五、不思議な穴
五.不思議な穴
ティルトの村の広場ではかがりび篝火が幾つか焚かれ、夜でも作業できるようにしていた。
だが、その日は決して十分とはいえないまでも、作業が一段落したので村人達は、わずかな見張りを残して眠りに就いていた。
女子供を避難させてから、満足な休みも無いままだったのだ。さすがにこのままだと敵兵ではなく、疲れに殺されてしまいそうであったからだ。
アスターは、ジュランから急ぐように言われていただけで、休憩の取り方などについては任されていた。明日の朝までは休む旨を伝えると「わかった」と言われただけで、他には何も言われなかった。
騎士達よりも夜目の利く者を、交代で見張り台の上に立たせた。他の者には弓矢と楯、それと用意できる者は剣を自分のベッドの脇に置くように指示して眠りに就いた。
何時攻められてもすぐに戦えるようにとの配慮からである。最も、人同士の戦いなどした事の無い者達だ。魔物に有効かどうかも判らない。気休めでしか無い様にも思われたが。
エイグは相変わらずアルスのそばにいた。
玄関を入った部屋の窓際で椅子に座り、槍を片時も放さずに視線を広場のかがり火に注いでいる。部屋には他に、ジュランの部下の騎士が二人いた。ジュランからの指示でアルスの護衛に就いているのだ。
騎士団長の息子でなかったら、よこしてはいないだろう。ジュランは決して利己的な嫌な男ではなかったが、人並みの保身的な考えはあるようだった。
カインはアルスの隣の部屋にほとんど篭りっきりでいた。今も部屋の中だが、寝ているのか起きているのかは解らなかった。たまに部屋から出てきて外の様子を見回ると、また部屋に戻っていく。村人の目には敵を警戒しての見回りに映っているようであった。
ドーン・・
それは唐突だった。
予想していた事ではあったのだが、永遠に来ないで欲しいと願うばかりに、気が反応するのに時間がかかったのだろう。エイグは我に返ると、空を見ていた眼を見張り台に向けて、得物を確かめながら立ち上がった。
見張り台では、辺りを警戒していた村人が大声で「何か来るぞー」と叫んでいた。幸運だったのは、月が出ていて、少し遠くからでもそれに気付く事ができた事だろう。
村人達は、見張り台から発せられた銅鑼の音に半ば恐慌をきたして右往左往している者がほとんどであった。
「武器を持てー」
騎士達の怒鳴る声と、一緒になって村人達を落ち着かせようとするアスターやジェイズの姿があった。
しばらくかかって、ようやく怯えた村人を広場に集め終わると、そこへ城壁の上から向こうを見に行っていたジュランが戻ってきて話し始めた。
「どうやらついに来たようだ・」
その声を聞いて、村人達の間に大きな動揺が起こる。中にはすすり泣く声も聞こえる。
エイグとカイン、それに一緒にいた騎士もジュランの話を聞こうと集まっていた。アルスも持ち慣れない剣を携え、狩用の軽い皮のジャケットを着て、少し青褪めた顔をしながらジュランを見ているのが見える。
「時間が無い、一度しか言わないので良く聞くように」
ジュランは、目の前が正規兵だけなら言わない前置きを言うと、一呼吸置いて続けた。村人は、ジュランの良く通る力強い声に黙って耳を傾けていた。
「良いか。討って出る事はせずに、中から飛び道具で応戦する。幸い、狩りで鍛えた弓の名手揃いである。鎧の隙間、なるべく首や顔を狙え」
ジュランはそう言うと、剣を鞘から抜き放ち「我らには、天上の神々と剣国王リジャール公武王のご加護がある! 勇気を忘れるなっ! 敵に怖れを抱かせるのだっ!」と一際大きな声で鼓舞すると、振り被った剣を門に向けて振り下ろした。
それを合図に、村人と騎士達は一斉に勝鬨を上げると、手に得物を持って城壁へ上った。
どうやら、村人達はジュランの気迫と言葉に勇気を奮い起こしたらしい。エイグはさすがだと思いながら、自らも城壁へ上がり槍を脇において弓を構えた。そばにはアルスの姿も見える。
隠れていてくれと諭しても、この少年は「自分も戦う」と聞かなかったのだ。
騎士達も村人達に混じり、弓を構えて前方を見据えている。
ティルトの村の北側には、少し狭い平野があり、その北側には西へと広がる大きな森が広がっていた。森の少し東よりのところには、砦へと向かう小さな街道が北へ延びている。
昼間なら見通しの良い平野も、夜の闇が全てを飲み込もうとその口を開けているようである。白々と降り注ぐ月明かりだけが、闇の中でそれをかろうじて視界に映し出していた。
村から歩いて四半時ほどの場所、ちょうど平野から北へ延びる街道に入る場所に、横一列に並ぶ騎兵の姿があった。
帝国の軍勢であった。村の城壁からでは夜の闇も手伝って、正確な数は判らない。すでに半時ほど、帝国兵はその場でこちらの様子を窺っていた。
村の広場に焚かれていたかがりび篝火はすでに消され、辺りを静寂が包んでいる。どうやら、村の明かりが消えたのを警戒して帝国兵は立ち止まったらしい。
夜の静けさの中、遠くから馬の嘶きが聞こえてきていた。耳を済ませれば、村人達の緊張した息遣いも微かに聞こえてくる。
―ごくっ・・
緊張の為か、誰かが生唾を飲み込む音が聞こえて来た。
