一、平穏に訪れた哀しみ
一、平穏に訪れた哀しみ
荒い息遣いが聞こえる。
少年は半ば、倒れるように木にもたれかかって辺りを警戒し、その呼吸を整えようと必死になっていた。
森の中であった。
木の枝や葉が夕暮れ時の薄赤い陽の光を遮り、辺りを余計に薄暗くさせていた。どこかで囀っていた小鳥の鳴き声がやんでいる。
ーザッザッ
人の足音が聞こえてくる。少年は息を潜め、近くの茂みに身を隠した。足音だけでは、追っ手が何人いるのかさえわからない。少年はまだ、足音から人数を数えられるほどのすべ術は持ち合わせていなかった。
まだ整えられていない呼吸を無理やり喉の奥に押し込めて、少年は少し身体を起こした。
「おいっ、どこにもいないぞっ!」
男の声だ。
その汚い声には怒りがこもっているのが感じられた。
「あんなガキ、一人逃げたくらいでどうこうなるもんじゃないだろがっ」
中肉中背の、禿げ頭の男だった。身に着けた粗末な鎧の隙間から覗いている筋肉は、成人した男の物だと一目でわかる。腰に吊るした少し大きめのシミターも、粗末な鞘に入っていた。柄にぼろ布が巻いてある。
たいして乱れてもいない呼吸を整えるように、肩を大きく開き胸を張った。
男は誰に言うともなくぶつぶつと悪態をつくと、近くにあった木の枝を蹴った。
ードサッ
少年の足元に木が落ちてきた。
一瞬、驚いて声を上げそうになったが、慌てて口を塞いでなんとかやり過ごすと、少年は自分を探しているその男たちに再び注意を向けた。学院で学んだ森の中での、獲物から身を守る時のための講義をきちんと聞いておいて良かったと思った。
「いいか。相手が辺りに目を向けている時は、こちらから動いてはいけない」
講師のガーミックの言葉が思い出される。だが、少年が教えてもらったのはそこまでであった。獲物を狩るための方法も獲物がいるその場から逃げる方法も、彼ははまだ教えてもらってはいない。それでも今の少年には十分と思えた。
―目の前の獲物から身を隠していられればいい・・。
少年はそう思うと、音を立てないように気を遣いながら、男たちの方へ警戒した意識を向けていた。
禿げ頭の男がぶつぶつ言いながら、自分が蹴った木の枝を捜しにこちらへ近づいてくる。
「いねぇな・・」
しゃがれた別の男の声がした。こちらは粗末な鎧とロング・ソードを腰にぶら下げていた。
「向こうを探すぞ」
禿げ頭の男をはさんで、ちょうど少年の反対側を捜していたらしいそのしゃがれた声の男は、そう促すとさっさと向こうへ歩いて行ってしまった。追っ手はどうやら二人だけのようだ。近くにはまだ、他にもいるかもしれない。
しゃがれた声は、それでも、禿げ頭の男の注意をそらすには十分だった。
「ちっ」
そう男は吐き捨てると、踵を返してしゃがれた声の男の後に続いた。
「ふぅ・・」
しばらく経つと少年はため息をついて、また木にもたれかかり、少し身体を休めた。
旅用に丈夫な麻布でできた、少しばかり立派な服は所々破れ、その隙間から覗いている肌にはうっすらと赤いものが滲んでいる。
「捕まってたまるか」
少年は静かに呟いた。その蒼い色の目には力強い輝きが浮かんでいる。
少年の髪は少し薄い茶色をしていた。端正な顔立ちではあったが、まだあどけなさの残るその顔には、不安そうな、でも強い表情が浮かんでいた。
少年はまだ十四歳であった。来年の春、学院を卒業し騎士見習いになるつもりでいた。学院では、貴族から平民の子供までが一緒に生活をしていたが、ほとんどの貴族の子息は騎士になることを望んでいた。少年も例外ではなかった。
しばらく時間が経ち、呼吸も整うと少年は立ち上がり歩き始めた。周囲に注意しながら少しずつ、前を見て・・。
数日前。
ここは、ユーゼリアス大陸の西にある王国の西の端にある港町シュプールから、東へ歩いて三十日ほどのところにある小さな村。
王国の名前はシェルバリエ。村の名前はティルトと言った。村の東側から北側は湖に囲まれていた。そのさらに外側を、シュプールを越えて海まで続く山脈があり、秋の紅葉を迎えようとしていた。その村の北にある山脈を越えると、近年、治める者の交代に伴って不穏な動きを見せる別の国がある。
人口二百人ほどの国境に近い山間の村だ。
周囲は険しい山々に囲まれた農耕と狩猟で生計を立てる、とりわけて豊かな村ではなかった。
険しいが、村の北の山にはガルバス北の帝国への近道があり、旅人が足を運ぶくらいだ。自然の静けさの中で、秋にはその年の収穫を山の神々に感謝して村人は暮らしていた。
