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【新装版】アルタクティス ~ 神の大陸 自覚なき英雄たちの総称 ~   作者: 月河未羽
【新装版】 第5章 風になった少女 〈 Ⅱ〉
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死の前兆



 死の前兆というものには、安堵あんどと解放感がともなっていた。あこがれているものにやっと変われるのだという喜びが伴っていた。今度こそと願いさえした。怖いものは何もない。その前の非常な苦痛も、それを思うと堂々と受け入れることができたのだ。


 だが、今は否定したかった。悲しみがあった。たった一つだけ、この思いのためだけに抵抗しようとしていた。


 両手両膝をついたフィアラの手元には、まだ少し青白い野生の桃の実があった。それにはこずえで文字が刻まれてある。書きつけてあるのは、〝また明日〟ただそれだけだった。


 フィアラは胸がキリキリと痛むのを、息を吸ったり吐いたりして、必死でおさえようとした。もし最後の最後になって、彼がここへ来たのを見ることができたら、本当の安らぎが何かを知ることができると思った。彼は霊と話ができると言っていた。だが自分は死ぬのではない。神の恩寵おんちょうによって、風に生まれ変わるのだ。


 けれどその前に、彼に触れられたかった。今まだあるこの手に、肌と肌で。そして、もう一度、彼のぬくもりを感じたかった。躊躇ちゅうちょなく本気で抱きしめてくれた、彼の温もり。


 だが、今にも息をふさがれそうな苦しみと、いつにも増して容赦ない胸の痛みに、自分は急速に死に近付いているのだと、フィアラは悟った。それは火箸ひばしで刺されるような強烈な痛み。これまでのように、胸をつかんでどうにか抑えようともがいても、とてもいうことを聞いてくれそうにはなかった。


 ああ神様・・・お願い待って、もう少しだけ。まだ言ってないの・・・言わなくちゃいけないの・・・私の本当の気持ち。お願いします、もう一度だけ彼に会わせて・・・!


 フィアラは逆らうことのなかったものに初めて逆らい、必死で生命にしがみつこうとした。そうして、激しく切なく彼を求めた。


「フィアラッ!」


 不意にかやっとか、フィアラはついに待ち望んでいた声を聞いた。


 彼の声・・・来てくれた! 持ちこたえたんだわ。私は彼に見守られて変わるのね。ああ、これでやっと行くことができる。もう思い残すものは何もない。人間であるうちに、また幸せを感じることができたのだから・・・。


 フィアラは逆らうのを止めた。


 ああ神様・・・慈悲じひ深き神様・・・。


 カイルが駆けつけた時、フィアラはもはや息を吸うのも難しかった。


「今、薬を。」


 カイルは楽な姿勢をとらせようと、フィアラの腕をつかんだ。


 だが、フィアラは無理にそれを振り払う。


「ダメ、構わないで。いいのよ・・・これで。」

「よくないよっ。」


 カイルが怒鳴ると、フィアラは青ざめた顔を辛うじて笑みに変えた。


「やっと・・・願いが・・・叶うわ。」

「お願い、もう我慢しないで。僕の話を聞いて!」


 カイルはフィアラの肩につかみかかり、背中を支えた。まずは、どうにか薬を飲ませなければと躍起やっきになった。


 そうするうちにもフィアラはまた激しくき込みだし、もう何の言葉も口にすることができなくなった。それでもなおカイルの手をこばみ、もがき、そして・・・いきなり大量の喀血かっけつを起こした。鮮紅色せんこうしょくの真っ赤な血が地面にバッと広がった。カイルが驚いて目をみはると、その一瞬のうちにフィアラはもがいて転がり、こともあろうに、そのまま仰向あおむけになったのである。


 いけない、のどが詰まる!


「カイル!」


 その時 全く不意に、どういうわけかエミリオの声がした。しかし、カイルはチラとも見なかった。そのあと次々と仲間たちが寄ってきたが、それどころではなかった。


 カイルは、先日起きっぱなしにして帰った朝食のかごの中から、パンや干し肉を切り分けるために、シャナイアが入れておいた鋭利なナイフを取り出した。そして自分の着衣のそでい目に刃先はさきを食いこませ、乱暴につかんで引きちぎると、フィアラの口中に溜まった血液をぬぐった。血を吸飲してしまったら大変だ。


 カイルは手際てぎわよく慎重にやり、そうして血を取り除いた時・・・なんと、フィアラは息をしていなかった。すぐさま心臓に手をやったカイルは、ただちに胸骨圧迫。気道を確保して、フィアラの口に直接 息を吹き込んだ。たくみな動作で正しい心肺蘇生しんぱいそせいを行った。


 それ一つに集中しているカイルのこめかみは、汗で濡れていた。目にかかる前髪を、いかにも邪魔だと言わんばかりに無造作むぞうさきあげる。だが目つきは真剣そのもので、傷病者しょうびょうしゃの胸の動きと、吐き出される息を確かめることを忘れなかった。その顔は、まだフィアラの口の周りに残っている血で汚れていた。


 仲間たちはただ見守ることしかできなかったが、この少年が、医師としていかに冷静で辛抱しんぼう強く、偉大であるかを知った。怖いほど懸命で・・・だが、やるせない姿に見えた。








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