帝国兵に聞こえる筈は無いのだが、その音を合図にした様に、前方に見える騎兵の一団が動き始めた。馬の蹄の音がだんだんと近づいて来る。
「来るぞっ!」
誰かが、声を挙げて注意を促した。
「弓を構えー」
ジュランの声だ。ジュランは頭上に剣を振りかざすとそこで止めた。
馬に乗った影の軍団が、雄叫びを上げながら近づいて来る。
蹄の音と馬の鳴き声、そして帝国兵の上げる雄叫びが徐々に大きくなっていく。
近づくに連れて、帝国兵の数がそれ程多くない事が判かった。まだ後ろに隠れているのかもしれなかったが。
「ひるむな! 敵の数は少ないぞっ!」
だんだんと近づいて来る敵兵の姿を見て、恐れを抱いて身を引こうとする村人達の姿にジュランが叫んだ。
「狙いよーういっ」
帝国兵は小さな平原の中央まで迫ってきていた。もう少しで弓の届く距離に近づこうとしている。
―ヒュッ
しかし、ジュランの合図を待たずに誰かが矢を放った。その音を合図に、他の村人も一斉に矢を放っていった。
「まだ早いっ」
エイグは思わずそう叫んだ。
放物線を描きながら放たれた矢は帝国兵達には届かず、地面に次々と突き刺さっていった。
「次の矢構えっ」
ジュランは、慌てて次の矢をつがえさせると、再び剣を振り上げてその時を待った。兵国兵は徐々にその距離を縮めている。
「十分ひきつけるのだっ」
今度はそう付け加えると、狙いを定めていく村人達を大声で鼓舞してから帝国兵に眼を向けた。
「放てーっ!」
帝国兵が石壁から僅か百歩ほどのところまで来ると、ジュランはそう言い放って剣を振り下ろした。と、同時に石壁から一斉に矢が放たれる。放物線を描く矢は、吸い込まれるように帝国兵の頭上に降り注いだ。
だが、ほとんどの矢が硬い甲冑や楯に阻まれてしまい、数人の帝国兵が落馬していくのが見えただけであった。
「放てーっ!」
次の矢をつがえた村人達は、ジュランの号令に従って次々と矢を放っていく。
今度の矢は先ほどよりも正確に帝国兵を捕らえていた。また何人かの帝国兵が落馬していく。
四度目、五度目と矢が放たれ、その度に何人かの帝国兵が倒れていった。中には矢が馬に当たり、馬ごと崩れていく者もいる。少しずつではあるが、確実に敵を減らしていた。
しかし、帝国兵は石壁の目の前まで来ると、突然、進路を西へとり、上体をこちら側に向けて、左手に構えた楯に身を隠した。
「やったぞー」
村人たちから歓声が沸いた。帝国兵を追い払ったと思ったのだ。
否。
エイグはその時、帝国兵達の構える楯の上にあるそれを見逃さなかった。
「伏せろー!」
そう叫びながら、エイグは隣にいたアルスを抱きかかえるように城壁の床に倒れた。事態を把握できないアルスは、戸惑ったままエイグに身を任せた。ジュランの「身を隠せ」と言う叫びが、悲鳴のように聞こえた。
―ヒュッ・・ヒュヒュヒュッ
矢が飛ぶ風切り音が聞こえた。
一瞬の間を空けて、城壁には大量の矢が次々と浴びせられた。瞬間。何が起こったのかわからずに、何人かの村人達が倒れていった。断末魔の悲鳴が聞こえて来る。
倒れたエイグの視界でも、何人かの村人が胸や首に矢を受けて倒れていく姿が見えた。
帝国兵達は馬の進路を変えて、移動しながら矢を放ってきたのである。矢の風切り音や降り注ぐ矢の数から、連射可能な石弓だろうと思われた。
しばらく経ち、矢が飛んで来ないのを確かめると、エイグはアルスから身体を離して、屈んだままの上体で城壁の向こうを覗き込んだ。
すでに石壁の前には帝国兵達の姿は無かった。西へ抜けた後、もう一度進路を変え、北の小さな街道の方へ動いて行く黒い塊が見えただけであった。
東の山々の頂が少しずつ白み始め、月は徐々にその輝きを失っていった。
ここは大陸の西にある王国の、北の山間にある小さな村ティルト。普段は畑を見回る者や狩をする者の姿があり、小さいながらも活気のある生活が営まれている。
だが、今は陰気な空気が流れ、悲嘆さを漂わせる村人達の顔には疲労と絶望の表情が浮かんでいた。数人の騎士達を石壁と見張り台の上に残し、村の広場には生き残った者が集まっていた。嗚咽が聞かれ、騎士も村人も皆、うなだれていた。
昨晩の帝国兵との一戦により、十人ほどの村人が命を落としていた。
遺体は十分な葬儀もできずに、墓地へ埋葬されていった。
帝国兵達の数は思ったより少なく、村人達と同じ程度だと思われた。さすがに完全武装の騎兵でも、小さな村に似つかわしくない城壁の為に、一気に攻め落とすには無理があると考えたのだろう。
帝国兵達は、相変わらず北の街道の辺りに陣取り、動く気配を見せないでいる。
本隊の到着を待っているのだろう。
それがジュランの見解であった。
確かにそう思えた。いたずらに兵力を消耗する愚は犯さないだろう。
例えどんな理由であれ、今はそれが唯一の救いであった。砦から火の手が上がってすでに十一日目。順調な行程であれば王都を出発した騎士団は、すでにシュプールを経由してこちらへ向かっていると思われたからだ。
ジュランは、集まっている村人達に「もう少しの辛抱だ」と伝え「騎士団が到着すれば助かる」と、説いていた。
アスターやジェイズの、村人を勇気付けている姿も見える。
