四、青いローブの魔術師
四、青いローブの魔術師
砦に火の手が上がって三日目。ちょうどガルバスの偵察隊が、盗賊達を皆殺しにした次の日。
ティルトの村では、ようやく完成した門を村の入り口に取り付ける作業が終わったところであった。出来上がった門は、敵の侵攻を食い止めるには、あまりに粗末な造りであった。人の二の腕ほどの厚さの木を並べて、枠をところどころ金属で補強しただけの物であった。
それもそのはずである。とりあえず門として取り付けられるようにして、その後から厚みを付け加えるように、作業工程を変えたのだった。
急いで作ったために寸法がおかしく、手直しをしなければならない部分もあったのだが。
朝の冷たい空気の中、村人は広場に集まって一息ついていた。睡眠不足を理由に、しばしの睡眠をとる者や食事を口にする者、世間話をしている者もいる。
だが、誰も砦や帝国の事を口にする者はいなかった。不安は誰もが持っていた。あえて口にしない事で、平穏を保っている様にも見えた。広場の脇につないである馬たちも、静かに飼葉をついばんでいる。
村の南西にある小さな作業場では、この村唯一の鍛冶屋のトムとせがれ倅のミガンが、休む間も無く働いていた。窯に空気を送り込むふいごの音や、鉄鎚を振るう音が聞こえてくる。
門に取り付ける補強材や金具を作っていたのだ。それだけではない。矢尻や、木で作った楯の表面に付ける金属の板なども加工していた。
トムのもとにはミガンだけでなく、他にも数名の村人が手伝いに行っていたが、今は作業小屋の影に座ってわずかな休憩をとっていた。
騎士達は、相変わらず作業は村人に任せていた。見張りとして一人を天幕の外に立たせ、二人を門の左右の石壁に立たせて村の周囲を警戒している。残りの騎士達は皆、天幕の中でなにやら話しているようであった。
時折、馬の世話をしに出てくるが、それ以外はほとんど天幕の中にいる。村人の中にはそんな騎士達に不満を持つ者もいたが、あえて声を挙げる者はいなかった。
砦から火の手が上がった日の夜遅く、砦から逃げてきた学院の生徒二十名ほどと、それを引率していた二人の講師、それに何人かの負傷した兵士達が村に辿り着いた。
研修生達の中にはケガをしている者も少なくなかった。中には骨が折れているのであろうか、添木を当てて包帯を巻いた腕を、首に下げた三角巾に通している者もいた。疲労の滲み出た顔ばかりであった。
無理もなかった。王国には、ここ何十年も戦禍などなかった。一度だけ、大規模な盗賊狩りが十数年ほど前にあっただけだ。それさえも、研修生にとっては自分達の生まれる前の話であった。平和の中で育った者ばかりなのだ。
それが突如として襲ってきたのだ。しかも、自分達のいる目の前で。
まだ経験した事の無かった悲惨な光景を目の当たりにして、皆、一様に言葉は無く、まるで死人の集団のような雰囲気を漂わせて村に辿り着いた。
最初、それに気付いたのは城壁の上で周囲を警戒していた騎士の一人であった。
「何か来るぞー」
そう怒鳴り、城壁の周りで作業していた村人に知らせた。
門の外で作業をしていた者は、慌てて門の中に身を隠した。帝国の兵だと思ったのだろう。だが、騎士の目にはどうやらそうではないらしく見えていた。昨晩に砦から火の手が上がったばかりである。
砦から村までは、徒歩で四日ほどの距離である。馬を全力で走らせても丸一日はかかるだろう。もし、敵の部隊であれば、それなりの規模のはずだ。だが、見えてくる影はそんなに大きくはなかったのだ。それに馬の上げる砂埃も見えなかった。
その後、村に到着した研修生達は、村人から食事と寝所を与えられ、束の間の休息をした。その後、西のシュプールを目指してまた旅立って行った。
一緒に逃げて来た負傷した兵士達は、砦の兵士であった。襲撃を受けた時に、崩れた塔の瓦礫で怪我をしたらしい。腕が千切れて無くなった者や、足の骨を折って動けない者もいた。
その中に一人の騎士がいた。その騎士は頭に血の滲んだ包帯を巻き、左腕の肘から先が無くなっていた。
その騎士は、村にタンカスの守備隊が来ている事を知ると、慌てた様子でジュランの所まで行き、北の砦の惨状を語った。そして、ガイスからタンカス守備隊宛に預かった書簡を渡すと、己の無力を嘆いて崩れ落ちたのだった。
