反転の錬金聖女 ~婚約破棄されたので、酸性雨に沈む王都からとっとと去ります。なお街の浄化魔法は持っていきますので、後はご自由に溺れてください~
「ミレイユ・レオンハート。君との婚約を破棄する」
酸性雨がガラス張りの天蓋を叩く夜会の只中で、王太子アルベリクは高らかに宣言した。
魔導灯のネオンが、彼の金の髪を毒々しく照らしている。
私はワイングラスを傾ける手を止め、静かに彼を見上げた。
(ああ、また雨の匂いが変わった。今夜の酸性度は高いわね……硫黄が多い)
前世の癖で、私はまず空気を分析してしまう。感情よりも先に、化学式が頭をよぎるのだ。
そう。私の中には、もう一つの記憶がある。
現代日本で、公害と酸性雨に沈む都市を見つめ、その浄化技術に生涯を懸けた一人の研究者。それが、前世の私だ。
溶けていく森。白く濁った湖。咳き込む子どもたち。
だからこそ、私はこの王都ネブロスの危うさを、誰よりも理解していた。
魔石炉が吐き出す魔素の煤。それを毎晩中和し、街を守るのは、私の『反転』ギフト、ただ一つ。
「聞いているのか、ミレイユ。君の陰気な献身にはもう飽きた。街の浄化など、誰にでもできる雑務だろう?」
雑務、と彼は言った。
毎晩、下層区の子どもたちの肺を守ってきた私の仕事を。
アルベリクの隣で、鮮やかな紅の髪の女――治癒聖女ルクレツィアが、扇の陰でくすりと笑う。
「浄化なんて、誰にでもできる簡単なお仕事でしょう? わたくしの治癒ギフトがあれば、街の管理くらい片手間で務まりますわ」
(治癒ギフトで酸性雨が中和できるわけがない。化学を、舐めているのかしら)
私は心の中でだけ、深く息を吐いた。
治癒ギフトは傷を癒す力。酸を中和する力ではない。
酸性雨に「頑張れ」と光を当てたところで、pHは一ミリも動かない。
それを、この二人は理解していない。理解しようともしていない。
「――かしこまりました」
私は静かに立ち上がり、そう答えた。
喚くつもりも、縋るつもりもなかった。
もう、我慢する理由がどこにもなくなったのだから。
◇
私は左手の婚約指輪を、ためらいなく外した。
カチリと硬い音を立てて、それを卓上に置く。
夜会の喧騒が、ふと静まった。
「ミレイユ、君は……その、抵抗しないのか」
アルベリクが拍子抜けした顔をする。きっと、泣いて縋る私を想像していたのだろう。
断罪劇の主役気取りで、酔いしれるつもりだったに違いない。
生憎、その役を演じてあげる義理はない。
「抵抗? 何のために? 望んで解放してくださるのですから、ありがたくお受けするまでです」
私は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ルクレツィアの前に差し出した。
「ルクレツィア様。役目を引き継がれるとのことですので、こちらの浄化の魔導契約書にご署名を」
「え……? 契約書?」
「王都全域の酸性雨中和は、聖女個人と王家が結ぶ正式な職務です。名義を移さねば効力が発生しませんので」
淡々と、事務的に。
前世で幾度も交わした業務引き継ぎと、同じ調子で。
ルクレツィアは戸惑いながらも、勝ち誇った笑みでペンを取る。
「ふん、簡単なお仕事だと言ったでしょう。もらってさしあげますわ」
サラサラと、彼女の名が契約書に躍る。
(――ええ、どうぞ。差し上げます。丸ごと全部)
インクが乾くのを見届けて、私は静かに一礼した。
「では、ルクレツィア様。次の酸性雨の季節は――三日後です」
「三日後?」
「ええ。月に一度、もっとも酸性度の高い雨が降ります。魔石炉の煤が飽和する周期に合わせて。くれぐれも、街のことをよろしくお願いいたします」
私は微笑んだ。
それは前世で、無責任な上司に引き継ぎ書を渡したときの――冷ややかで、完璧に礼儀正しい微笑だった。
周囲の貴族たちが、くすくすと私を嘲笑う。
地味な聖女が、あっさり切り捨てられたと。
(三日後、あなたたちは思い知る。誰が『反転』の代わりになれるのか。――誰にも、なれないということを)
背を向けて歩き出す私の後ろで、溶けかけたネオンが、ジジ、と一つ瞬いて消えた。
◇
「お嬢様の価値をお分かりにならぬ方々のために、我が主が涙する必要などございません」
公爵邸に戻った私を、老家令セバスは静かにそう迎えた。
白髪をきっちりと撫でつけ、いつもの冷静な佇まいのまま。だがその瞳の奥には、深い労りがあった。
「セバス。私、王都を出るわ」
「存じております。ですから、こちらを」
彼が差し出したのは、革張りの旅行鞄が三つ。
開けてみれば、前世の研究に必要な文献、鉱物資料、そして携帯結界『浄化石』の素材が、寸分の狂いもなく揃えられていた。
「これ……前世の研究に必要な文献も、浄化石の素材も、全部揃っている。あなた、いつの間に……」
