彼女を守り抜いて(真鍋柾樹 視点)
俺、真鍋柾樹が楔野遥と出会ったのは、一年生の夏だった。共通の友人が主催した夏祭りで、偶然同じグループになった。遥の第一印象は「優しい人」だった。誰に対しても丁寧で、気配りができて、笑顔が素敵な女の子。その夜、俺たちは花火を見ながら色々な話をした。好きな音楽、好きな本、将来の夢。話せば話すほど、遥に惹かれていった。
夏祭りの後、俺たちは何度か遊ぶようになった。映画を見に行ったり、カフェで勉強したり。遥と一緒にいると、時間があっという間に過ぎた。八月の終わり、俺は遥に告白した。駅前の公園で、夕暮れ時。緊張で手が震えていたのを覚えている。
「楔野さん、俺と付き合ってください」
遥は少し驚いた顔をして、それから笑顔で答えてくれた。
「はい、よろしくお願いします」
その瞬間、俺の人生が変わった。遥という大切な人ができた。二学期が始まってから、俺たちは学校でもカップルとして過ごすようになった。といっても、派手にイチャイチャするわけではない。休み時間に話をしたり、一緒に昼食を食べたり。放課後は一緒に帰る。ごく普通の高校生カップル。お互いの両親にも紹介して、両親公認の関係になった。遥の両親は優しい人たちで、俺を温かく迎えてくれた。俺の両親も、遥のことを気に入ってくれた。全てが順調だった。あの男が現れるまでは。
二年生になって、遥と俺は別々のクラスになった。少し寂しかったけど、休み時間や放課後は一緒に過ごせるから大丈夫だと思っていた。でも、五月頃から、遥の様子が少しおかしくなった。
「柾樹くん、実は相談があるんだけど」
「どうしたの?」
「クラスの蒼井くんっているでしょ。あの人、最近よく話しかけてくるんだけど、どう断ったらいいかな」
蒼井刻。遥と同じクラスの男子。俺も顔は知っていた。目立たないタイプで、特に印象はなかった。
「断るって、何を?」
「映画に誘われたの。でも、私、あなたと付き合ってるし」
「じゃあ、はっきり断れば? 彼氏いるって言えばいいじゃん」
「うん、そうするね」
でもその後も、蒼井くんは遥に話しかけ続けた。遥から相談を受けるたびに、俺は不安になった。この男、遥の彼氏が俺だと知っているはずなのに、なぜしつこく話しかけるんだ。六月のある日、俺は遥のクラスに様子を見に行った。休み時間、遥の席の近くに蒼井くんがいた。遥は明らかに困った顔をしている。でも蒼井くんは、それに気づいていないようだった。むしろ、楽しそうに話しかけている。俺は遥のところに行った。
「遥、ちょっといい?」
遥が俺を見て、安堵した表情を見せた。蒼井くんは俺を見て、一瞬、嫌そうな顔をした。でもすぐに笑顔に戻って、その場を離れた。
「大丈夫? 困ってたみたいだけど」
「うん、ありがとう。助かった」
その日から、俺はできるだけ遥と一緒にいるようにした。昼休みは遥のクラスに行って一緒に食事をする。放課後は教室まで迎えに行く。蒼井くんが近づいてこないように。でも、それでも蒼井くんは諦めなかった。七月のある日、遥が泣きそうな顔で俺のところに来た。
「柾樹くん、蒼井くん、昨日、昇降口で待ち伏せしてたの」
「待ち伏せ? それ、完全にアウトだよ」
「怖かった。でも、あなたが一緒にいてくれたから、何もされなかったけど」
俺は決めた。蒼井くんと直接話をする。遥を守るために。次の日、俺は蒼井くんを見つけて声をかけた。
「蒼井くん、ちょっといい?」
「真鍋くん? 何?」
「楔野さんのこと、困らせないでくれないかな」
蒼井くんは不思議そうな顔をした。
「困らせてる? 俺は、ただ話しかけてるだけだけど」
「楔野さん、困ってるみたいだよ。俺たち付き合ってるし、あまりしつこくしないでほしい」
