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雨上がりの夜、ホタルイカと一杯 ――決算帰りに見つけた、小さな店

作者: るんたま
掲載日:2026/04/26

 雨上がりの夜だった。


 アスファルトに残る水たまりが、街灯の光をぼんやりと滲ませている。仕事帰りの人影はまばらで、ビルの明かりも一つ、また一つと消えていく時間帯だった。


 高梨深月は、ようやく会社の自動ドアをくぐり抜けた。


「……はぁ」


 吐いた息は、思った以上に重い。


 決算はまだ終わらない。担当は自分一人だ。


 何度も修正した資料、返ってこない確認、積み上がるタスク。区切りのないまま時間だけが過ぎ、気づけば時計は二十一時を回っていた。夕食も、まだだ。


「コンビニでいいかな……」


 小さく呟き、歩き出そうとしたそのときだった。


 ぽつり、と頬に冷たいものが当たる。


 小雨だった。


 気づけば、空はまた雲に覆われている。濡れるほどではないが、じわりと体温を奪っていくような雨だった。


 小雨に打たれて、体の芯がじわりと冷えていく。


 ふと顔を上げると、路地の奥に灯りが見えた。


 暖簾のかかった、小さな店だった。


 木の引き戸に、手書きの看板。


――「季節の肴と地酒」


「……こんなとこに、あったんだ」


 見覚えはない。


 普段なら通り過ぎているはずの場所だった。


 それなのに、その灯りはどこかやわらかく、静かにこちらを呼んでいるように見えた。


 気づけば、引き戸に手をかけていた。


 からり、と軽い音がする。


「いらっしゃい」


 店内はカウンターだけの、小さな空間だった。


 木の香りと、出汁の匂いが混ざり合っている。年配の店主が、穏やかな目でこちらを見た。


「おひとりさん?」


「……はい」


 促されるまま、カウンターの端に座る。少しだけ背筋が伸びる。


「お疲れみたいだね」


「え、あ……まあ」


 見透かされたようで、少しだけ気恥ずかしい。


「何か軽く食べますか? 今日はいいホタルイカが入ってるよ」


「ホタルイカ……?」


 名前は知っている。スーパーで見かけたこともある。


 だが、正直なところ。


「……あまり食べたことなくて」


 どう食べるものなのか、よく分からなかった。


 店主は少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。


「それはもったいない。じゃあ、うちで一番美味しい食べ方を出そうか」


 深月は、戸惑いながらも頷いた。


 しばらくして、小さな皿が目の前に置かれる。


 艶のある小さなイカが、整然と並んでいる。酢味噌が添えられ、刻んだネギが彩りを添えていた。


「酢味噌和え。まずはそのまま一つ、どうぞ」


 箸で一つつまむ。


 小さな体を、そっと口に運ぶ。


 ぷちり、と小さく弾けて、内側から濃い旨味が滲み出る。


「……え」


 思わず、声が漏れた。


 濃厚な旨味と、ほのかな苦味。海の香りがふわりと抜けていく。そこに酢味噌の甘みと酸味が重なり、驚くほど調和していた。


「……美味しい」


 自然と、言葉がこぼれる。


 店主は静かに頷いた。


「でしょ。ホタルイカはね、丁寧に下処理してやると、格段に美味くなるんだ」


 もう一つ、また一つ。


 気づけば、箸が止まらない。


 さっきまで張りつめていたものが、少しずつほどけていくようだった。


「お酒、いきますか?」


「……あ、じゃあ……日本酒、お願いします」


 普段はあまり飲まない。


 それでも、今は自然とそう口にしていた。


 徳利とお猪口が静かに置かれる。


 透明な液体が、やわらかく揺れる。


 一口、含む。


 ほのかな甘みと旨味が口の中に広がる。それなのに後味は驚くほど軽く、気づけば杯が空になっている。


 もう一度、ホタルイカを口に運ぶ。


「……あ」


 先ほどとは違う。


 日本酒と合わさることで、旨味がさらに深くなる。苦味さえも、心地よい余韻に変わっていく。


「……こんなに、美味しいんだ」


 思わず、呟いた。


 店主は何も言わず、ただ穏やかに頷くだけだった。


 外では、また雨音がわずかに強くなっていた。


 けれど、もう気にならない。


 温かい灯りの中で、小さな皿と一杯の酒を前に、深月はゆっくりと息を吐く。


「……なんか、温かいですね。ここ」


「食べることはね、そういうもんだよ」


 静かな言葉だった。


 けれど、その夜の深月には、それで十分だった。


 仕事の疲れも、理不尽も、なくなったわけではない。


 明日になれば、また同じ日常が続いていく。


 それでも。


 こうして、新しい美味しさを知って、一杯の酒で心をほどく時間がある。


 それだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。


 お猪口を、そっと傾ける。


「……また来てもいいですか?」


「いつでもどうぞ」


 あまりにも自然な返事だった。


 深月は、ふっと微笑む。

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