書簡には、ガルバスが侵攻して来ている事や、敵の中に得体の知れない妖魔の姿を認めた事など、王都からすでに連絡のあった知らせの他に、確認できた敵のおおよその数なども書いてあった。そして砦がそう長く持ちそうにない事も書かれていた。
ジュランは新たな情報を、タンカスから連れてきていた伝書鳩を使って王都へ知らせると、作業の進み具合を確認してまた天幕の中に引き篭もった。
研修生達を西へ送り出した日の二日後。ティルト村の入り口に新しい門が築かれた日のお昼前の事である。
門の内側の少し左に、どうにか歩哨が乗れる様に、形だけは完成していた見張り台にいた騎士が叫んだ。
「人影が見えるぞー」
まだ、敵襲を知らせる銅鑼も付けられていない見張り台の上から、騎士は怒鳴った。
村人は、今度こそ帝国の兵達が攻めて来たのかと、補強が進んで頑丈になった門を閉めると村の中に立てこもった。
中には「もう終わりだ」と、泣き出す者まで出始めた。
一様に不安を表情に表しながら、狩用の弓と小さな楯を持って、石壁の上に斜めに置かれた矢避けの為の、人より大きな板楯の後ろからその影を探した。
だが、その人影が一人の少年だと解ると、村人は皆、驚きと安堵を浮かべ、その少年を村へ迎え入れた。
ひどく憔悴しきった様子の少年は、おぼつかない足取りで村に辿り着いた。
少年は、少し上等な麻布でできた旅用の服を着ていた。一目で貴族の旅用のものだとわかるその服は、少年の身を道中で守り、足や袖が破けていた。そこから覗く肌には赤いものも滲んでいる。
どうやら研修生の一人だと思われた。首には学院の生徒に渡される首飾りがかけてあった。少年は村へ入るとその場で倒れこんでしまった。
村人達は、すぐさま少年を近くの家まで運ぶと、手当てをしてベッドに寝かせた。幸いにも、腕や足に擦り傷があるだけで、他にはこれといった外傷も無かった。
少年は時折、寝顔に悔しそうな悲しそうな表情を覗かせながら眠っていた。
「では、ガイス殿から、あの少年を護衛するように命ぜられて、ここまで来たという事だな?」
ジュランは正面に立つ一人の兵士にそう聞き直した。
「はい。無事にカルマ様の下まで、送り届ける様に言われております」
聞かれた兵士は、従者の着る金属で補強された皮の鎧を着ていた。
そう答えたのはエイグであった。
傍らには、事の成り行きを見守っているカインの姿もあった。他に騎士が四人、話の邪魔になら無い様に、隅によって話を聞いていた。
エイグとカインは、アルスが村に着いた日の午後に村に到着したのだった。
帝国を警戒していた村人と騎士達は、三度目の来訪者にまた安堵しつつ、エイグ達を快く迎え入れてくれた。
ジュランは一通りエイグの説明を聞き、一言「そうか」とだけ言うと、カインに向き直って不審そうな目を向けて声をかけた。
「それで、その盗賊の洞窟から逃げるのに、お前が力を貸したというのだな」
お前と言われて、少しムッとしつつもカインは頷くと黙ったままジュランを見つめた。
「なぜ、騎士の鎧を着ているのだ?それに胸の紋章が削ってある・・」
エイグはカインの事にはあまり触れなかった。ただ、自分を助けてくれた事を伝えて、鎧と剣は拾い物と聞いたとだけ伝えた。
盗賊などの類は、重い金属で出来た鎧を身に付けるのを嫌がるものだ。忍び込むのに邪魔だからだ。しかも騎士の鎧だと知っていて、あえて着ける者などいないだろう。
ジュランの質問は当然だろうと思い、エイグもカインの言葉を待った。
「答えなければならないか?」
反対に、カインはジュランにそう言うと、ジュランの言葉も待たずに続けた。
「これは友からもらった物だ、私は友にある誓いを立てた、紋章を削ったのは騎士ではないという事だ」
静かな、しかし力強い口調でそう言うと、カインはこれ以上話したくないといった態度で、天幕を出て行ってしまった。「復讐と言う名のな・・」カインが小さく呟いた言葉は誰の耳にも入っていなかった。
カインの態度に、傍らにいた騎士達は声を立てて抗議したが、カインを引き止めるだけの力は無かった様だ。