だが、その日の村は慌しかった。
まだ夏の日差しの残る中、大人達は村の広場に集まり、そこで議論を繰り返していた。
「・・しかし、それでは・・・村を捨てろとおっしゃるのか?」
その男の言葉には、明らかな戸惑いと不安が感じられた。
老人だった。生きてきた歳月を感じさせる真っ白な髪は腰まで伸び、そこで束ねられている。髪と同じ色の豊かなひげのその男は、足が不自由らしく杖をついていた。
「しかし、ミゼム殿・・。」
そう答えたのは広場の中央に立ち、村人の戸惑う視線を浴びていた男だった。
騎士であった。無骨な鎧を身に付け、腰には騎士たちが一般に良く使うバスタード・ソードを吊るしている。左手にはシェルバリエ王国騎士団の紋章の入った楯を、内側にある皮のベルトに腕を通していた。戦の時は楯の内側にある、ベルトより外側に付いている取っ手を握って腕と楯を固定する。今は左手に、脱いでいる兜を抱えていた。鎧の左胸にも同じく、シェルバリエ王国の紋章が小さく浮き彫りにされていた。
精悍な顔立ちで、茶色い髪の少し背の高い騎士は隣にいる別の騎士に一瞬目をやると、視線を戻してそのまま続けた。
「・・これは国王の御命令なのです。ガルバスが侵攻して来ているのです。」
ミゼムと呼ばれた老人はこのティルトの村長であった。
すでに高齢になり、あまり自由に動けるとはいえない身体を庇うように立っている。傍らには若い娘が寄り添っていた。
ミゼムの孫娘であった。娘はミゼムに寄り添うように身体を支えながら、おびえた目をその騎士に向けている。娘だけではなかった。その場に集まっている村人たちは一様に不安の目を騎士たちに向けていた。
「大丈夫じゃ。セリル・・」
そう言って、ミゼムは孫娘に目をやると右手でそっと孫娘の黒髪をなでながら呟いた。
「しかし・・」
ミゼムはまだ、納得がいかない顔をしながら騎士の言葉を待った。当たり前であった。生まれた時からこの村で暮らし、村の外へなど出る事も無く暮らしてきたのだ。ミゼムだけではなかった。この村のほとんどの人が同じであった。いくら同じ国とはいえ、村の外へなど、なにか特別な用事でも無い限り誰も行った事が無いのである。
「ここは北の国境の砦と王都シェルバリ、それにシュプールのちょうど中間に位置しています。ここで敵の侵攻を食い止める事ができれば王国は持ち堪えられます。」
隣にいた騎士が言葉を続けた。
「現在、北の砦では交戦状態にあるのです。しかも相手には、得体の知れない者どもが力を貸しているようなのです。いつ砦が陥とされるかわからない状態となっているのです。」
騎士の言葉を聞き、少なからず村人たちの輪に動揺が広がる。
それもそのはずであった。北の砦は王国が建国される前から、一度も陥ちた事の無い砦であった。しかも帝国には、得体の知れない者が力を貸しているという。
この世界では妖魔や魔物といった類の物は、どこかの言い伝えやお伽話の中にしか存在しないのだ。はるか昔には存在したそれらも数百年前の《封印戦争》で、北の大地に眠る古代の遺跡の中に封印されたはずであった。
王国の北側は険しい山脈に囲まれている。砦は唯一の帝国に通じる道の上に築かれていた。最も、築かれた当初は別の敵を警戒していたのだが、今は王国の北の国境を守っている。
それが陥落寸前というのである。すぐに信じられる物ではなかった。
騎士の話によると、数日前に砦から伝書鳩が飛ばされ、砦がガルバス帝国から侵攻を受けている事。人間ではない、獣のような者が敵の軍勢の中にいる事。それが圧倒的な力を持っている事。このままでは砦はそう長くは持ちそうに無い事が王都へ伝えられたというのだ。
その為、国王レイリック八世は村を急遽、守備拠点として使い、砦を支援するように指示を出してきたのである。目の前の騎士達は、ティルトの西、徒歩なら三日ほどの位置にあるタンカスという小さな街に詰めていた騎士達であった。
すでに王国の騎士団は王都を離れ、この村へ向かっているというのだ。
村には働ける男たちを残して柵や見張り台などの建設を行ってもらい、戦えない女や子供、老人たちを港町シュプールへ避難させるように伝えてきたのである。タンカスや周辺の村でもすでに避難は進められているという。
村人の中には砦が落ちそうである事への不安と、信じられないといった動揺の声が上がる。
その昔、北の砦はこの村人たちの祖先が築いたのである。この村はその砦に物資を補給するために作られた村であった。
