秘密の花園
ギルは目を細めて、それから先を話した。
「彼女の胸は弾みました。足も弾みました。ところが、疲労も忘れるほど夢中で駆けていたその足取りは、途中でにわかにゆるくなり、そして、ぴたりと止まりました。そこにいたのは、彼女が一心に追い求めていた姿ではなかったのです。」
窓から褐色の髪が覗いたが、彼女はとても結末を知りたがっているようなので、それに気づくことはなさそうだ。
最後の部分を語る時だけは、ギルは声の調子を深めた。
「ですが、彼女はその青年を知っていました。ようく知っていました。心には存在しなかったけれど、ずっとその傍らにいた人です。極めて近いところにいたので、彼女は彼を知り尽くしていると思っていました。ですが、彼は、彼女の知らない秘密の花園を、一輪のバラから育てた大きな花園を、自身の心にしっかりと造っていたのです。彼はやっと言いました。あなたを愛していました・・・ずっと。気付いて欲しかった・・・。それから彼は不器用にほほ笑んで、両手を一杯に広げました。彼女の頬に、光る雫が伝わりました。彼女は再び駆けていきました。禁断の園の手前まで・・・。」
こうして語り終えて見てみると、彼女はこの話にすっかり引き込まれた様子で、穏やかな瞳をしていた。
効果があればいいが・・・とギルはまた窓を見た。今の物語は、彼女一人だけに聞かせたわけではなかった。そうというより、むしろ・・・。
その娘の方へ視線を戻したギルは、微笑して、優しく言った。
「彼の故郷は、確かに遥か南の禁断の地です、お嬢さん。」
自分でもキザなやり方で、言い回しだとギルは思ったが、リューイのことを説明する前になぜかこの物語が浮かび、役者がそろっていることに気づいてしまったのである。それに、最後の台詞はなにも格好つけたわけではない。リューイの故郷は、オルフェ海沿岸の野生の王国だ。禁断の密林・・・と誰もが思うだろう。そしてリューイは、この上なく自由で無垢で広大な男だ。その野生の王国の主なのだろうから。
やがて、ギルはもう一度馬の首をなでてから、意味深な微笑を彼女に残して、小屋の出入り口へと爪先を向けた。
娘はその場に佇んだ。彼の背中を見ていた。
一方、外へ向かって歩きながら、ギルは小声で「くそう・・・。」と忌々《いまいま》しげに漏らした。
さっき語って聞かせたあの物語は、実はダルアバス王国の王太子ディオマルクから、不承不承聞かされた話を基に、とっさに作り変えてアレンジしたものだ。
ダルアバス王室とアルバドル皇室とは旧知の仲である。優秀な技術と知恵を備え、資源に富み、裕福だが武勇に優れた人材には恵まれなかったダルアバス王国は、逆にそのような軍人には恵まれながらも、技術も財力も乏しく、力をつけられなかったアルバドル王国と、互いの利益のため、軍事に限らずいろいろと手を結び、決して裏切ることはなかった。そのおかげで、ダルアバスから多くを学んだアルバドルは、飛躍的な成長を遂げることができたのだ。
両国はそうして、この乱世が続く時代にあっても、長く友好関係を保ってきた。そして互いの君主は、もともと他国の軍人と王子という立場でありながら親友となり、やがて共に王となって、その息子であるギルベルトとディオマルクは、幼馴染みとなった。
ディオマルクは、浅黒い肌のたいそう美しい王子である。気心の知れた間柄ではあるが、それだけに、互いがしゃべり出すとどこか冗談めいた会話になるのが玉に瑕だ。
それで、あの色男にこの物語を聞かされた時は、男女立場が逆で、それを寝室に招き入れた佳人に、吟遊詩人さながらに語って聞かせるのが奴の手だ。それがこんなふうに役立つことがあろうとは。くそう・・・へんに恩を受けた気分で、なぜか不愉快だぞ。
そんなことを思いながら外へ出たギルは、眩い陽光に目を細め、手庇で遮りながら、「おい、君。」と、見えぬ相手に向かって呼びかけた。
返事はなく、姿も現さなかった・・・が、気配は感じられた。
「まずは気付いてもらうことじゃないか。」
一向に反応はなかったが、それを待つつもりもなかった。
ギルはそのまま真っ直ぐに競技場へ下りて行った。
彼が去ったあと、少しして、娘は眩い陽光が射すおもてへ出た。
するとそこで、彼女は誰かに呼び止められた。
どこからともなく現れた褐色の髪の青年は、握り締めていた真っ赤な花を一輪、彼女の前に突き出した。
そして、たった一言、照れくさそうにしながら、やっと伝えた。
悠長に足を進めていたギルは、ある時ふと、気持ち良く晴れ渡った空を仰いだ。
奴が吟遊詩人なら、俺は即興詩人ってところか。