「まあ、よい」
ジュランは騎士達を、手を上げて制しながら言うと、一人ばつの悪そうなエイグに眼をやり「あの者の事はお前に任せる」と続けた。
「今は一人でも多く、戦える者が必要だ。何が目的かは解らぬが、少なくとも敵では無さそうだ・・」
友が騎士であったと言う事と、エイグを助けた事が理由であった。
「盗賊達の焚き火の明かりが、砦から見えなかったはずは無いだろうな・・」
ジュランは独り言のように呟くと、エイグの話を思い出してそう言った。
「早ければ、今夜にでも帝国の襲撃があるだろう、十分に警戒してくれ。今は、それしかできない・・」
最後の言葉は小さく、自分に言い聞かせるようにそう言うと、周りの騎士を見た。ジュランは解散を告げると、眼を閉じて考えを巡らせている様であった。
エイグは恭しく一礼すると、他の騎士達にも頭を下げて天幕を後にした。
洞窟で、盗賊たちが祝宴を挙げていた日の真夜中に、エイグは起こされた。
ついに帝国兵に引き渡されるのかと思ったが、どうやら違ったようであった。そこに帝国兵の姿はなく、盗賊達の下品な寝息が聞こえているだけであった。
カインはエイグの上体を起こすと、声を出すなと伝え、逃がす代わりに自分も連れて行けと交換条件を出してきた。
この男が一体どんな考えから、その条件を出してきたのかはエイグには解らなかった
だが、願ってもいない機会が訪れた事にエイグは思わず、天上の神々に感謝の祈りを捧げると、黙って頷いたのだった。
それを確認したカインは、エイグの縄を解くと、二人はすぐに洞窟を出た。
まだ明け切っていない夜の闇は、それでも東の空が少し白み始めていた。
洞窟の前に広がる森の中に姿を消して、二人は急いでアルスの後を追いかけたのだ。
ティルトへの道中で、エイグはカインに砦での事やアルスの事を聞かれた。どうしたものかと迷ったが、助けてもらって何も話さないのも変だと考えて、重要な事を除いて話したのである。
自分が話せば、カインも騎士の武具を身に付けている理由を話してくれると思ったが、「そうか」と言っただけで終わってしまった。
ただ一つ解った事は、アルスと二人で双子杉の陰で寝ている時に、石を投げて盗賊達の襲撃を知らせてくれたのはカインだったという事だった。
それから二人は、ほとんど話をする事も無くティルトまで来たのだった。
天幕を出ると、カインは南の森の側で切り株に背中を預けて休んでいる様であった。村人はカインの事を砦からきた騎士だと思っていた。
胸の紋章が無い事を、誰も気にも留めていない様子で、カインに食料と寝所を用意してくれていた。
エイグはカインの様子を確認すると、アルスの元へ足を運んでいた。
アルスは村の東側にある民家の一室で眠っていた。粗末ではあるが、十分に掃除の行き届いている部屋だ。エイグは近くにあった椅子を、そっとベッドに近づけると腰を下ろしてアルスの顔を覗き込んだ。
アルスは時折、苦しそうな表情で寝返りをうっている。頬には涙の後がうっすらと残っていた。ベッドの脇の窓からは、初秋のまだ暖かい風が入り、アルスの髪の毛と戯れている。
エイグはアルスの顔を見つめながら、もう一度考えていた。少年の見た悲惨な光景や、自分がするべき事を。
そして、しばらくの後、そっと部屋の外へ出た。入り口に腰を下ろして空を見上げたエイグの枯葉色の眼には、強い決意が光っていた。
四日後の朝。
エイグはアルスの休んでいる民家の入り口に腰を下ろし、槍を地面に置いて外を見張っていた。あれからずっと、エイグはアルスの傍で過ごしていた。
アルスはというと、丸二日間眠り続けていた。その後起きたのだが、どうやら無理な行程で足を痛めたらしく、左足首が少し腫れていた。体重がかかると激しく痛む。
アルスはそれでも、無理やり王都への道を急ぐ事を主張したのだが、エイグやジュランがそれを許さなかった。
ジュランがそれを許さなかったのは、アルスの父、カルマが騎士団の団長であったからに他ならなかった。
足を痛めているのに無理やり出発させた、などと言われたくは無かったのだろう。だが、エイグは違った、純粋にアルスを心配していたからであった。途中で進めなくなって敵に見付かるよりは、ここでしっかり休んでからの方が良いと思えたからだ。