「お嬢様が夜ごと、独り言のように『魔石炉依存は危うい』と仰っていたのを、私は聞いておりましたので」
私は思わず、目頭が熱くなった。
この世界で、私の綱渡りを間近で見ていた唯一の証人。
「……ありがとう、セバス」
その夜。
私は下層区へと足を運んだ。煤で黒ずんだ路地の奥、雨漏りのする木賃宿の軒下に、痩せた子どもたちが身を寄せ合っている。
「聖女様……! 聖女様は、どこかへ行っちゃうの?」
駆け寄ってきたのは、リナという少女だった。
煤に汚れた頬に、大きく澄んだ瞳。
私は屈み込み、彼女たちの手に一つずつ、青く光る浄化石を握らせた。
「ええ。でもこれを肌身離さず持っていて。雨の夜は、絶対に手放さないで。あなたたちの周りだけは、雨が届かないから」
配ったのは、下層区の子どもたちにだけ。
貴族街には、一つも。
(愛も、名誉もいらない。私はただ――綺麗な空気の下で暮らしたいだけ)
夜明け前、私は酸性雨の届かぬ辺境、竜峰へと馬車を走らせた。
翌朝、王都から早馬の使者が追いすがってきたと、後にセバスから聞いた。
彼は門前で、慇懃無礼に一礼してこう告げたという。
「苦情は受け付けません、とのことでございます」
◇
「王都の人間が何の用だ。帰れ」
竜峰の辺境伯邸に着いた私を迎えたのは、唸るような低い声だった。
二メートルを超える長躯。浅黒い肌に、背には畳まれた漆黒の竜翼。額には竜の血脈を示す小さな角。
金の縦長の瞳が、不機嫌そうに私を睨め下ろす。
竜人の辺境伯、ガルド・ヴァルゼード。
「魔石炉の煤に穢れた王都の連中と、馴れ合うつもりはない。とっとと出ていけ」
吐き捨てるような物言い。だが私は、彼の足元にちらりと目をやって、思わず口の端を緩めた。
屋根裏へ続く階段の陰で、雨に濡れた子猫が一匹、彼のブーツにすり寄っている。
(人間嫌いのわりに、随分お優しいこと。子猫を懐に隠して……)
「辺境伯様。私はこの竜峰の枯れた鉱脈を、再生しに参りました」
「なに?」
「北の廃鉱。魔素が枯渇して、五十年前から放棄されているとお聞きしました。あそこを蘇らせれば、王都の魔石炉に頼らずとも、この地で完結する清浄な魔素循環が築けます」
ガルドの眉が、ぴくりと動いた。
「……戯言を。あの鉱脈は、王国中の錬金術師が匙を投げた死地だ。お前ごときに何ができる」
「できます」
私は即答した。
前世の記憶が、静かに脳裏を巡る。土壌汚染の浄化、閉山した鉱山の再生、循環型のエネルギー設計――それは私が生涯を懸けた研究そのものだった。
「有害な魔素を無害な物質へ反転させ、それを養分として鉱脈に還す。三ヶ月あれば、実証してご覧に入れます」
ガルドはしばらく、金の瞳で私を睨んでいた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らす。
「……勝手にしろ。だが、失敗しても俺は知らん」
背を向けて去っていく巨躯。
その手が、さりげなく子猫を拾い上げ、懐にそっと隠したのを、私は見逃さなかった。
(強面の、世話焼き。子猫をそっと隠して……ふふ、悪くないわね)
綺麗な空気の下での、新しい暮らしが始まる。
そして王都では――あと二日で、酸性雨の季節が訪れる。
◇
三日後の夜。王都ネブロスに、酸性雨の季節が訪れた。
最初の一滴が、貴族街の魔導灯に落ちた瞬間。
ジュッ、と嫌な音を立てて、ネオンの一つが溶け落ちた。
「な……なんだ、これは! ネオンが……溶けていく!?」
夜会の広間で、アルベリクが呆然と天蓋を見上げる。
ガラスが白く濁り、酸に蝕まれて滴を落とし始めていた。
「ルクレツィア! 早く浄化を! お前の役目だろう!」
「わ、わたくしは……!」
ルクレツィアは震える手を天にかざし、渾身の治癒ギフトを放った。
傷を癒す、あの華やかな光が、雨に向かって降り注ぐ。
――だが、雨は止まらない。
酸性度は、一ミリも下がらない。
「ど、どうして……どうして効かないの!? 浄化なんて、簡単なお仕事のはずでしょう!?」
遠く辺境の竜峰で、私は報告書を読みながら、ただ静かにそう思った。
(治癒ギフトで酸性雨が中和できるわけがない。化学を舐めているから、こうなる)
王都の魔導灯が、一つ、また一つと溶け落ちていく。
貴族の館の白亜の柱が、酸に蝕まれてぼろぼろと崩れる。
「館の柱が崩れる……! 貴族街だけが……なぜ下層区は無事なのだ!?」
あれほど「雑務」と見下していたものの正体を、彼らはようやく肌で思い知る。
そして――貴族街だけが無防備だった。
下層区は、私が配った浄化石の結界に守られ、雨一つ届いていない。
(搾取していた者から先に、沈んでいく。因果応報とは、よくできた言葉ね)
翌朝、竜峰に一人の使者が転がり込んできた。泥まみれで、必死の形相で。