「付き合ってる? 遥と?」
蒼井くんの声が少し大きくなった。
「そうだよ。去年の夏から」
「嘘だ。遥は俺の彼女だ」
その言葉に、俺は凍りついた。何を言っているんだ、この男は。
「蒼井くん、楔野さんは俺の彼女だよ。お互いの両親も知ってる」
「それは、君が横から入ってきたんだろ。遥は俺が先に出会ったんだ」
「何を言って」
「もういい。邪魔しないで」
蒼井くんはそう言って、その場を去った。俺は呆然とした。あの男、完全におかしい。遥を自分の彼女だと思い込んでいる。遥と付き合ったことなんて一度もないのに。俺はすぐに遥に連絡した。
「遥、蒼井くんと話したんだけど、あの人、君のこと自分の彼女だと思い込んでる」
「えっ、そんな、私、付き合った覚えなんて」
「分かってる。でも、あの人は本気でそう思ってる。これ、ちょっと危険だよ。先生に相談した方がいい」
「でも、まだ大丈夫だと思う」
「遥、無理しないで。怖かったらすぐに言って。俺が守るから」
「ありがとう、柾樹くん」
でも、状況は悪化していった。夏休みに入っても、遥から連絡が来た。「蒼井くんを見かけた」「尾行されてる気がする」。俺は何度も遥と一緒にいるようにした。デートの時も、常に周りを警戒した。蒼井くんが遠くから見ているような気がした。実際、何度か見かけた。カフェの外から、公園の遠くから。遥を見ている蒼井くん。俺はその度に、遥を守るように寄り添った。
「柾樹くん、あの人、また見てる」
「大丈夫、俺がいるから」
でも、心の中では不安でいっぱいだった。この男、いつか暴走するんじゃないか。遥に危害を加えるんじゃないか。俺は遥を守れるだろうか。八月のある日、公園のベンチで遥と話していると、遠くに蒼井くんの姿が見えた。こちらを見ている。スマホを構えている。写真を撮られている。俺は立ち上がろうとしたが、遥が止めた。
「柾樹くん、やめて。刺激したら、もっと酷くなるかもしれない」
「でも」
「お願い。先生に相談する。だから、今は我慢して」
遥の言葉に従った。でも、その日の夜、俺は眠れなかった。遥を守れない自分が情けなかった。夏休みが終わり、二学期が始まった。俺は諸岡先生に相談することを決めた。遥一人では言い出せないなら、俺が言う。でも、その前に事態は急変した。匿名掲示板に、俺と遥のことが書かれた投稿があるという。生徒たちの間で噂になっていた。俺はその投稿を見た。「二股女」「間男」。そして、俺と遥の行動パターンが詳しく書かれている。これは、蒼井くんだ。間違いない。
遥に連絡すると、遥は泣いていた。
「柾樹くん、どうして、こんなこと書かれなきゃいけないの。私たち、何も悪いことしてないのに」
「大丈夫、これで学校も動いてくれる。先生に全部話そう」
翌日、学校の投書箱にも同様の内容が入っていたらしい。そして俺と遥、そして蒼井くんが職員室に呼ばれた。諸岡先生と学年主任、生徒指導の先生。三人の先生が深刻な顔で俺たちを見ていた。俺は冷静に、全てを話した。去年の夏に遥と出会ったこと。八月に告白して、付き合い始めたこと。両親公認の関係であること。そして、蒼井くんが遥にストーカー行為をしていたこと。先生たちは頷きながら聞いていた。遥も、涙ながらに証言した。蒼井くんから受けた行為の全て。
蒼井くんは反論した。「遥は俺の彼女だ」「真鍋が横から入ってきた」。でも、証拠は何もなかった。俺と遥には、証拠があった。デートの写真、LINEのやり取り、両親との食事の写真。全て、俺たちが正式なカップルであることを証明するもの。そして、氷室さんが記録していた、蒼井くんの行動記録。それを見た先生たちは、蒼井くんに厳しい目を向けた。
「蒼井くん、君がしていたことは、ストーカー行為です」