日数を考えると、すでにこの村の近くまで帝国兵達が来ていてもおかしくはなかったからである。
アルスは説得に折れ、痛めた足首を村で治してから出発する事を、しぶしぶ受け入れた。
それから二日。アルスの足は大分良くなっていた。腫れも引いて、体重を乗せてもそれほど痛くはならなかった。村人からもらった湿布が良かったらしい。
狩りや農作業で身体を痛めた時に良く使うらしいその湿布は、この辺りで採れる紫色の、独特の匂いのする野草をすり潰して作った物だった。湿布をくれた村人の話では、この辺りでもこの村だけの物らしい。
いまだに村の中ではせわしなく動く村人の姿が目立っていた。
門はすでに補強も終わり、見張り台にはトムの作った銅鑼と、飛んでくる矢から身を隠せる板楯が取り付けられていた。
村人達は二手に分かれ、自分達が使う事になるであろう小さな木でできた楯を、これもまたトムの作った金具で補強している者と、矢尻と木の棒とを固定し、鳥の羽を付けて矢を作る者に分かれて作業しているところであった。
城壁と門の外にはすでに、出来上がった馬除けの柵が隙間無く並べられている。丸太の先を尖らせて斜めにした物だ。
わずかな日数で、ここまで作るのが精一杯であった。むしろ、たった十日で良くここまで出来たと言うべきか。そのため、村人はほとんど休むまもなく働き詰めであった。
皆、顔色も悪く、中には睡眠不足で倒れてしまったものもいた。不満を言う者がいなかったのは、口にすると不安さに呑み込まれてしまいそうだからだろう。その為、身体を動かして迫っている危機を忘れようとしているふうにも見えた
「ふぅ・・」
一通りの作業が終わると、ジェイズは深く息を吐いてから、赤い髪の毛をガリガリと掻き毟りながら続けた。
「アスター、こっちは終わったぞ」言いながら出来上がったばかりの楯を掲げて振って見せた。
「ああ、お疲れ、こっちももう少しで終わりそうだ」
ジェイズに顔だけ向けてそう答えると、アスターは「そっちは休んでいてくれ」と付け加えると視線を手元に戻して、矢尻の付け終わった矢に風羽を付けようと指を動かしていた。
ジェイズは伸びをしながら、一緒に作業をしていた者達と周りを片付けてから「一休みするぞ」と言って木陰へ腰を下ろした。
広場には、村中の家から持ち出された机と椅子が並べられ、広場自体が作業場の様になっていた。地面には木屑や木片が散乱して、足の踏み場も無いほどだ。
片隅には、まだ加工途中の木が三角形に組まれ置かれている。
楯を補強していた者達は、バラバラになって休んでいた。
ジェイズはアスターが作業を終わるのを待つ間、秋の空を見上げながら無意識に頭を掻いていた。どうやら頭を掻くのが癖らしい。
人より少し大きな身体を木に預けて横になっていると、そのまま寝てしまった。
「おい、起きろ」
アスターの声が聞こえる。ジェイズはまだ寝足り無そうな眼を薄く開けて、目の前の顔を見上げた。
「食べろ」
アスターはそう言って、ジェイズの胸の上にパンと少し大きめの干し肉を放ると、自分も隣に腰を下ろして干し肉にかじりついた。
「ん・・ああ、すまん」
言いながら、ジェイズは身体を起こしてパンと干し肉を掴むと、無造作に口に運んだ。
「んー・・、どうやら大分寝てしまった様だな・・」
ジェイズは少し食べると口を開いて、ばつが悪そうに左手で頭を掻いた。
「気にするな、あの後すぐにこっちも終わって、それからずっと休憩だ」
すでに日は傾き始めていた。太陽が村の南西にある山々の陰に隠れるまでに一刻ほどしかないだろう。
アスターの言葉に「そうか」と小さく呟くと、少し肌寒くなりつつある空気がやけに心地良いな、などと思いつつも、このまま寝ていたら風邪を引くところだったと反省した。
しばらく無言で食事をすませると、アスターは水筒を取り出してのどを潤し、それをジェイズに放ってよこした。
ジェイズは無言でそれをのどに流し込むと、大きな息をついてから水筒を地面に置いた。
「・・・なぁ、どう思う?」
不意にアスターは小声で話しかけた。
「いくさ戦か?」そう返すとジェイズはアスターの言葉も待たずに「さあな」と続けた。