しばらくの後、村人達は解散して力無くそれぞれの家に戻った。
エイグは、アルスが恐怖や不安に負けないか心配であった。だから、悲惨な村人達の姿をあまり見せないようにと考え、カインと三人で石壁の一角にいた。
そんなエイグの気持ちを察してか、アルスは弱音を吐く事も無く、石壁の上でカインから剣の手解きを受けていた。
騎士の息子として、幼い頃から剣術を教え込まれてはいたが、アルスは基本中の基本しか知らず、実戦ではまだ力不足だった。少しでも生き延びられるようにとの考えからである。
槍の扱いには慣れたエイグも、剣の扱いはそれ程でもなかった為、カインに剣を教えるように頼んだのだった。カインが引き受けてくれるかどうか不安であったのだが、カインは二つ返事で承諾し、暇さえあれば剣の基本をアルスに教えていた。
まだ秋も始まったばかりであったが、山の夜は平地より気温が下がる。エイグは、羊の毛を編んで作った毛布で身体を包んで寒さを凌ぎながら、帝国兵の動向を警戒していた。
吐く息にも少し、白いものが混じっている。陽が昇れば気温は上がってくるだろう。白みを増す東の空のように、希望が現実のものになる事を願うばかりであった。
村は相変わらず重々しい空気に包まれていた。
普段なら気持ちの良い小鳥の囀りも、今はどこか不気味な感じさえ与えている。
山々から、時折吹き降ろす北風に身を縮ませながら、見張りについている数人の人影は、北の小さな街道の入り口に陣を張る帝国兵達に眼を向けていた。
帝国兵の張る天幕も、風になびいてバタバタと波を打っているのがわかるが、音まではさすがに聞こえてこない。
最初の襲撃から、すでに三日が経っていた。その間、帝国兵は何度か矢の届くギリギリのところまで進んでは引き返し、村へ圧力をかけてくる。その度に村人達の疲れは蓄積していった。
村人から、何とか西の街道からタンカスの街へ逃げられないかとの提案も出たが、馬の足に徒歩で敵う訳も無く、結局立てこもって騎士団の到着を待つ事になっていた。
それに気付いたのは、見張り台の上にいた若い村人であった。
エイグはちょうど、夕食にと配られた硬い干し肉に噛り付いているところだった。隣にはアルスとカインも剣の練習の手を休め、少し早めの夕食を味わっている姿があった。
その若い村人の緊迫した声に、三人は石壁の外へ眼を向けた。
北の街道の入り口に陣取る帝国兵の向こう側、街道が緩い曲線を描いて右手に見える崖の影に消える部分に黒い塊が見える。
「あれは・・」
エイグは呟いていた。
見張りの声に、石壁の上へ様子を見に来た村人や騎士達も、それを見つけると悲鳴にも似た声をあげている。
その黒い塊は、見る間に崖から長く伸びながら帝国兵の陣へと伸びてきていた。
帝国兵の本隊である事は明白だった。黒い塊の中に、一際大きな建物のような物もこちらへ向かって動いてくるのが見える。
―投石機!
エイグは、見覚えのあるそれが砦を襲った投石機であることに気付くと、無意識に身体を震わせていた。
隣で、アルスが生唾を飲み込むのが聞こえる。アルスにも解ったのだろう、少年は口を半ば開けたままの状態で青褪めた表情を浮かべ、肩を震わせていた。
「全員、石壁の上へー!」
騎士達に混じって、アスターが叫んでいる。
村人と騎士達は手に弓を持って石壁へ上ると、重々しい表情のまま位置についていく。
帝国兵の陣では、人が黒蟻の様に慌しく動いている様子が窺える。どうやら合流したようであった。
それからふたとき二刻程の後、帝国兵はゆっくりと矢の届くギリギリの距離まで進んできた。だが、今度は今までの牽制とは違い、そこへ大部隊を配置している。その後ろには、大きな功城用の投石機が不気味に姿を晒していた。
突撃の合図が下れば、例え堅牢であっても守る者の数の少ない石壁など、一瞬にして突破されてしまうだろう。村人も騎士達も、皆、黙ったままその光景を見つめていた。
まるで蛇に睨まれた蛙の様に、エイグも息を呑んで見守っている。村人達も逃げ出したい衝動すら忘れて、目の前の圧倒的な雰囲気に飲み込まれていた。
どれほどの時が経っただろうか。太陽が西の山々の陰に、その姿をほとんど隠して空を赤々と燃やしている。
もうすぐ夜の闇が訪れて、辺りはまた月明かりに照らされた世界へと変わっていくだろう。
緊張感の高まる中、異変は起こった。
村の門の外側、ちょうど門の高さの二倍程の空中に、人影が姿を現したのだ。
空中に現れたのは、一目で魔術師とわかる人物であった。
薄黄緑色の外套を肩から無造作に掛け、正面の隙間からは青一色のローブが覗いている。その隙間の左側から、杖の柄だろう物が見える。整った顔には薄笑いを浮かべ、どこか冷酷さを感じさせる茶色の眼が、こちらを見下ろしていた。
石壁の上は騒然となり、驚きや不安といった声があがる。
当然であった。魔術師は宮廷や、遥か東の魔法王国ザーナでしかほとんど見る事の無い者達であった。
稀に遺跡探索の旅をしている魔術師を、街中で見かけるくらいだ。村人達はおそらく、一度も見た事が無いのであろう。戦中だというのに呆然と口を開けて、その魔術師の浮かぶ姿に眼を奪われていた。