諸岡先生の言葉。蒼井くんの顔色が変わった。その後、蒼井くんの母親が呼ばれた。母親は最初、息子を擁護しようとしたが、証拠を見せられると、泣き崩れた。俺は複雑な気持ちだった。蒼井くんを追い詰めたくはなかった。でも、遥を守るためには仕方がなかった。
その後、蒼井くんは停学になった。俺と遥の両親は、民事訴訟を起こすことを決めた。名誉毀損と精神的苦痛に対する損害賠償。俺の両親は言った。
「柾樹、お前たちは何も悪くない。むしろ被害者だ。ちゃんと法的措置を取る」
正直、訴訟まで起こすのは気が重かった。でも、これは必要なことだと思った。蒼井くんに、自分がしたことの重大さを理解してもらうために。二週間後、蒼井くんが復学した。でもクラスは変更されていた。遥と同じ空間にはいない。廊下で時々すれ違うことはあったが、蒼井くんは俺たちを見ると、目を逸らした。以前のような確信に満ちた目ではなく、ただ虚ろな目だった。俺は少しだけ、彼を哀れに思った。でも、それ以上に、遥を守れたことに安堵した。
十一月、裁判所で和解が成立した。八十万円の和解金、謝罪文、接触禁止の誓約。和解の席で、俺は蒼井くんの母親と顔を合わせた。母親は深く頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした」
俺も遥も、頭を下げた。
「こちらこそ、訴訟を起こして申し訳ありません」
遥は優しすぎる。あれだけのことをされたのに、相手を気遣っている。でも、それが遥のいいところだ。俺は遥の手を握った。遥が俺を見て、小さく笑った。大丈夫。もう、大丈夫だ。十二月、蒼井くんが転校するという噂を聞いた。遥に伝えると、遥は複雑な表情をした。
「転校するんだ」
「うん。もう、この学校にはいられないだろうね」
「あの人、新しい学校で、ちゃんとやっていけるかな」
「遥、優しすぎるよ」
「でも、あの人も苦しんでたんだと思う」
俺は遥を抱きしめた。
「遥、君は本当に優しい。でも、自分を責めないで。君は何も悪くないから」
「うん、分かってる。ありがとう、柾樹くん」
一月、蒼井くんは転校した。その日から、遥の表情が明るくなった。もう、周りを警戒しなくていい。廊下を歩くとき、ビクビクしなくていい。本来の遥が戻ってきた。俺は嬉しかった。やっと、普通の高校生活が送れる。三月、卒業式の日。俺と遥は晴れやかな気持ちで式に臨んだ。式が終わった後、二人で写真を撮った。遥の笑顔が、本当に幸せそうだった。
「柾樹くん、ありがとう。ずっと守ってくれて」
「当たり前だよ。俺、遥の彼氏だから」
「これからも、よろしくね」
「ああ、これからもずっと一緒だよ」
その写真をSNSに投稿すると、たくさんの祝福コメントが届いた。氷室さんもコメントしてくれた。「二人とも幸せにね」。諸岡先生からもメッセージが来た。「二人の未来が明るいものでありますように」。みんなが、俺たちを応援してくれている。あの事件を知っている人たちが、俺たちの幸せを願ってくれている。
卒業後、俺と遥は別々の大学に進学した。遠距離恋愛になったけれど、毎日連絡を取り合った。週末は会える限り会った。遠距離は寂しかったけど、それ以上に、遥を大切にしたいという気持ちが強かった。あの事件を乗り越えたことで、俺たちの絆は強くなった。何があっても、お互いを信じ合える。そういう関係になれた。
大学二年生の夏、俺は遥にプロポーズした。まだ学生だったけど、将来を約束したかった。遥と一緒に生きていきたかった。
「遥、卒業したら、俺と結婚してください」
遥は涙を流して、笑顔で答えてくれた。
「はい、よろしくお願いします」
