プロローグ
プロローグ
記憶は小学校。確か三年生。活字が、友達だった。
「何だよー、お前。また歴史の本かよ」
某日。ドッジボールしようぜ! とクラスの男子に呼び掛け、バレーボールを脇に抱えている高野くんが呆れた口調で俺にそう言ってきた。
小学生の時分では運動系の遊びでこそ他の人間の目を引く行為であり、一目を置かれる手段である。ドッジボールが得意な高野くんは定期的にクラスの男子を誘い、自らの地位を確立したものにしていたのだと今であれば分かる。
「いいじゃないか。だって、面白いんだもん!」
俺は本を片手に高野くんにそう言っていた。当時の俺が優先すべきは読書であり、ましてやボールを人にぶつけて力を誇示する様な野蛮な遊びでは決して無かった。
とは言え運動は割と得意だった。正直高野くんが主催するドッジボールという名のクラス内ヒエラルキー競争の上位に食い込める自信はあったし、事実体育の授業では高野くんに勝らずとも劣らない戦績を俺は残していた。
「そんな本ばっかり読んでいるからハブられるんだよ、お前は!」
でもそれは体育の時間のみの話であって、休み時間や放課後というクラス内における結束を育む時間での話では無い。高野くんの言う通り、その時間に一人で本ばかりを読んでいた俺は、クラスからハブられていた。
「だって、だって……!」
それでも俺は本を読みたかった。歴史にまつわる本が、楽しくて仕様が無かったのだ。
「だってじゃねーよ! そんな分厚い本読んでインテリぶってる気かよ!」
「そ、そんなつもりは無いよ! ただ面白いから……!」
「嘘つけ、バーカ! やーい、お前の父ちゃん司馬遷~!」
そう言って高野くんは舎弟的な友人と手を取り、俺の周りをぐるぐる回った。子供の煽り方というのは意味不明なものだと、夢の中での第三者視点の俺が他人事の様に思った。
「……うわああああん!」
しかして泣き虫だった当時の俺は、お前の父ちゃん司馬遷と言いながらスキップ調でぐるぐる回る、いわば部族の儀式的な行為をする彼らに対して悔しいと思い、その感情を発散させるには泣くしかなかった。
イジメと言う名の儀式は続く。でも俺には、そんな時はいつでも、
「コルァ! 私の弟的存在をいじめているんじゃないわよ!」
と言って助けてくれる女の子がいた。
「やべっ、逃げろー!」
その怒号を聞いて一目散に逃げる高野くんとその取り巻き。ちょっと嬉しそうなのはやっぱり、彼らの行為は俺の延長線上にいるこの女の子に向けてだった、そういう事なのだろう。
「全く、アイツら。……大丈夫? 何かされたの?」
可愛らしい女の子、城山 優佳が泣きじゃくる俺の手を握り、慰めている。俺の家の隣に住むこの一歳年上の幼馴染が、当時の俺にとってはヒーローだった。
「えぐっ、えぐっ」
「泣いてちゃ分からないよ。このお姉ちゃん的存在に何をされたか話してごらん?」
「ひっく、……アイツら、僕のお父さんが司馬遷だって……」
「しば、うん? えっと、どなた?」
「ぐすっ。『史記』の著者だよ。中国の前漢の時代の人で、当時の中国の歴史的事実を正確に記した、言わば客観的視点による国家反逆的内容を多分に含んだ内容すら書いた、それはもう……」
「分かった! お姉ちゃん的存在、よーく分かったから!」
優姉は俺のヒーローだったが、俺の趣味には今を以てさえ興味を示さない。発作の様に喋り出した当時の俺の口を必死で止めようとしている。
「えーっと、で、弟的存在。弟的存在は司馬遷さんとやらが嫌いなの? だから泣いてるの?」
「違うよ! 馬鹿にされたのが悔しいんだ!」
寧ろ司馬遷を尊敬していた俺は、その名を使って煽られたのが我慢ならなかったのだ。
「うん、うん。弟的存在もようやく悔しいと思える様になったか」
頷きながら優姉がそう呟く。泣き虫であり、人見知りでもあった俺にはそういった感情が欠如しており、それを当時の舞姉は心配していた。姉の様であり母の様でもあった優姉には、俺の趣味はどうあれ、悔しさを出す俺に一種の成長を見て喜んでいるのだろう。
「弟的存在。機は熟したわ。これからはこのお姉ちゃん的存在が男として一人前に育て上げてあげるからね」
優姉は拳を握り、俺の胸を軽く叩いた。
「え、それってどういう事?」
「要するに、いじめられる事なんて無いように、強く、逞しくなるの。道は険しいけど、このお姉ちゃん的存在を信じてついて来てくれる?」
「お姉ちゃん的存在……!」
当時の俺にとっては優姉は絶対であり、尚且つ高野くんを筆頭とした軽いいじめ集団に辟易としていたので、その提案に一も二も無く飛びついた。
「うん! 僕、頑張るよ!」
「よく言った、弟的存在!」
ひしっ、という擬音を発しながら俺と優姉は抱き合う。
そうか。優姉が教育ママ宜しくな行動をとり出したのは、この日からだったんだな。
ピピッ、ピピッ、と目覚まし時計のアラームで目が覚める。頭によぎるのはつい先程まで見ていた夢。
「……明晰夢にも程があるな」
夢の終わりは唐突だったが、忘れていた事でさえ夢の中では鮮明だった。懐かしい。
アラームが鳴り続けている目覚まし時計の頭を叩き、黙らせる。時刻は七時三十分。ベッドの上から見える一級遮光では無いカーテンからは光がこぼれており、その具合を察するに恐らく天気は快晴なのだろう。
布団をどかし、窓に近づく。さて、今日はどうだろうか。
「うむ、絶景かな」
カーテンを開け、次いでぼかし窓を開けると下着姿で制服に着替えている優姉が目に映った。隣家に住む優姉の個室は、俺の個室の目の前にある。そして優姉の個室の窓は透明窓であり、必然、俺が窓を開ければ優姉の部屋が丸見えとなる。
毎日という訳では無いが、朝の弱い舞姉は時々カーテンを閉め忘れて着替えをする。今もそうだ。両目を3にしながらもパジャマを全て脱ぎ終え、スカートを両手に足を上げている。
「しかし、ブラがピンクで、パンツが白か」
何で上下を揃えないんだよ! と隣家に怒鳴り込みに行きたい気持ちを抱えつつも、それを実行すればこのゴールデンタイムは終了するので、歯を食いしばって傍観に徹する。
優姉は、美人だ。スタイルも良い。上下の下着を揃えない事への不満を度外視すれば、この朝の風景というのは、日本百景どころか日本三景に勝るとも劣らない。
「優姉や ああ優姉や 優姉や (下着姿の)」
嘗ての俳人であり、奥の細道を記した松尾 芭蕉が、日本三景である松島を見て、その絶景過ぎる景色に感嘆し、松島や ああ松島や 松島やと詠んだそうだが、その気持ちは多分に分かる。俺のこの部屋を入れて日本四景とすべきではあるまいか、などとも思ってしまう。まあ、誰にも見せる気は無いが。
そんな事を考えている内に優姉の着替えは終了し、優姉は部屋を出て行く。今日も大層なものを見せて頂き、ありがとうございましたと心の中で礼を言う。
優姉。貴方の教育のお蔭で俺はエロく、逞しく貴方の着替えを覗ける様になりました。感謝してもし切れません。
「さて、俺も着替えるか」
俺、町田 秀介の朝は大体こんな感じだった。