騎士達も畏怖と怖れの眼を向けている。通常の武器では戦うのさえ難しい事を知っていた。この人数では、近づく前に倒されてしまうだろう
だが、一人だけ違った表情をしてその魔術師を見上げる者がいる事に、誰もまだ気付いてはいなかった。
「ふふ・・」
ベイグナルは不適に笑うと、下から自分を見上げている村人達に視線を落としていた。
驚いている村人の姿に混じって、村の守備隊だろう王国の騎士が何人かいるのが見える。
「少々驚かせてしまいましたね」
無邪気な少年が悪戯をする時の様な表情をしながら、その魔術師は呟いた。
「こんにちは、みなさん」
魔術師は戦の最中とは思えない、ゆったりとした口調で、しかし村人達全員に届く声で話し始めた。
「つまらない抵抗をして、命を粗末にするのは愚か者のする事です、武器を捨てて投降すれば、命は助けてあげましょう」
ゆっくりと、理解できるように間を空けながら、ベイグナルは静かに言った。
石壁の上の村人達からは、明らかな動揺が伝わってくる。どうやら自分の言葉の意味が伝わったようだ。
村人達の中にいる騎士達のうち、肩に緑色の布をつけている男が「だまされてはならない」と、必死に村人を落ち着かせようとしている。その男の後ろの方では、「投降しても命の保障などあるものか」と若い兵士風の男が声をあげている。
ベイグナルは「さて、どうしたものでしょうね」と呟きつつ、村人達の様子を楽しみながら次の言葉を投げかけようとした。
と、その時であった。自分目掛けて一本の矢が飛んできたのだ。矢は魔術師の目前まで来ると、不意に勢いを失ってそのまま落下していった。
見ると、その兵士風の男の後ろに立っている騎士が矢を放ったらしく、弓を構えたままの状態で、憎々しい表情でこちらを睨みつけていた。
上空に現れた魔術師は、どうやら降伏を勧めに来たらしかった。
魔術師の言葉を聞いた村人達には動揺が走り、それをジュランが抑えようとしている。
「そうだっ! 帝国兵に投降しても、命の保障など無いっ!」エイグも槍を構えながらそう叫んだ。
その時だった。自分の頭の上を飛び越えるように、一本の矢が魔術師に向かって飛んでいった。だが、矢は魔術師の身体に触れる事の無いまま、地面に落ちていった。
矢除けの魔法が掛かっているのであろう。魔術師一人で来るのだ。そのくらいの用意は当然と思われた。
「騙されてはならないっ」弓を放った男はそう叫ぶと続けて言った。
「その魔術師は、十四年前にグレディスを襲った野党の一味の者だっ、投降したところで命の保障など無い、貴様がなぜ、帝国兵に加担するっ」最後の言葉は魔術師に向けられたものであった。
エイグは突然の成り行きと、その言葉の意味に驚きながら、後ろを振り返っていた。
憎々しげな言葉を発したのはカインであった。アルスも驚いた様子でカインを見ている。
カインはそう言い放つと、憎しみの燃える眼で魔術師を睨みつけていた。怒りで体が小刻みに震えているのがわかる。
―グレディスの野党襲撃事件。
それは王国の者なら誰でも知っている事件であった。
今から十数年前。王国の南西、王都から北西のシュプールへ向かう街道のはずれにある小さな街、グレディスで起こった野党の襲撃事件であった。
当時、王国の南西一帯の街や村を襲う大規模な盗賊団があった。それまでにも小規模な野党の出没はあったものの、限られた地域で起こっていた小規模なものであった。
しかし、その盗賊団は違った。噂では周辺の野党を従えて、数百人もの大きな集団で街や村を襲い、略奪の限りを尽くしていた。刃向かう者は、女子供であろうと一切容赦せずに虐殺していたという。
その事件とカインとの間に、一体どんな関係があるのかは解らなかったが、ただ、その野党の中に魔術師がいたという話は聞いた事が無かった。
村人達も事件の話を知っていたらしく、カインの言葉を聞いて、さらに動揺と怯えが広がっていった。
騎士達は呆気にとられていたが、徐々にカインの言葉を理解すると、次々と怒りの眼を魔術師に向けた。
それもそのはずだった。野党の襲撃で、街に詰めていた兵達も大勢が命を落としていた。その盗賊団討伐のために、命を落とした者もいたのだ。その中には友人もいただろう。肉親を失った者もいたはずである。
アルスも当然、その話は父や母に聞かされて知っていた。自分がまだ、生まれる前に起こった事件である、
当時、別の問題で王国は混乱していた。その時、まだ騎士団の一部隊長であった父、カルマは盗賊団討伐の任に抜擢され、派遣されたのだった。満足な兵力も無いままの出陣であった。しかし、カルマはグレディス近郊に赴いて見事、盗賊団を討伐したのだった。その時の功績が認められ、後にカルマは騎士団長となった。
アルスは自慢の父の活躍を思い出し、体が熱くなるのを感じた。
「騙されるものかっ」
村人達は口々に叫びだすと、弓を構えて矢を放った。次々と放たれる矢は当たるはずも無く、むなしく魔術師の前で進路を変えて地面へ落ちていった。
アルスも父の敵だった男だと知ると、敵意の眼を向けて剣を構えた。空中に浮かぶ魔術師に剣が届くはずも無かったが、今の少年にはそれが精一杯の態度だった。
「ん・・」