「戦の事は、良くわからん」
ジェイズの言うとおりだった。アスターも戦の仕方など教えてもらった事など無い。知っている事は、狩りの仕方と弓矢の使い方、それに身を守るための短剣の使い方くらいなものだ。
他の村人も大差ないだろう。戦とは無縁の生活を送ってきたのだから、当たり前であった。
「ただ、この人数で正規軍相手には戦えないな・・」
しばらくして、ジェイズはすまなそうにそう続けた。どうやらアスターが黙ってしまったのを、自分が素っ気無く答えたからだと勘違いしたらしかった。
アスターは深くため息をつくと「うん」と答えて、不安そうな灰色の眼を広場の脇につないである馬にやった。
「みんな、不安にしている・・」アスターはそう続けると、何も知らずに地面に横になっている馬は良いな、と思いながら眼を閉じた。
二人とも、自分達が助かる望みは騎士団の到着以外には無い事を知っていた。もし、帝国兵が北の砦までで侵攻を止めるなら助かるだろうと思ったが、そこで止まるとは思えなかった。砦だけ手に入れても、国境が守り易くなるだけで他には何の利益も無いからである。
たったそれだけのために戦争を始めるとは思えなかったのだ。
「きっと大丈夫さ、攻めて来る前に騎士団が来てくれるよ」
何の根拠も無い楽観的な意見を述べてから、ジェイズは「休めるなら家で寝るよ」と付け加えると、その場を立ち上がって広場の向こうにある、自分の家に歩いていった。
「おやすみ」アスターは渋い笑いを浮かべたままそう返すと、何日か帰っていない自分の家に向かって歩き始めた。
「ふん・・」
広間の前にある、壁の崩れた通路から下を見下ろしてベイグナルは鼻を鳴らした。
「ずいぶんと、容易く陥ちるものね」
後ろから女の声がした。
ベイグナルは茶色の眼を、眼下の中庭で飛び跳ねている妖魔に向けながら「こんなものだろう」と小さく答えた。
そこは、ガイス達が最後に抵抗していた場所であった。
通路にあった壁は大きく崩れ、ぽっかりと穴が空いていた。石畳の床には崩れた瓦礫が散乱し、広間と通路を仕切っていた石壁の表面は、何か高温で舐められたように溶けていた。床に飛び散った血飛沫が、そこで行われた凄惨な惨状を物語っている。
二人の男女がそこに立って、砦の中庭を見下ろしていた。男の名前はベイグナル。今は帝国軍の軍師という肩書きだ。
薄黄緑色の外套を羽織り、下には飾り気の無い青いローブを着ている。フードは被らずに背中に放っていた。整った顔には、見下ろす先に向けられた侮蔑が浮かんでいる。
左手には、見慣れない文字の彫ってある奇妙にうねった杖を持っていた。魔術師であった。
魔術師の存在は珍しかった。《封印戦争》で魔物達が姿を消し、今ではそれぞれの国の宮廷や、遥か東方にあるザーナ魔法王国にしかほとんどいないのである。時折、探索の度に出る魔術師を街中で見かけるくらいだろうか。
「ミーゼ、君はもっとかかると思っていたのかい?」そんなはずは無いだろうと言いた気に、魔術師はそっと続けた。
いつの間にか、魔術師の隣にミーゼと呼ばれた女は立っていた。綺麗な女性だった。
身に付けている真っ赤な鎧は、胸の谷間と膨らみを強調するように曲線を描いている。細く括れた腰と豊満な胸は男の目を奪うのには十分なものだろう。腰には二本の細身のロング・ソードを吊るしていた。背中まである赤い髪が、風で顔にかかると邪魔そうに手で払った。その無造作な仕草が一層、魅力的に映る。
だが、ミーゼの魅力はこの男にはどうとも映っていない様であった。魔術師にありがちな、純粋に知識にしか興味の無い男なのである。
ミーゼは少し不満そうな視線を向けながら「もう少しかかると思っていたわ」と答えた。
普通に戦っていたらもっと日数のかかったであろう戦いも、たった三日で砦を陥落させてしまったのだ。しかも、堅固な砦とそれを守る数百人の敵を相手にして被害はさほど然程ではなかった。それもこれも、魔術師の魔法と妖魔を操る力の為であった。