この王国が建国された時にその任を解かれ、村人は農民へと変わった。
今でも、北の砦が難攻不落の砦であることは村人たちの自慢であり、そして安心でもあった。
その砦が陥落しそうだというのだ。
確かに、この村は初めから砦が陥落した時の事を考えて作られていた。北の山から下る川は、村の東北から東側を回り、東南にかけて湖を作っていた。人工的な湖であった。その後ろには山があり、これも村を守る一つの役目をしていた。
騎士達はこの村を、その昔与えられた役目として使いたいと言って来たのである。
しばらくのやり取りの後、少し考えたミゼムは言った。
「解りました・・。」
少し戸惑った、でもしっかりとした口調で答えた。
「その昔、われらの祖先はあの砦を築き、そして砦を維持させる目的でこの村を作った・・。今、再びこの村が本来の目的の元に扱われる事は、決して不名誉でもなんでもない・・。」
周りに言い聞かせる様にミゼムは呟くと、声を少し大きくして取り巻いている村人たちに告げた。
「今より、ここは騎士団の陣地として使われる。男たちは村へ残り、騎士団に協力するのだ。女子供、動けない物はシュプールへ避難する。」
そういって、老人はいくつかの指示を出すと騎士に頭を下げ「旅支度をする」と言って、孫娘に支えられながらその場を離れた。
村人の中にはまだ異論のある者もいたが、それでも敵が迫っていると聞いて村に留まろうとする者は、ほとんどいなかった。
男たちを残して一時間ほどの後、村の者は海から続く小さな街道を西へ旅立った。
「どうなるのか・・」
ミゼムだった。年老いた村長は小さな荷車に乗り、不自由な足をさすりながら呟いた。
セリルは荷車を引く牛の隣で気遣うような視線をミゼムに向けると言った。
「騎士様たちが守ってくれます。また、村に戻れますよ。きっと・・」
セリルは黒い瞳で少し笑いかけながら、不安さの滲み出る声をかけると、すぐに前を向いて歩いた。
「そうだと良いのだが・・」不安でいっぱいであろう孫娘の、その心中を察してため息をついた。
セリルは幼い頃に両親を亡くし、祖父の手一つで育ててきた。それでも優しい娘に育ってくれた事が何よりだと思えた。まだ紅葉の始まっていない山々を見上げて、ミゼムは孫娘の行く末を心配していた。
老人は、夏の強さを残す日差しを受けながら、そっと目を閉じて眠りに落ちていった。
ミゼム達が出発してから残った男たちは騎士達と話し合い、新たな見張り台や馬除けの柵などを作っていた。
村の中心から西側とその周辺から、金属の打たれる音や威勢の良い男たちの掛け声が聞こえてくる。
「アスター、こっちはもう少しで完成だ」
赤いボサボサの髪の毛をぐしゃぐしゃかきむしりながら、その男は言った。まるで熊かと思うほどの大男だった。
「そうか・・、それじゃあ、入り口の方を手伝ってやってくれ。ジェイズ」
アスターと呼ばれた男は、手に持っていた羊皮紙に何かを書くとそう言い残して、その場を去っていった。
村には50名ほどの男たちが残り、村の外側から入り口付近などを改良していた。
元々、人工的に作られた湖に囲まれるように作られている。さらに外敵から攻め込まれた時の事を考えて作られている為、小さな村には似つかわしくないほどの立派な石壁と門があった。
ただ、何百年も使われていなかった為に、ところどころ痛んでいた。入り口の門は農作業に邪魔であったため取り外されている。
見張り台はすでに無く、門の脇にひっそりと名残の土台が風化したまま残っているだけであった。
村人は、新たな見張り台をその場所に作り、門の外に柵を設けていた。
「門を作ることはできないと?」
昼間でも薄暗い天幕の中で、奥に腰掛けた少しやせている長身の男がそういった。
投げかけられた男はアスターだった。アスターは村長の親戚に当たる男であった。セリルとは従兄弟になる。
黒い髪を短く切りそろえて、動き易そうな農作業用の服を着ている。手には丸め込んだ羊皮紙を持っていた。歳は二十台半ばだろうか。少し険しい表情のその青年は、じっと天幕の奥にいる相手に灰色の眼を向けている。その様子はまるで、自分が背負った責任と対峙しているかのようでもあった。
身体の自由の利かないミゼムに代わって村に残り、村人の代表として騎士達との話し合いを行う立場にいる。アスターには、村人への責任があった。
「はい。門を作るにはそれなりの日数と材料が必要です・・」
「そんなことは解っている」
