帰宅
「ただいま、優姉」
玄関のドアを開けてそう言うと、リビングから優姉が出てきた。
「おかえり。ご飯出来てるからね」
「分かった。すぐ行くよ」
二階に上がり、鞄を置いてブレザーとネクタイを外してからリビングに向かう。
さて、肉的なものをふんだんに使った何かという漠然とした献立は一体どんなものに仕上がったのか。
「おお、生姜焼きか」
食卓の上の皿には、美味そうなタレがかかった豚肉がてらてらと光っており、空腹もあってか凄まじい勢いでよだれが口内に溢れ出る。
期待以上のものがそこにあった。
「希望通り?」
ご飯茶碗を盛りながら優姉が俺に聞いてきた。
それに対して、勿論、と言いつつテンションを上げて椅子に座る。
料理上手の優姉の事だ、恐らくは味の方も期待以上だろう。
「はい、秀介」
「ありがとう」
ご飯茶碗を受け取り、いざ食べようと箸に手を伸ばすが、優姉が再度ご飯茶碗を手に炊飯器の前に行くのが見えたので手を止める。
「優姉、まだ食べてなかったの?」
食卓の上にあるもう一つの皿はてっきり母親用のだと思っていたのだが、違うのか?
「うん。一緒に食べよ?」
と、何て事のない様に優姉は言うが、既に時刻は二十時近い。
それまでずっと待っていた事を思うと、せめて走って帰るぐらいはするべきだったと自責の念が胸に湧く。
「遅くなってゴメン、優姉」
「ううん」
短くそう言い、優姉は椅子に座る。本当、頭が上がらないな。
「「いただきます」」
優姉と一緒に食べるという最高のスパイスをかけたこの料理は、言うまでも無く最高に美味しかった。
「さて、じゃあ今日も始めようか」
「はーい」
教師と生徒調で始めるレクチャータイム。
ベッドの上でというのが保険体育をにおわすが、そんな事は無く、今日も今日とて歴史の手引きをする。
「確か前回は姉川の戦いまで話したんだよね。覚えてる? 優姉」
「うん。一五七○年に起きた合戦だよね」
「そう。織田 信長と徳川 家康が連合軍を組んで、信長を裏切った浅井 長政とその同盟相手の朝倉 景健を倒す合戦の名称、それが姉川の戦い。まあ、倒すとは言っても弱体化しただけで、浅井・朝倉との戦いはまだ続くんだけどね」
「あ、そうなんだ」
「そう。で、話はちょっと変わるけど、信長はこの年の前後から征夷大将軍である足利 義昭と仲が悪くなるんだ」
「あれ? 足利 義昭って確か、将軍だったお兄さんが殺された後に織田 信長を頼って一緒に上洛して将軍になった人だよね。仲良かったんじゃないの?」
「当初は仲が良かったんだけどね。元々自分の領土が少なかった足利 義昭は、軍事力があまり無かったんだ。それでも足利 義昭は将軍、つまりは武家の長として振る舞い続ける。対して信長はこの時既に大勢力だったし武力も相当大きかったから、足利 義昭の権力を利用する事しか考えていなかった。この違いが二人の仲を悪くした理由だね」
信長の掲げる天下布武に対し、権力による実権掌握を目指す足利 義昭はある意味、対となっていた。
まあ、音楽性が違うという理由で解散するバンドメンバーみたいなものだろう。
「で、足利 義昭。この人が権力を盾に信長を排除しようと考え出す。具体的に言えば各地の大名に信長を討伐しろっていう手紙を送りまくって、浅井・朝倉にも協力とも連携する。これが信長包囲網って言われる出来事なんだけど、結局は瓦解する」
「どうして?」
「信長包囲網の一番の要だった武田 信玄が病死したって事も大きいんだけど、足利 義昭本人にも問題があってね。他の大名との交渉が上手くいかなかったんだ」
「でも将軍だったんでしょ? 権力があったんじゃないの?」
「そうだね、権力はあった。何せ武家社会のトップだったんだから。でもあくまでそれは地位によるもので、実際それだけの力があったかっていうと、無い。だから、ああしろこうしろっていう強制力を発揮出来なかった」
「個人が持つ軍事力が低かったから、上手く人を動かせなかったって事?」
「そういう事」
今も昔もそうだろう。
交渉する上で相手から最大限のものを引き出すのならば、誠意と利益と力を示さなければならない。
誠意が無ければ心は動かせず、利益が無ければ納得させられず、脅しが無ければ最低限しか約束を果たしてもらえない。
それでは、交渉の意味が無い。
「足利 義昭は、それで失敗した」
望む結果を得られず、そうこうしている内に浅井・朝倉も信長に滅ぼされ、孤立した足利 義昭は最終手段として自身も挙兵して信長と対峙するが、結果敗北。
遂には信長によって当時の首都・京都を追放され、二百年以上続いた足利幕府は滅亡する。
「だから優姉。これ以後から江戸時代までを安土桃山時代って言うんだよ」
「あ、そうか。じゃあ今までのは室町時代の出来事だったんだね」
「うん、そうなるね」
当初、優姉は桶狭間の戦いから時代背景がよく分からないと言っていたので敢えて訂正しなかったが、ここまで話せば十分に理解はして貰えただろう。
後々にはこの安土桃山時代は戦国時代の立役者である織田 信長、豊臣 秀吉、徳川 家康の前者二人が政権を握っていた時代なので、頭文字を取って織豊時代とも別名されるという事を言うとしよう。
「そっかぁ。室町時代はそうやって終わったのかぁ」
色々合点がいったのか、優姉は何度も頷いた。
良かった、理解してくれたか。
安堵すると同時に、今まで優姉に話していた事を振り返る。
この時期の信長は紙一重の出来事が多すぎる気がする。
ほんの少しボタンを掛け違えれば、例えば足利 義昭がもっと上手く周囲の人間を動かしていたらどうなっていただろうか。
交渉を上手く行っていれば、どうなっていただろうか。
歴史にもしもを考えるなど栓無い事だが、ついそう思ってしまう。
「うん?」
そんな事を考えていると、ふと頭の中で今日の出来事が様々な化学反応を起こして繋がった。
「? 秀介、何かあった?」
「あ、いや……。あのさ、優姉。新聞部の現状って把握してる?」
「新聞部? 今日秀介に渡された資料を読んで一応は把握してたつもりだけど、突然どうしたの?」
話の流れが分からない優姉は若干戸惑っているが、頭で繋がったものを解かない為にも、俺は内容を詳しく言わないまま話を続けた。
「例えばさ。新聞部が校内新聞を手伝う事を約束したら、実績を上げるのを確約出来る?」
「……そうね。校内新聞に備考として、新聞部との合作である事を記載すれば大丈夫よ」
僅かに生徒会長の顔を覗かせた優姉がはっきりとそう言う。
そうか、となるとこれで武器は全て揃ったんじゃないか?
「優姉、ゴメン。今日渡した資料の新聞部の分だけ弾いてくれる?」
「良いけど、どうして?」
どうしてと言われれば、理由は一つのみ。
「上洛させるから、かな」