魔術師の魔法で姿を消す魔法がある。どうやらそれと同系列の魔法の様であったが、ミーゼには魔法の事は良く解らなかった。何か不自然な空気に触れた気がしただけで、特に変わった様子はなかったのだが、ベイグナルの説明では遠くからは透けて見えるとの事だった。だから砦の近く、投石の届くところまで見つからずに進軍できたのだった。
ただ、この魔法は意識の集中を続けなければならなかった。そのため、ベイグナルは小さな輿の上に乗り、移動をしながら魔法を続けたのだ。功城が始まった時、元々体力の無い魔術師は気絶して倒れてしまった。ミーゼ達は大丈夫かと慌てたものだ。
それだけではなかった。しばらくして意識を取り戻したベイグナルは、杖を振り回しながら呪文の詠唱を始めた。次の瞬間、砦の前の空間が割れて、醜い妖魔が何十匹も姿を現したのだった。砦の兵はもちろん、これには説明を聞いていた帝国兵も驚いて兵を退いてしまった、そのため、緒戦はすぐ終わってしまったのだが。
だからミーゼの言葉に嘘はなかった。
ベイグナルはクスクスと言葉の代わりに笑って答えた。
しばらく二人が話していると、通路の奥にある階段から複数の足音が聞こえてきた。
「おー、こんなところにいたのか」
階段を上がったところにある、壊れた両開きの扉の残骸から、上半身を覗かせる様に、声をかけてきた者がいた。
黒い甲冑に身を包み、赤い外套を風になびかせながら近づいてくる。外套の中から、柄に白い石をはめ込んである剣が見える。兜を左手に抱えていた。後ろには何人かの護衛兵を連れている。
「軍師殿、この後はどうしたものかな?」
その男は、今回の王国侵攻の総大将だった。普通なら使いを寄越して自分の元に呼び寄せるのだが、この男は生来の気さくさからあまり形にこだわる事は無かった。
「これはこれは、コウパ殿・・」
さも驚いた風に頭を下げながら、魔術師は答えた。ミーゼもわざとらしい魔術師の態度に、見えない様に苦笑しながら方膝をついて頭を下げる。それを見たコウパは「ここは堅苦しい宮廷ではないのだ、気にするな」と声をかけた。
気さくで人柄も良く、部下からは慕われていたが、あまり有能とはいえなかった。
「そうですねぇ・・」魔術師はしばらく考えてから「偵察を出しましょう」と言って、他にも幾つか話すと理由を付け加えてから「では、よろしく」と言い残すとその場を後にした。
後には意外そうな顔をしたコウパとミーゼが残された。
魔術師の意見はこうだった。まず、偵察を出して南の麓を偵察する。その間に砦の南側を改修するというものだった。
普通なら、このまま一気に侵攻して、体勢を整えていない間に港町を攻めてしまうのが上策と思っていた二人には意外な提案であった。
「街などいつでも陥とせます」魔術師はそう言って、何を考えているかわからない眼を、驚くコウパに向けるとニッと笑って「私の魔法でね」と言いた気に杖を掲げて見せたのだった。
ミーゼもコウパと幾つか言葉を交わすと「では、任務がありますので」と言って魔術師の後を追いかけて行った。
ミーゼは元々、皇帝の近衛兵だった。
それが宰相アモイの命により、軍の中にあってベイグナル護衛という独立した任務が与えられていたのだ。その為の兵も預かっている。
アモイは、十年程前に帝国に現れて前皇帝に取り入った男だ。前皇帝亡き後は、幼い皇帝に代わって帝国の宰相となり、実権を握っている。ベイグナルはアモイの連れて来た魔術師であった。
新参者のアモイが宰相に就くのは極めて異例な出来事であった為、異を唱える者も多く、裏では大きな政治闘争があったらしかった。その為、前皇帝の崩御にはアモイの黒い噂も流れていた。だが、今はそれを表立って騒ぐ者はいなかった。
コウパは後ろに控えていた部下に、偵察部隊の編成と砦の南側の改修を命じると、一人残された通路で腕組みをしながら、遥か前方に見える帝国の領土を憮然とした表情で見下ろしていた。
表に出しはしなかったが、貴族でもない宰相や魔術師を嫌っていた。
今回の王国遠征も、元々は反対の立場であった。王国遠征だけではない。宰相は騎士団を二手に分け、そのもう一方を東の隣国へ向けていた。
「どこの馬の骨とも知らない分際で・・」
そう吐き捨てるように、コウパは呟いていた。まだ暖かい秋の午後の陽射しを身体に受けて、帝都のある方角を憎々しげに睨みつけていた。