった。捨ててきた母国の平和や未来。それらをほかの者に託してきたと言っていた彼ではあるが、かつては、己の存在の大きさや重さを常に感じながら、そのために尽力するつもりでいたはず。
エミリオもまたそうだった。しかし今、何も持たない孤独の身となり果てたばかりでなく、その存在を葬られようとまでしている。
己の存在価値。それを考えた時、ギルにとっては虚しさに罪悪感が伴うものとなり、エミリオにとっては、深い悲しみをもたらすものとなる。
この慣れない世界で、この先うまくやっていけるのかどうかも分からないまま、自身の新たな存在価値を見出せずにいれば、この虚しさと罪悪感に押しつぶされて、そのうち死にたくもなるのではないか・・・。ギルにはそれが怖かった。
ギルはようやくエミリオの方を向くと、ぎこちなく頬に笑みを浮かべて、エミリオにも自分にもこう言った。
「だが、存在価値なんてものは、きっと暮らしの中で自然に生まれてくるものだ。俺たちは新たな人生を始めたばかりじゃないか。この先いろんな出会いが待っている。例えば、その中で誰かと愛し合えるとしたら、必要とされているそれだけで存在価値ありだ。何があったかを知らずに言うものなんだが、もっと前向きに生きてみろよ。」
もっと前向きに・・・。エミリオは、ランセルとの別れ際に、自分が残した言葉を思い出した(※1)
〝ランセル、いずれその手に、エルファラム帝国の平和と臣民の生活が委ねられることになる。不安だろうが、彼らのためにしっかりと前向きに生きて欲しい。〟
エミリオは下を向いて、苦笑した。
「みんなは?」
「シャナイアはミーアのお守りで散歩に付き合わされてる。あいつらは、〝たまらん。〟〝死ぬ。〟なんてぼやきながら、湖の方へ下りて行った。今頃、水浴びでもしているんだろう・・・俺たちも行くか?」
そう誘ったあと、ギルは不意に、エミリオと川で魚のつかみ取りをした時のことを思い出した(※2)。あの時、エミリオの右肩に、それほど古いとも思われない明らかに斬りつけられた傷痕があるのを見て、どうしたのかと気になって仕方がなかった。普通に戦っていて、あんなに大きな傷をこの男につけることができるだろうか・・・普通でなかったならば・・・と。
その傷は、エミリオが皇子の名を捨てた理由と何か関わりがあるのかもしれない。そう思ったからこそ、あの日、ギルは訳をきけなかったのである。
エミリオはやや考えて、軽く首を振った。
「私はいい。そうか、日差しが強いからな。」
二人は、陽光を反射して輝いている湖に目を向けた。
※1 参照 『アルタクティスzero』 ―― 外伝5「皇家の闇」
※2 参照 『アルタクティス1 邂逅編』―― 第3章「精霊石」 友情の芽生え