死の前兆
死の前兆というものには、安堵と解放感が伴っていた。憧れているものにやっと変われるのだという喜びが伴っていた。今度こそと願いさえした。怖いものは何もない。その前の非常な苦痛も、それを思うと堂々と受け入れることができたのだ。
だが、今は否定したかった。悲しみがあった。たった一つだけ、この思いのためだけに抵抗しようとしていた。
両手両膝をついたフィアラの手元には、まだ少し青白い野生の桃の実があった。それには梢で文字が刻まれてある。書きつけてあるのは、〝また明日〟ただそれだけだった。
フィアラは胸がキリキリと痛むのを、息を吸ったり吐いたりして、必死で抑えようとした。もし最後の最後になって、彼がここへ来たのを見ることができたら、本当の安らぎが何かを知ることができると思った。彼は霊と話ができると言っていた。だが自分は死ぬのではない。神の恩寵によって、風に生まれ変わるのだ。
けれどその前に、彼に触れられたかった。今まだあるこの手に、肌と肌で。そして、もう一度、彼の温もりを感じたかった。躊躇なく本気で抱きしめてくれた、彼の温もり。
だが、今にも息を塞がれそうな苦しみと、いつにも増して容赦ない胸の痛みに、自分は急速に死に近付いているのだと、フィアラは悟った。それは火箸で刺されるような強烈な痛み。これまでのように、胸をつかんでどうにか抑えようともがいても、とてもいうことを聞いてくれそうにはなかった。
ああ神様・・・お願い待って、もう少しだけ。まだ言ってないの・・・言わなくちゃいけないの・・・私の本当の気持ち。お願いします、もう一度だけ彼に会わせて・・・!
フィアラは逆らうことのなかったものに初めて逆らい、必死で生命にしがみつこうとした。そうして、激しく切なく彼を求めた。
「フィアラッ!」
不意にかやっとか、フィアラはついに待ち望んでいた声を聞いた。
彼の声・・・来てくれた! 持ち堪えたんだわ。私は彼に見守られて変わるのね。ああ、これでやっと行くことができる。もう思い残すものは何もない。人間であるうちに、また幸せを感じることができたのだから・・・。
フィアラは逆らうのを止めた。
ああ神様・・・慈悲深き神様・・・。
カイルが駆けつけた時、フィアラはもはや息を吸うのも難しかった。
「今、薬を。」
カイルは楽な姿勢をとらせようと、フィアラの腕をつかんだ。
だが、フィアラは無理にそれを振り払う。
「ダメ、構わないで。いいのよ・・・これで。」
「よくないよっ。」
カイルが怒鳴ると、フィアラは青ざめた顔を辛うじて笑みに変えた。
「やっと・・・願いが・・・叶うわ。」
「お願い、もう我慢しないで。僕の話を聞いて!」
カイルはフィアラの肩につかみかかり、背中を支えた。まずは、どうにか薬を飲ませなければと躍起になった。
そうするうちにもフィアラはまた激しく咳き込みだし、もう何の言葉も口にすることができなくなった。それでもなおカイルの手を拒み、もがき、そして・・・いきなり大量の喀血を起こした。鮮紅色の真っ赤な血が地面にバッと広がった。カイルが驚いて目をみはると、その一瞬のうちにフィアラはもがいて転がり、こともあろうに、そのまま仰向けになったのである。
いけない、喉が詰まる!
「カイル!」
その時 全く不意に、どういうわけかエミリオの声がした。しかし、カイルはチラとも見なかった。そのあと次々と仲間たちが寄ってきたが、それどころではなかった。
カイルは、先日起きっぱなしにして帰った朝食の籠の中から、パンや干し肉を切り分けるために、シャナイアが入れておいた鋭利なナイフを取り出した。そして自分の着衣の袖の縫い目に刃先を食いこませ、乱暴につかんで引きちぎると、フィアラの口中に溜まった血液をぬぐった。血を吸飲してしまったら大変だ。
カイルは手際よく慎重にやり、そうして血を取り除いた時・・・なんと、フィアラは息をしていなかった。すぐさま心臓に手をやったカイルは、ただちに胸骨圧迫。気道を確保して、フィアラの口に直接 息を吹き込んだ。巧みな動作で正しい心肺蘇生を行った。
それ一つに集中しているカイルのこめかみは、汗で濡れていた。目にかかる前髪を、いかにも邪魔だと言わんばかりに無造作に掻きあげる。だが目つきは真剣そのもので、傷病者の胸の動きと、吐き出される息を確かめることを忘れなかった。その顔は、まだフィアラの口の周りに残っている血で汚れていた。
仲間たちはただ見守ることしかできなかったが、この少年が、医師としていかに冷静で辛抱強く、偉大であるかを知った。怖いほど懸命で・・・だが、やるせない姿に見えた。