「聖女様! どうか、どうか王都へお戻りを! このままでは王都が滅びます!」
私は書きかけの鉱脈再生図面から顔を上げ、静かに問うた。
「浄化のことでしたら、契約通りルクレツィア様にお引き継ぎしましたが」
「し、しかし、あの方のギフトでは雨が――」
「浄化魔法は、持っていきました」
私は微笑んだ。
「契約通り、役目は正式にお返ししましたよね? 私はもう、あの街の聖女ではありません」
使者が言葉を失う。
「――苦情は、受け付けません」
窓の外では、竜峰の澄んだ空に、朝日が昇り始めていた。
◇
竜峰の北の廃鉱。
枯れ果てていた鉱脈が、青白い魔素の光を取り戻し始めていた。
私が設計した反転の循環装置――前世の環境技術と、この世界の『反転』ギフトを融合させた仕組みが、有害な魔素を吸い、清浄な養分へと変えて土に還していく。
「……信じられん。五十年、誰も蘇らせられなかった死地だぞ。それを、たった三ヶ月で」
背後で、ガルドが呆然と呟いた。
「言ったでしょう。できる、と」
私は手袋を外し、額の汗を拭った。
そのとき、ぽつり、と雨が降り始めた。
だが、それは王都の酸性雨とはまるで違う。
私が循環装置に組み込んだ反転の術式が、雨を清浄な水へと変えている。
肌を焼かない、恵みの雨。
「綺麗……。肌を焼かない、恵みの雨。前世でも、この世界でも、初めて見たわ」
思わず、私は空を見上げた。
と、頭上に不意に影が差した。
ガルドが、無骨な傘を私に差しかけている。
二メートルの巨躯を雨ざらしにして、傘のすべてを私に寄せて。
「辺境伯様、あなたが濡れて――」
「……別に。お前のためじゃない」
ガルドはぷいと顔を背けた。その頬が、ほんのり赤い。
「俺が……濡れるのが、嫌なだけだ」
(全然、濡れているじゃないの)
「ふふっ……」
私は思わず、声を上げて笑ってしまった。
心の底から、笑ったのはいつぶりだろう。
王都では、一度も。夜会でも、公爵邸でも、私はずっと張り詰めていた。
「な、なんだ。何がおかしい」
「いいえ。ただ――ここに来て、よかったと思って」
恵みの雨が、二人を包む。
王都からは相変わらず『戻ってきてくれ』の懇願が届いていたが、そのすべてに、私はセバスを通じてこう返した。
『苦情は受け付けません』
もう、あの街に未練はない。
私の居場所は、この澄んだ空気の下にある。
◇
循環都市の礎が、竜峰に築かれ始めていた。
枯れた鉱脈は蘇り、恵みの雨が畑を潤す。人間を嫌っていたガルドの領地に、少しずつ人が集まり始めている。
そんなある日の夕暮れ。
屋敷の門前に、一人の少女が立っていた。
煤で汚れた頬に、大きな瞳。痩せた身体で、長い旅の疲れを滲ませながら――それでも、その眼差しは強い光を宿していた。
手には、青く光る石を握りしめている。
私が、下層区で配ったあの浄化石を。
「リナ……!? どうしてここに……」
「聖女様!」
少女は駆け寄り、私の前で立ち止まった。
息を切らしながら、まっすぐに私を見上げる。
「ずっと、ずっと探してたの。王都のみんなは気づかなかったけど、わたし、知ってたから」
「何を……?」
リナは、握りしめた浄化石を、そっと胸に押し当てた。
「聖女様。あの雨の夜、わたしたちを助けてくれたのは――あなたでしょう?」
夕日が、少女の煤けた頬を金色に染める。
私は、しばし言葉を失った。
貴族の誰一人として気づかなかった私の献身を、この小さな少女は、ずっと見抜いていた。
名誉も、感謝も求めなかった。ただ、綺麗な空気の下で暮らしたかっただけだった。
なのに――胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ええ。そうよ。私が、あなたたちを守っていたの」
私は膝を折り、リナと目線を合わせた。
リナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……! 会えて、よかった……!」
背後で、ガルドが不器用に咳払いをする。
「……腹が減っているだろう。中へ入れ。パンくらい、分けてやる」
(あなた、本当に世話焼きね)
私は微笑んで、リナの小さな手を取った。
この子は、王都から命がけでここまで来た。
ならば、下層区にはまだ、救いを待つ子どもたちがいるはずだ。
酸性雨に沈む王都から逃れて、綺麗な空気を求める人々が。
「リナ。聞きたいことがあるの。王都の下層区は――今、どうなっているの?」
少女は涙を拭い、こくりと頷いた。
「……まだ、たくさんの子が、雨に怯えてる。聖女様みたいな人を、待ってるの」
(――さあ。今度は、どんな綱渡りを解いてあげましょうか)
恵みの雨が降る辺境で、新しい聖女の伝説が、静かに幕を開けようとしていた。