どこか見覚えのある様な顔であった。ベイグナルは、遠い昔の記憶にその男の顔を重ねていく。
「おやおや、あの時の・・」
ベイグナルはそう言いながら、十余年前を思い出して「確かにあの時の男だ」とクスクスと笑った。
見覚えのある茶色い眼は、あの時と同じ激しい感情を剥き出しにして自分を睨んでいる。
村人達は十余年前の盗賊団の事件を思い出して、険しい表情を浮かべ始めている。それは次第に広がって、罵倒し始める者があらわれた。中には弓を構え、矢を放ってくる者もでてきた。
「やれやれ・・どうにもなりませんね」魔術師はおどけた様に肩を竦めながら呟くと、次の瞬間、決して帝国兵の前では見せない、冷酷な表情を浮かべて言い放った。
「そんなに死にたいのなら、望みどおりにして差し上げますよ。愚かな愚民風情が、私に刃を向けた事をあの世で後悔するが言いっ」
そう言葉を発した魔術師を見て、城壁の上は凍りついていた。先ほどまでの、どこか楽しんでいる雰囲気は消え去っていた。そこには、空間を切り裂いて生まれた、異界に通じる穴のように不気味な恐ろしさを感じさせる二つの眼が、自分達を見下ろしていたからだ。
次の瞬間、ベイグナルは左手に持った杖を小さく振るうと、現れた時と同じように消えてしまった。
城壁の上では、青褪めた村人と騎士達が弓を構えて、目の前に広がる小さな平原を埋め尽くすほどの大群に、ただ畏怖していた。
魔術師が門の上から消えて、まだそれほどの時は経っていなかった。だが、すでに帝国兵が慌しく動いているのが見える。遠くから小さく掛け声が聞こえてくる。帝国兵の後ろにあった投石機が、少しずつこちらへ移動しているのがわかる。
―ごくっ
誰かが生唾を飲み込んだ。
城壁の上では、誰一人声を出す者のいないまま、帝国兵の動きに視線を向けていた。
いかに頑丈な城壁や門でも、投石機で攻撃されたらひとたまりも無いだろう。エイグはその事を一番良く解っていた。帝国兵がまず、投石機で城壁や門を壊し、次いで兵士を送り込むつもりである事は容易に想像できた。
他の騎士達もそれは解ったのだろう。すでに逃げ腰になっていた。
と、その時だった。突然、雷に似た音と共に、にびいろ鈍色の閃光が辺りを照らし出した。すでに、その赤みを薄れさせていた夕暮れの空に閃光が重なった。一瞬、神秘的な光景を映すと光は消えた。
それと同時に、西側の城壁に近い空間が割れた。そこには今まで誰も見た事のない、醜い姿をした奇怪な生き物がうごめ蠢いている。
一瞬の間を空けて、その割れ目から醜い生き物は溢れ出てきた。帝国兵も何度見ても見慣れないその光景に、思わずたじろいでいる。
「わぁー」
「ひぃー」
村人達は、投石機がだんだんとこちらに近づいてくるのを認めると、我先にと弓を放り出して、逃げ出し始めた。むしろ、ここまで恐怖に耐えてきたのが不思議なくらいだった。
「留まれっ! 留まるのだっ!」
ジュランが青褪めた顔をしながら、慌ててそう叫んでいる。
エイグやアルスには、見覚えのある姿だった。砦を襲った帝国兵に混じっていた妖魔の姿であった。
エイグもそれを見ると、戦うのはもう無理だと悟り、アルスを逃がす事を最優先にしようと考えた。
アルスはさすがに逃げ出す事はしなかったが、砦での投石の凄まじさを知っているからか、身体をガタガタと震わせて、泣き出しそうな表情で剣を握り締めていた。
カインは悔しそうな表情で帝国兵へ向けていた顔をエイグに向けると、意図が判ったのかコクッと頷いた。そして、恐怖で凍りついているアルスを肩に背負って、南西の森を目指して走り出した。
―バシュッ・・・ドドドーンッ
それは耳を劈く大きな音を立てて、村の東側にある民家を押しつぶした。ちょうどアルスが寝泊りしていた家だ。
投石された巨大な石は、そのまま勢いを緩めずに押し潰した民家から転げ出ると、その隣の民家を巻き込みながら数軒をまとめて押し潰してようやく止まった。石壁の外では帝国兵の喊声が挙がっている。
もはや、たった数十人でどうにかなる相手ではなかった。いや、初めからそうだったと言うべきか。頼みの騎士団も、いまだに到着する気配を見せず、村の石壁を乗り越えて帝国兵が雪崩れ込んで来るのは時間の問題だと思われた。
―ドドドーンッ・・ズンッ
今度は見張り台を掠めて、石壁に近い広場の中央に巨大な石が落ちた。破壊する物の無い広場の土はめくれ捲れ上がり、巨大な石が包み込まれるように地面にめり込む。
辺りには見張り台だった物が、その原形を留めずに散乱している。見張り台は衝撃で屋根が吹き飛び、半分から上が折れて後ろに落ちていた。
エイグ達三人は、他の村人や騎士達と一緒に南西側の森の中へ避難していた。
森の前に置かれていた、切り出した木材が、巨大な石が地面へ叩きつけられる度に飛び跳ねる。
次の投石で城壁や門が壊されれば、帝国兵や醜い妖魔は大挙して雪崩れ込んでくるだろう。
村人達は口々に悲鳴を上げながら、南西の森の奥へ逃げ込んでいった。ジュランや他の騎士達も「退けー」と声を掛けながら、森の中に逃げ込んでいくのが見える。
エイグ達は、森に入ったすぐのところで、しばらくその光景に眼を奪われていたが、すぐに村人達の後を追いかけ始めた。
