ありがとう
人間である私は、今果てようとしている。これからは、その時、その瞬間を生きていく。一人寂しく泣いていた夜の記憶や、辛い思い出の数々が、過去が無くなる。これでいい。涙も、醜い痣も、苦痛も無くなる。
これでいい・・・。
ところが、違う意志の力がフィアラに行ってはいけないという。フィアラはこのまま消えてしまいたいのに、それがまた残念で、惜しいことだと思わせる強い力が。
ああ、あの人だわ。彼が呼んでいる。構わないでって言ってるのに・・・。ダメよ、行かせて。引き止めないで。お願いだから・・・。
フィアラは唇に温もりを感じることができた時、そこに父と母がいると思った。おやすみの時は額に、おはようの時は頬に、決まってキスをしてくれた父と母・・・。
フィアラが微かに、非常に弱々しいが、喘いだのがカイルには分かった。
息をふき返した。
「よかった、もち直した。」
カイルは、フィアラの脈や体をあらためて、一命をとりとめたと確信できるようになると、額の汗を拭いながらホッと胸を撫で下ろした。
「カイル・・・。」
喘ぎ喘ぎ、フィアラは彼の名を口にした。
「喋っちゃダメだ。もう少し安静にして。」
「私に・・・キスを?」
その声はひどく掠れていて、言葉にはならなかった。
カイルはにこりとほほ笑んだ。
「もう大丈夫。きっとよくなるよ。朝食、食べてくれたんだね。今日は、皆と一緒に食べて欲しくて誘いに来たんだ。ほら、見て。皆いるのが分かる?君に紹介したかった僕の仲間たちが、今ここにいるんだ。村の人にも君のことを話したよ。今、君を迎える準備をしてくれてる。みんなが君を待ってる。だから、僕たちと一緒に村へ行こうよ。焼きたてのパンがすごく美味しいんだ。」
フィアラもうっすらとほほ笑んだ。それを見ると、カイルはますます自信がついて嬉しくなり、上手く伝えられるような気になった。これまで試みた中で一番上手に話せると思ったし、事実そうだった。カイルはこの時、最もいい表情で、最も多くを語ったのだ。
「いい人ばかりだし、とてもいい所だよ。大きな牧場があってさ、牛や馬がたくさんいるんだ。食べ物は何でも新鮮で美味しいし、それできちんと食事をして、栄養をとって、ふかふかのベッドに横になるんだ。君に教えることが、たくさんある。だから僕、また会いに来るよ。約束する。度々会いに来るから、だからお願い・・・生きて。」
「カイル・・・ありがとう。」
フィアラの唇が動いて、何を言ったのかが分かった。それでカイルは一瞬言葉を切ったが、フィアラは楽そうにしていたし、呼吸も落ち着いていたので言葉を続けた。
「昨日はお祭りだったんだ。僕たちはよそ者だけど ――」
フィアラはそろそろと手を伸ばして、血で汚れているカイルの頬に触れた。フィアラはそよ風のように切ない笑みを、蒼白な顔に力無く乗せた。それは喜びに輝いていたが・・・何かがおかしかった。
「ありがとう・・・。」
フィアラはもう一度言った。
カイルは、不意に絶望に気付いた。
さようなら。
そう言われた気がした。
「フィアラ?」
エミリオは、悲しみに目を伏せた。
ギルも唇を噛んで顔を背けている。
二人は、少女が最初に「ありがとう。」と言ったその時点で、その意味をサッと理解していた。彼女にその気があるなら、「ありがとう。」そう返す前に頷くはず。だが、違った。彼女は「うん。」とうなずく代わりに、改まって「カイル・・・。」と、呼びかけたのである。もう止めようがない・・・そう誰よりも早く二人は悟ったのだった。
ほどなく、フィアラは目を閉じた。それから意識が、呼吸が刹那に消えていく。それは驚くほど静かで、あまりにも速やかに、すうっと・・・消えていく命。何もできないうちに。
「死んじゃダメだ、君はまだ ―― 。」
カイルには信じられなかった。生死に関する確信で、外れたことなど無かったのだ。
「待って、逝かないで。」
カイルの視線がフィアラの顔から虚空に飛んだ。それはカイルとエミリオにしか見ることのできないものだが、ほかの者もそれが何を意味するかは知っている。