その瞬間、俺は思った。あの事件があったからこそ、俺たちはここまで強くなれた。遥を守り抜くという決意が、俺を成長させた。そして今、俺たちは未来に向かって歩いている。お互いの両親にも報告した。両親は喜んでくれた。まだ正式な婚約ではないけれど、将来結婚するという約束。それだけで、俺は幸せだった。
大学三年生の秋、遥が言った。
「柾樹くん、あのね、時々思うの。蒼井くん、今どうしてるかなって」
「気になる?」
「うん、ちょっと。ちゃんと更生できてるといいなって」
遥は本当に優しい。あれだけのことをされたのに、相手の幸せを願っている。俺も言った。
「俺も、時々考えるよ。蒼井くんが、ちゃんと前を向けてるといいなって」
「でも、もう会うことはないよね」
「ああ、もう会うことはない。俺たちは俺たちの人生を生きていく」
遥が俺の手を握った。
「うん、これからも、一緒にね」
大学四年生の春、俺と遥は就職活動を始めた。二人とも同じ地域で就職先を探した。遠距離はもう終わりにしたかった。卒業したら、同じ街で暮らしたい。そして結婚したい。俺は遥との未来を具体的に描き始めていた。あの事件から数年。俺たちはあの暗い日々を乗り越えて、明るい未来に向かっている。蒼井刻という男が俺たちの人生に現れたこと。それは不幸な出来事だった。でも同時に、俺たちの絆を強くしてくれた出来事でもあった。遥を守るという経験が、俺を大人にした。そして、お互いを信じ合うことの大切さを教えてくれた。
今、俺は幸せだ。遥という最愛の人がいる。支えてくれる両親がいる。氷室さんや諸岡先生のような、応援してくれる人たちがいる。あの事件で失ったものもあるけれど、得たものの方がはるかに大きい。これから俺と遥は、結婚して、家庭を築いていく。子供が生まれたら、愛情を持って育てたい。そして、人を大切にすることの意味を教えたい。相手の気持ちを尊重することの大切さを。
時々、思う。もし蒼井くんが、相手の気持ちを考えることができていたら。自分の思い込みではなく、現実を見ることができていたら。あの悲劇は起きなかった。彼も、もっと違う人生を歩めたかもしれない。でも、過去は変えられない。俺たちにできるのは、前を向いて歩いていくことだけ。
ある日、遥が言った。
「柾樹くん、私たちの子供ができたら、ちゃんと他人の気持ちを考えられる子に育てたいね」
「ああ、そうだな。自分の思い込みだけで生きるんじゃなくて、相手の立場に立って考えられる子に」
「うん。それが、私たちがあの事件から学んだことだから」
遥の言葉に、俺は深く頷いた。あの事件は、俺たちに大切なことを教えてくれた。人を愛するということ。人を守るということ。そして、相手を尊重するということ。これから俺たちは、その教訓を胸に、人生を歩んでいく。遥と一緒に。ずっと一緒に。
卒業式の日、遥が俺に言った。
「柾樹くん、来年の春、結婚式を挙げよう」
「ああ、そうしよう。ずっと待ってた言葉だ」
遥が笑った。俺も笑った。二人の未来は、明るい。あの暗い日々を乗り越えて、俺たちは幸せを掴んだ。これからも、ずっと一緒に。何があっても、お互いを信じ合って。それが、俺と遥の約束。そして、俺が遥を守り抜くという誓い。
あの事件から数年。蒼井刻という名前を思い出すことは、ほとんどなくなった。でも、完全に忘れたわけではない。あれは、俺たちの人生の一部だから。辛い思い出だけれど、同時に、俺たちを強くしてくれた出来事。だから、俺は時々思う。蒼井くん、あなたも幸せになってほしい。自分の過ちを理解して、前を向いて生きてほしい。それが、俺と遥の願い。被害者である俺たちの、ささやかな願い。
そして、俺たちは歩き続ける。明るい未来に向かって。遥と手を繋いで。ずっと、ずっと一緒に。