だが、その切迫した空気の中、ある異変に気付く者は、まだいなかった。
ズゥーン・・ドドドドッ・・ガラガラ・・
三度目の投石が、門の脇に炸裂した。
投げ込まれた巨大な石は、門の左側の石壁を崩し、衝撃で門も粉々に吹き飛ばしながら、広場の北の外れまで来て止まった。
森の中にまで、石壁の崩れる音が聞こえてきた。
その音は、村人達の心を打ち砕くには十分な音だっただろう。何人もの村人達が後ろを振り返って、恐怖に引きつった顔を村へ向けると、また走り出した。中には、その場へ力無く座り込んでしまう者もいた。
「来るぞっ」
誰かがそう叫んだ。泣き声や悲鳴も聞こえる。
南西の森は、何百年も前から村人達の生活に密接に関わって来た。
今、その森の中を村人や騎士達は、西へ一斉に逃げていた。その向こうには、高くそびえる山々が木の陰から、やってきた月の光の中で黒く巨大な影となってチラチラと見える。
後ろから帝国兵達の声が、一つの大きな唸り声のように聞こえてくる。
だが、その唸り声に重なるように、突然それは聞こえてきたのだった。
帝国兵と魔物達は、崩れた石壁と門のところから一斉に村へ雪崩れ込んでいた。
近くにあった民家からは、次々と火の手が上がる。醜い妖魔どもは先陣を切って村の広場を横切ろうとした。後ろには、出遅れた妖魔と帝国兵が次々と石壁を乗り越えてくる。
だが、突如それは起こった。
広場の中央、投石の衝撃で土にめり込んでいた巨大な石が、地面に吸い込まれるように姿を消したのだった。それはまるで夢の中での出来事のように、ゆっくりとした速さであった。
続いて、巨大な石のあった場所を中心に、ガラガラと何かが崩れる音を響かせながら、脇にあった民家を数軒巻き込んで地面が崩れていった。
もうもうと立ち込める砂煙に視界を奪われ、帝国兵や妖魔達は何が起こったのかわからず、一瞬足を止めた後、広場から八方へ逃げ出していた。だが、人の足では敵わない速度で崩れていく地面に、吸い込まれるように落ちていく。
ほとんどの帝国兵と魔物達は、村へ侵入した事を後悔する事になった。悲鳴を上げることしかできずに、広がっていく穴に落ちていった。
帝国兵や妖魔の悲鳴は、森の中まで聞こえていた。
―??
その悲鳴が、先ほどまでの勝ち誇った帝国兵のそれではなく、悲痛に満ちている事にエイグは気がついた。
―騎士団が来てくれたのかっ
エイグはそう思って足を止めた。
隣には、何事かと足を止めて自分を見ているアルスと、同じく異変に気が付いたのだろう、足を止めて村の方に眼を向けるカインの姿もあった。
だが、騎士団が来たにしては、剣の打ち合わされる音などは聞こえてこない。
近くには、異変に気付いたのか、エイグ達の様子に気付いたのか、アスターやジェイズ、それにアルスを守るように命じられている二人の騎士が、不安そうな表情のまま近づいて来ていた。
「よしっ、様子を見に行こう」
エイグはそう言うと、ここに残るようにアルスに伝え、二人の騎士に護衛を任せてカインと共に村の方へ引き返していった。
アスターとジェイズも、どうしたものかと顔を見合わせていたが、意を決したようにエイグとカインの後を追った。
「こ、これは・・」
エイグ達四人は、息を飲んで目の前の光景を見守っていた。
誰の口からとも無く、驚愕の言葉が漏れる。
それは信じられない光景だった。
つい、先ほどまで村の中央にあった広場は跡形も無く、広場の近くにあった何軒かの家々も、その基礎を少し残して消えて無くなっていた。
二投目に飛んできた巨大な石も、消えて無くなっている。
それは穴だった。
淡い月の光に照らされて、穴と呼ぶにはとても大き過ぎるそれは、広場全体とその周辺部をすっぽりと覆う大きな口を開けていた。
その巨大な穴は、上にあった物を全て飲み込んでしまったのだ。
「なんてこったぁ・・」
ジェイズは薄茶色の眼を、その巨漢に似合わない、動揺した様子で丸くさせながら呟いた。
エイグも、騎士団の到着かと思った自分の予想が間違いだった事を知ると、突然に開いた穴を呆然と見ていた。
帝国兵と妖魔達は、石壁の上や壊れた門のところに集まって、突然起きた出来事に警戒しているようであった。
しばし呆然となって、四人はその光景を見ていたが、何やら城壁の上へ逃げていた帝国兵が穴の中を指差して、何か叫んでいるのが見える。
「なんだ・・あれは・・?」
カインが呟いた。
エイグも穴へ眼を向けた。アスターとジェイズも、まだ何かあるのかと言いた気にそちらを見る。
そこには淡い紫色をした光が、穴の中から徐々に湧き上がってくるのが見えた。
それは伝説や昔話の中の、鎌首を持ち上げて哀れな犠牲者を一飲みにしてしまう竜の頭のように、溢れ出てきていた。
エイグは奇妙な感覚にとらわれていた。夢の中でまどろむような、とても暖かい、まるで母の腕の中に抱かれているような、そんな感覚であった。
向こうから、幼い頃に遊んだ近所の子供達が、自分の名前を呼びながら走ってくる。
「遊ぼうよ」
その子供達は目の前まで来ると、エイグの腕を掴んで引っ張った。
「・・ああ、一緒に遊ぼう」エイグはそう言って、一緒に行こうとした。
―ん?
