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【片道切符で意国を旅歩く 】〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜  作者: 恋せよ恋
日本編 残された者たち

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第18話 ◇ 健一の自業自得という名の代償

 朝、目覚まし時計の音で跳ね起きる。身支度をして、駅へ向かい、出社する。


 九年間繰り返してきた、いつも通りの日課のはずだった。けれど今、その「当たり前」のすべてが、健一の首を絞める無数の糸のように絡みついている。


 まず、クローゼットを開けて立ち尽くした。

 これまでは、その日の天候や予定に合わせて、すみれが完璧にスチームアイロンをかけ、コーディネートした一式が一番手前に用意されていた。しかし今、そこにあるのは、皺の寄ったジャケットと、いつのものか分からない皺がついたスラックスの山だ。

 

 接待でついた、キャバクラの香水の匂いが、何度風に当てても取れない。クリーニングに出しに行く時間さえ、これまでの自分はどうやって捻出していたのか。


 ネクタイの結び目一つ、ポケットチーフとの相性、カフスボタンの選択。パタンナーであるすみれが「今日の健一は、これが一番格好いいよ」と整えてくれていた細部が、自分一人ではどうしても、安っぽく、ちぐはぐに浮いてしまう。


 シャツのストックも底を突いた。

 面倒になって家庭用の洗濯機に放り込めば、乾いた後のシャツは無惨に縮み、素人のアイロンがけでは取れないほど頑固な皺が刻まれた。結局、出社途中の駅ビルで、サイズだけ合わせた既製品のシャツを買い、その場しのぎで着替える日々。


 経済的な打撃も、じわじわと健一を追い詰めていた。結婚式の中止に伴う諸々のキャンセル料の支払い、関係各所への謝罪の挨拶回りと、膨大な数の詫び状の発送。特に母からは連日、愚痴と負担額の相談についての連絡が入った。これまでは自慢の息子であった自分が、一夜にして不出来な問題児へと成り下がったのだ。母親の抱く失望と怒りは、それほどまでに激しかった。


 そして何より重くのしかかったのは、仲人を依頼していた課長への謝罪だった。まだ主任クラスの身でありながら、課長直轄の特別プロジェクトで成果を挙げたことがきっかけで、目をかけてもらえるようになった経緯がある。周囲からは嫉妬混じりの声も聞こえたが、直属の上司である係長からは「気にするな」と背中を押してもらえていた。


 特に課長の奥様は、すみれをひどく気に入り、プライベートでも買い物や食事を共にするほどの仲になっていた。「すみれさんは有名なアパレル企業に勤めているだけあって、着こなしのアドバイスが的確だね。妻も、買い物の際に自分では気づけない視点で助言をもらえるから助かると喜んでいるよ」――部長からは、常々そう言われていた。その結婚が、自らの過ちによって露と消えた。課長夫妻の失望は、計り知れないほど大きかった。


 重苦しい空気の中、係長から一つの打診がなされた。


「佐藤、今回の破談で世間的にもしばらくは騒がしい日が続くだろう。そこでどうかな、インドネシアでの大規模なショッピングモール建設プロジェクトに一人出向させる予定があるんだ。行ってみないかい? 若いうちにアジアの現場を経験しておくことは、君の将来にとっても大きな糧になると思うよ」


 これまで、順風満帆なエリートコースを歩んできた健一にとって、想像だにしなかった「海外赴任」という名の、事実上の出向であった。



 日常生活の面でも、すみれを失った代償は計り知れなかった。生活費こそ折半していたものの、彼女は家事のほとんどを負担して、プロ顔負けのクオリティで完璧にこなしていたのだ。その穴を外食や家事代行サービスですべて埋めようとすれば、支出は跳ね上がる。これまで愛用していたセミオーダースーツを新調するような金銭的余裕など、瞬く間に消えていった。


 食生活の乱れは、さらに深刻だった。

 自炊の経験が皆無に近い健一にとって、仕事終わりの食卓を彩るのはコンビニの弁当や惣菜ばかりとなった。

 週に三回、欠かさずジムに通って体を動かしてはいるが、鏡に映る自分には、かつての「爽やかな男前」という面影は微塵もなかった。人生で初めて頬に吹き出物ができ、背中には原因不明の湿疹が広がっていく。その惨めな姿は、自らの手で日常を壊した報いそのもののようだった。


 耐えかねて受診した皮膚科で、医師は健一の背中を眺めながら、不可解そうに首を傾げた。


「……数値には異常ありませんが、おそらく心因性の蕁麻疹でしょう。最近、生活環境に大きな変化や、強いストレスを感じるようなことはありませんでしたか?」


「……特に、ないです」


 内服薬を処方され、逃げるように診察室を出た。

 まさか、「二週間後の結婚式が破談になり、九年尽くしてくれた婚約者に逃げられました。仕事も海外へ左遷される予定です」などと、初対面の医師に言えるはずもなかった。



 さらに彼を苛立たせるのは、浮気相手だった職場の後輩・美咲の存在だ。

 すみれという「婚約者」がいた頃は、スリルを楽しむための都合のいい遊び相手に過ぎなかった。しかし、婚約解消を知るや否や、彼女は我が物顔で「彼女(づら)」をして付き纏うようになった。


「健一さん、今日は何食べる? 私、お部屋に行ってもいい?」


 仕事中に送られてくる甘ったるいメッセージが、今は鬱陶しくて、吐き気がするほど不快だった。

 彼女は、健一が求めていた「生活の秩序」も「精神の安らぎ」も、何一つ持っていない。ただ、欲望を撒き散らして自分を汚す存在でしかなかった。


「……俺は、一体何をしていたんだ」


 残業を終え、誰もいない暗いマンションに帰宅した健一は、玄関で靴を脱ぐ気力もなく座り込んだ。

 部屋には、すみれが使っていた柔軟剤の香りが、もうほとんど残っていない。

 代わりに漂っているのは、コンビニ弁当の容器の匂いと、行き場を失った埃の匂いだけ。

 

 過去の自分を、殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られる。


 自分の人生を彩っていたのは、自分の才能でも、キャリアでもなかった。

 「小川すみれ」という、パタンナーの女性が九年かけて引き続いた、献身という名の精緻な型紙だったのだ。


 健一は、手元に残された、彼女の筆跡が残る最後の手紙をもう一度開いた。

 そこには恨み言ひとつなく、ただ「わがままを許してください」とだけ書かれている。

 

「すみれ、お前は今、どこにいるんだ……」


 返ってくるはずのない問いかけが、冷え切ったリビングに消えていく。

 彼女を追いかける資格など、自分には一ミリも残されていない。


 せめて。自分という「ダメ男」から解き放たれた彼女が、今、どこか遠い空の下で、笑っていてくれたらいい。


 それが、彼女の人生を九年間も奪い、台無しにした自分ができる、唯一の贖罪なのだと思い込もうとした。


 けれど、涙さえ出ないほどに乾ききった健一の胸には、ただ「後悔」という名の重い石だけが、永遠に沈み続けていた。


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