雨上がりの夜、ホタルイカと一杯 ――決算帰りに見つけた、小さな店
雨上がりの夜だった。
アスファルトに残る水たまりが、街灯の光をぼんやりと滲ませている。仕事帰りの人影はまばらで、ビルの明かりも一つ、また一つと消えていく時間帯だった。
高梨深月は、ようやく会社の自動ドアをくぐり抜けた。
「……はぁ」
吐いた息は、思った以上に重い。
決算はまだ終わらない。担当は自分一人だ。
何度も修正した資料、返ってこない確認、積み上がるタスク。区切りのないまま時間だけが過ぎ、気づけば時計は二十一時を回っていた。夕食も、まだだ。
「コンビニでいいかな……」
小さく呟き、歩き出そうとしたそのときだった。
ぽつり、と頬に冷たいものが当たる。
小雨だった。
気づけば、空はまた雲に覆われている。濡れるほどではないが、じわりと体温を奪っていくような雨だった。
小雨に打たれて、体の芯がじわりと冷えていく。
ふと顔を上げると、路地の奥に灯りが見えた。
暖簾のかかった、小さな店だった。
木の引き戸に、手書きの看板。
――「季節の肴と地酒」
「……こんなとこに、あったんだ」
見覚えはない。
普段なら通り過ぎているはずの場所だった。
それなのに、その灯りはどこかやわらかく、静かにこちらを呼んでいるように見えた。
気づけば、引き戸に手をかけていた。
からり、と軽い音がする。
「いらっしゃい」
店内はカウンターだけの、小さな空間だった。
木の香りと、出汁の匂いが混ざり合っている。年配の店主が、穏やかな目でこちらを見た。
「おひとりさん?」
「……はい」
促されるまま、カウンターの端に座る。少しだけ背筋が伸びる。
「お疲れみたいだね」
「え、あ……まあ」
見透かされたようで、少しだけ気恥ずかしい。
「何か軽く食べますか? 今日はいいホタルイカが入ってるよ」
「ホタルイカ……?」
名前は知っている。スーパーで見かけたこともある。
だが、正直なところ。
「……あまり食べたことなくて」
どう食べるものなのか、よく分からなかった。
店主は少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「それはもったいない。じゃあ、うちで一番美味しい食べ方を出そうか」
深月は、戸惑いながらも頷いた。
しばらくして、小さな皿が目の前に置かれる。
艶のある小さなイカが、整然と並んでいる。酢味噌が添えられ、刻んだネギが彩りを添えていた。
「酢味噌和え。まずはそのまま一つ、どうぞ」
箸で一つつまむ。
小さな体を、そっと口に運ぶ。
ぷちり、と小さく弾けて、内側から濃い旨味が滲み出る。
「……え」
思わず、声が漏れた。
濃厚な旨味と、ほのかな苦味。海の香りがふわりと抜けていく。そこに酢味噌の甘みと酸味が重なり、驚くほど調和していた。
「……美味しい」
自然と、言葉がこぼれる。
店主は静かに頷いた。
「でしょ。ホタルイカはね、丁寧に下処理してやると、格段に美味くなるんだ」
もう一つ、また一つ。
気づけば、箸が止まらない。
さっきまで張りつめていたものが、少しずつほどけていくようだった。
「お酒、いきますか?」
「……あ、じゃあ……日本酒、お願いします」
普段はあまり飲まない。
それでも、今は自然とそう口にしていた。
徳利とお猪口が静かに置かれる。
透明な液体が、やわらかく揺れる。
一口、含む。
ほのかな甘みと旨味が口の中に広がる。それなのに後味は驚くほど軽く、気づけば杯が空になっている。
もう一度、ホタルイカを口に運ぶ。
「……あ」
先ほどとは違う。
日本酒と合わさることで、旨味がさらに深くなる。苦味さえも、心地よい余韻に変わっていく。
「……こんなに、美味しいんだ」
思わず、呟いた。
店主は何も言わず、ただ穏やかに頷くだけだった。
外では、また雨音がわずかに強くなっていた。
けれど、もう気にならない。
温かい灯りの中で、小さな皿と一杯の酒を前に、深月はゆっくりと息を吐く。
「……なんか、温かいですね。ここ」
「食べることはね、そういうもんだよ」
静かな言葉だった。
けれど、その夜の深月には、それで十分だった。
仕事の疲れも、理不尽も、なくなったわけではない。
明日になれば、また同じ日常が続いていく。
それでも。
こうして、新しい美味しさを知って、一杯の酒で心をほどく時間がある。
それだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。
お猪口を、そっと傾ける。
「……また来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ」
あまりにも自然な返事だった。
深月は、ふっと微笑む。