少し怒りのこもった声で、間髪いれずに答えたのは長身の男であった。無骨な鎧を身に付けていて、腰には実用性を考えて作られた、飾り気の無いバスタード・ソードを吊るしている。胸には王国の紋章が浮き彫りにされていた。騎士団の先遣部隊として村に来ていた部隊長であった。名前をジュランと言った。鎧の右肩には、部隊長を示す緑色の布が巻かれている。それを除けば他の騎士と同じ戦装束であった。兜は脇にあるテーブルの上に置かれ、楯はその下に立てかけてあった。
天幕には、他に3人の騎士がいた。ジュラン以外の騎士は脇に立っていたが、ジュランは用意された椅子に腰を下ろし、先ほどまで目を通していた村の周辺と王国の領土図に右手を添えたままの姿勢でこちらを見ている。
門は大きな物であった。外的の進入を防ぐ目的で作られた門である。
当たり前であった。人の背にして五人分は軽く超えるような高さの門を作るのか、それとも、入り口の周りを柵で囲んで門の変わりとして敵の侵入を防ぐのかを議論していたのである。
「確かに時間がかかるであろう。だが、門が無ければいくら石壁があっても、何の意味も成すまい」
詰め寄るような口調でアスターにそう言い放った。
「しかし・・」
そう言いかけてアスターはやめた。
この騎士の言う事が正しいのは、功城術や用兵術などを学んでいない自分の目にも明らかであったからだ。それにもし、万が一この村を陥とされる事があれば、シュプールに避難した他の村人も王国の運命も、厳しい物になる事は明白であった。
もっとも、本当に妖魔や魔物といった存在がいるのであれば、どこまで有効なのかは判らなかったのだが。
「・・解りました。なんとか急いでみます」
もはや議論の余地は無かった。アスターはそう言い残すと、軽く頭を下げて天幕を後にした。そんな事にならなければ良い。そう小さく呟いた。
あの騎士の言う事が正しいと、もう一度心の中で呟きながら、村人達が作業をしている場所へ指示を伝えるために向かって行った。
「ここは守らなければいけない・・」
アスターは主だったものを集めてから、先ほどのやり取りを説明し、最後にそう付け加えた。
村人達が戦について全く知らなくても、門の無い石壁など、そうそう守りきれる物でない事は見ればすぐに解る事である。多少は反対の声が上がったが、自分達が何をしなければいけないのかは良く解っているつもりだった。
反対の声を挙げた者達の説得を済ませ、アスターは門の製作の支持をして自分も作業に加わっていった。
赤く空が燃えていた。
砦が燃えているのだ。難攻不落といわれ、今まで一度として敵の侵入を許した事の無い砦が、燃えていた。初秋の黒い空をゆらゆらと炙っているように、その光景は幻想的に見えていた。
空は真っ赤に染め上げられ、真っ黒な夜空に赤い絵の具をぶちまけたように見えた。
村は大騒ぎであった。
村人は、時折見上げる砦を不安げに見守りながら、夜も門や見張り台を作るのに働いていた。
そこへ、砦に火の手が上がったのである。
「そんな・・」
「まさか・・」
村人は手を止めて、北の空を見上げていた。
「なんとっ」
ジュランは表のざわめきを感じ取り、天幕から出て北の空を見上げると驚愕の声を上げていた。天幕や石壁の上で見張りについていた騎士達も、同じように北の空を見上げている。村の広場の脇にロープでつないである馬たちも、ざわめく村人たちの気配に敏感に反応して嘶いていた。
まさか、砦が燃えるとは思ってもいなかったからだ。どんなに厳しい戦況であろうと砦は持ち堪える。そう思っていた。砦には国境守備隊として常時三百人ほどの守備隊と騎士が百人ほど詰めていた。
砦の堅牢さとその数の兵力があれば、どんな敵からも守れると思われていたのだ。
「オルス、もはや一刻の猶予も無い、早ければ明後日までに敵の襲来があるかも知れん、見張り台は後回しだ。急ぎ門を作れとアスターに伝えよっ」
「はっ」
傍らにいた若い騎士は、自分が言われたのだと気付くと、略式の挨拶をしてからすぐにその場を後にした。
まだ騎士団本隊は到着していない。ジュランがタンカスから連れてきている騎士達は十名ほどしかいないのである。残りの守備隊は副官に任せ、街の守りを固めるように指示してタンカスに置いて来たのだ。
本来なら、先遣隊と呼ぶにはあまりにも数の少ない部隊である。後は戦いの経験も知識も無い農民たちであった。
「このままでは耐えられん」
いかに堅牢な石壁があったとしても、門の無い砦など、陥とすのに百名ほどの兵力もいらないだろうと思われた。今の村は砦としてはあまりにも脆弱であった。