エイグは、自分の腕を掴んでいる子供の手に見覚えがあった。遠い昔に見た事のある懐かしい手だった。右手の親指の付け根にある、、、ほくろ、親の手伝いで赤切れた指。確か、十歳の夏に川遊びをしていておぼれた友達・・。
「あっ!」
エイグは声を挙げた。それは、もう二度と会う事のできない友達の手であった。
エイグの眼に焦点が戻ってくる。
「魔法っ!」
ハッとなって辺りを見渡そうとしたが、急に後ろに引っ張られてエイグは仰向けに転んでしまった。他の三人も自分の周りで転んでいる。何が起こったのか理解できずに、エイグは起き上がろうとして背筋に寒気が走るのを感じた。
淡い紫色の光が溢れ出る不気味な穴が、自分を飲み込もうと目の前で口を開けて待ち構えていたのだ。
後一歩、足を運んでいたら間違いなく穴の中へ落ちていただろう。
エイグは正気を取り戻した事を告げると、急いで仲間と共に森へ引き返した。
どうやらあの薄紫色の光には、見る者を誘惑して惹き付けようとする魔力があるようだった。しかし、エイグ以外の三人にはそんな症状は無く、なぜエイグだけが魔力に捉われたのかは解らずに四人は首をかしげた。
「おい、あれを見ろっ」
アスターが城壁の方を指差して言った
そこでは、エイグのそんな疑問を忘れさせてしまう出来事が起こっていた。
城壁の周りでは、先ほどまで味方だった者達に襲い掛かる妖魔達と、突然向けられた凶刃に慌てふためきながら応戦している帝国兵達の姿があった。戸惑いや断末魔の声、金属の打ち合わされるような鈍い音が聞こえてくる。
「どうなってるんだ?」
ジェイズがボサボサの赤い髪の毛を、さらにボサボサに掻き毟りながら、不思議そうに身を乗り出して見ていた。カインは「様子を見てくる」と言い残し、身を隠しながら巨大な穴を迂回して石壁へ近づいていった。
すでに帝国兵達は、村人達を追撃するどころではなくなっていた。突然襲い掛かってきた妖魔達と刃を交えながら、村の外へ後退させられていく。
三人はただ、その光景を不思議そうに眺めていた。
村の中央で大きな音がした。
二投目の投石が着弾したのだ。村から上がる砂埃が、先ほどより石壁に近い場所だと判り、ミーゼは邪魔になら無い様に後ろで束ねた髪を左手で弄りながら、いよいよだなと思って先頭の一団の中にいるコウパに眼をやった。
「突入よーういっ」
コウパは、馬に跨って声を張り上げると、スラリ、と剣を抜いて振り上げる。
石壁の前には、ベイグナルの召還した不気味な妖魔どもがうごめ蠢いている。砦を攻めた時より数は少ないようであった。
投石機の後ろでは、ベイグナルが何やら奇妙な言葉を唱えている。次の瞬間、巨大な石が突然現れて、投石機の、、さじの上へ重い音を立てながら乗った。普通なら、次の石を投げるのにしばらく時間がかかるものだが、この魔術師は巨大な石を何処かから召還して、時間を短縮させていた。
こんな事もできるのだな、と改めて魔法に畏怖を覚えながら、ミーゼは魅力的に括れた腰に手を当てて部下に辺りを警戒している様に伝えると、自分は魔術師の近くまで足を運んだ。
すでに結果は見えている。村の中には少数の守備隊と村人しかいない事は魔術師から聞いて知っていた。
ズゥーン・・ドドドドッ・・ガラガラ・・
三度目の投石。今度は村の門とその脇の石壁を破壊した事を、振り返ったミーゼは確認してから魔術師の方を向き直り、歩いていった。
「突撃―!」
後ろから、コウパの張り上げる声が聞こえる。次いで、帝国兵の駆る馬の足音と喊声が聞こえてきた。
「終わったな」
ミーゼはそう呟いていた。
ミーゼの眼には、杖を振り上げて何やらブツブツと言っている魔術師の姿が映っていた。
と、その時、突然村から何か大きな物が崩れるような音がして、帝国兵の喊声が悲鳴に変わるのが聞こえる。
何事かとミーゼは振り返った。束ねた赤髪がミーゼの動作にあわせて宙を舞う。
だが、ここからでは良く判らない。ただ、村の中から必死に逃げ出てくる兵士や妖魔達が見えるだけだった。
―伏兵か?
石壁の手前では、突入しようとしていたコウパらしき人影が驚いた馬から落ちるのが見えた。
後ろに待機していた兵達も、何事かと、一様に当惑の表情を浮かべて見守っている。
しかし、どうやら伏兵ではなかったらしい。
金属の打ち合わされる音や断末魔の悲鳴などは聞こえて来なかった。村へ侵入した帝国兵は、落ち着きを取り戻すと崩れた石壁の周りに固まって、村の方を見ているようであった。
「あわわわわっ」
そこへ、戸惑った魔術師の声が聞こえて来た。慌てた様子で、左手に持った杖を見ている魔術師がいた。ミーゼはベイグナルの声に振り返ると、違和感を覚えて魔術師の元へ走り出した。
ミーゼが近くによると、どうして良いのか判らずに呆然と魔術師の慌てる姿を見ていた部下達が、困惑した表情を向けてきた。
魔術師は、なおも慌てた様子で杖に描かれている奇妙な文字を見ていた。
「ミーゼ、まずい・・」
ミーゼが近寄ってくるのを知ると、魔術師は少し苦しそうにそう言った。
「こ、このままでは・・妖魔達が・・」
だが、ベイグナルの言葉が終わる前に、魔術師の手にしていた杖が砕け散った。
破片が力無く、地面に落ちていく。
「ミーゼ、兵士達を下がらせろっ、妖魔達が襲ってくるぞっ」
魔術師は、しばし呆けた様に自分の手の中にあった物を見ていたが、我に返るとミーゼにそう叫んだ。
「えっ?」
ミーゼは、何が起こったのかわからずにそう聞き返した。
「妖魔を支配していた魔力が消えたんだっ、もう敵も見方も無い、こちらも襲われる・・」
言い終わるか終わらないか、村の方から驚きと畏怖の入り混じった声が聞こえてきた。
ミーゼは振り返ると、そこに繰り広げられる凄惨な光景を目の当たりにして言葉を失った。
いつの間にか、石壁より少し高いくらいまでの所に、村の中から薄紫色の光が溢れ出てきていた。
その幻想的な光に照らされて、つい先ほどまで自分達と共に戦っていた妖魔達が、帝国兵を襲っていたのだ。
突然の事に驚いた帝国兵は、驚き、混乱していた。満足に戦うこともできないまま、陣形は崩れていった。
「投石機を中心に陣を敷け!妖魔の数は少ない。一気に殲滅するのだっ!」
ミーゼは事態を悟り、そう叫ぶと静かに腰に吊るしていた二本のロング・ソードを引き抜いた。
逃げ腰だった帝国兵はミーゼの言葉に気付くと、訓練された兵の習慣とでも言おうか、次々と陣形を整えて武器を構えた。
「コウパ様、討死」
その騎士はコウパの側近の男だった。妖魔にやられたのか、左腕にひどい怪我を負っていた。涙目になりながらミーゼにそう伝えると、剣を構えて後ろを振り返った。
コウパは落馬して、しばらく意識を失っていた。気付いた時にはすでに妖魔に囲まれていたという。周りにいた兵達はなんとか助けようとしたのだが、妖魔の鋭い鉤爪を受けて倒れたのが見えたとの事であった。
前の方ではまだ、妖魔が奇怪な声を挙げて飛び跳ねているのが見える。味方なら良いが、敵に回すと厄介だなと思いながらミーゼは戦況を確認する。
村を簡単に陥とせると思っていた魔術師が妖魔達の数を少なめに召還していた為、すぐに鎮圧できそうであった。
ドドドッ
その時であった。
月の光の下、西の方から黒い塊のように見える物が姿を現した。
「あれは・・」
ミーゼは、馬に跨って平原をこちらに向けて駆け寄せてくる、その甲冑に見覚えがあった。
「シェルバ王国リエの騎士団!」
もうここまで来たのか、と思いながらミーゼは愕然としてそう叫ぶと、急いで砦まで退却するように指示を出した。
決して戦えない訳ではなかったが、突然の妖魔の反抗で混乱しているのだ。しかも、砦を攻めた時の半分の兵しか連れて来ていなかった為、王国の軍勢を相手に戦うのは分が悪いと思われた。
さらにコウパが討死している。指揮官のいなくなった兵ほど脆いものは無かった。ここは一度引き返し、態勢を立て直してから迎え撃った方が得策だと判断した。
すでにシェルバ王国リエの騎士団の姿を見つけていたのだろう、帝国兵達は浮き足立っていた。
「ベイグナルっ」
ミーゼは馬の頭を砦に向けるとそう叫び、後ろで呆然としていた魔術師に手を差し出して後ろに乗せると、退却を叫びながら一気に駆け出した。後ろにはミーゼ配下の者達が馬にムチを入れながらついてくる。
すでに帝国兵達は総崩れとなり、我先にと逃げ出していた。
シェルバ王国リエの騎士団は目前にまで迫っていた。月の光の中、帝国兵を追い払う姿は伝説の中で語られる英雄達のようだ。
帝国軍は惨敗だった。