親友を守るために(氷室詩 視点)
私、氷室詩が楔野遥と親友になったのは、中学一年生の時だった。同じクラスになって、席が隣同士で、何となく話すようになった。遥は優しくて、誰にでも丁寧に接する子だった。でも、その優しさが時々、遥自身を苦しめることがあった。断れない性格というか、相手を傷つけたくないという気持ちが強すぎるというか。だから私は、遥の代わりに嫌な役を買って出ることが多かった。遥が断りづらいことを、私が代わりに断る。そういう関係だった。
高校に入学して、私たちは別のクラスになった。でも親友であることに変わりはなかった。毎日一緒に昼食を食べて、放課後は一緒に帰った。遥が真鍋柾樹くんと付き合い始めたのは、一年生の夏だった。真鍋くんは遥と同じクラスの男子で、穏やかで優しい人だった。二人が付き合うことになったと聞いたとき、私は心から祝福した。遥にはこういう人が合っている。お互いを尊重し合える、健全な関係。見ているだけで微笑ましかった。
問題が始まったのは、二年生になってからだった。ある日、遥が少し困った顔で私に言った。
「詩、ちょっと相談があるんだけど」
「どうしたの?」
「クラスの蒼井くんっているじゃん。あの人、最近よく話しかけてくるんだけど、どう断ったらいいかな」
蒼井刻。遥と同じクラスの男子。私も顔は知っていた。目立たないタイプで、特に印象はなかった。
「断るって、何を?」
「映画に誘われたの。でも、私、柾樹くんと付き合ってるし。それに、蒼井くんとはそういう関係じゃないし」
「じゃあ、はっきり断れば? 彼氏いるって言えばいいじゃん」
「それが、何回か遠回しに断ったんだけど、伝わってないみたいで」
遥の表情を見て、私は少し心配になった。遥は本当に困っている。ただの優しさで対応していたら、相手が勘違いしているのかもしれない。
「遥、はっきり言った方がいいよ。あなたの優しさを、好意と勘違いされてるかもしれない」
「うん、そうだよね。今度ははっきり断ってみる」
でも、その後も蒼井くんは遥に話しかけ続けた。遥は困惑していた。五月の終わり、遥からまた相談を受けた。
「蒼井くん、私が荷物持ってるとき、勝手に持とうとするの。断っても、『いいから』って言って持っていっちゃう。どうしたらいいかな」
「それ、完全に迷惑行為だよ。先生に相談した方がいいんじゃない?」
「でも、まだ大したことじゃないし。先生に言うほどでもないかなって」
遥らしい反応だった。相手を悪者にしたくない。大事にしたくない。でも、私は不安を感じ始めていた。この蒼井刻という男子、ちょっとおかしいのではないか。
六月に入ってから、遥の様子が明らかにおかしくなった。学校で会うと、疲れた顔をしている。昼食の時、遥が小さくため息をついた。
「詩、蒼井くん、最近ずっと私の周りにいるの。休み時間も、放課後も。話しかけても短く返事してるのに、全然伝わらない」
「それ、もう先生に言った方がいいよ。ストーカーじゃん」
「ストーカーって、そこまでじゃ」
「遥、自分を守らなきゃダメだよ。柾樹くんには相談した?」
「うん、してる。柾樹くんも心配してくれて、一度蒼井くんに遠回しに言ってくれたんだけど、効果なくて」
私は決めた。遥が自分で動けないなら、私が動く。その日から、私は蒼井刻の行動を記録し始めた。いつ、どこで、遥にどんなことをしたのか。全部メモに残した。遥から聞いた話も、日時と一緒に記録した。もし将来、何か問題が起きたとき、証拠として使えるように。
七月のある日、遥が泣きそうな顔で私のところに来た。
「詩、蒼井くん、昨日、昇降口で待ち伏せしてたの。帰ろうとしたら、いきなり出てきて」
「それで?」
「柾樹くんと一緒にいたから、何もされなかったけど。でも、怖かった。なんで待ち伏せなんてするの」
私は遥を抱きしめた。遥は震えていた。これはもう、放っておける状況じゃない。
「遥、絶対に先生に言おう。これは明らかに異常だよ」
「でも、証拠がないし」
「私が記録してる。遥が相談してきたこと、全部書き留めてる。それに、柾樹くんも証人になってくれるでしょ?」
「うん、でも、まだ大丈夫。なんとか避けられてるから」
遥はまだ、事を荒立てたくないと思っていた。でも私は、もう時間の問題だと感じていた。蒼井刻の行動は、どんどんエスカレートしている。遥が断れば断るほど、彼は執着を強めているように見えた。
夏休みに入っても、問題は解決しなかった。遥からLINEが来た。「蒼井くん、駅で見かけた。こっちに気づいてないと思うけど、なんか怖い」。その後も、何度か似たようなメッセージが来た。「図書館にいたら蒼井くんもいた」「カフェにいたら蒼井くんが外から見てた気がする」。偶然にしては、多すぎる。
「遥、それ尾行されてるよ。絶対に」
「そんな、まさか」
「警察に相談した方がいいよ。ストーカー規制法ってあるでしょ」
「でも、まだ何もされてないし」
「何かされてからじゃ遅いんだよ!」
私は声を荒げてしまった。遥は驚いた顔をした。でも、私は本気で心配していた。このままでは、遥が本当に危険な目に遭うかもしれない。私は真鍋くんにも連絡を取った。真鍋くんも心配していた。「できるだけ遥と一緒にいるようにします。蒼井くんにも、もう一度はっきり言ってみます」。でも、真鍋くんが蒼井くんに「遥さん、困ってるみたいだよ」と言っても、効果はなかった。蒼井くんは「大丈夫です」と笑顔で答えたらしい。完全に現実が見えていない。
八月の終わり、遥から深刻なメッセージが来た。「詩、助けて。蒼井くん、今日公園で私と柾樹くんを見てた。遠くから、でもずっと見てた。写真撮ってたかもしれない」。私はすぐに遥に電話した。
「もう限界だよ。二学期が始まったら、すぐに先生に言おう。私も一緒に行くから」
「うん、分かった。もう、私も怖くて」
遥がやっと、先生に相談することを決意してくれた。でも、その前に事態は急変した。九月の最初の週、学校中が騒然となった。匿名掲示板に、遥と真鍋くんのことが書かれた投稿があったらしい。「二股女」「間男」という言葉が使われていた。私はすぐに遥に連絡した。遥は泣いていた。「なんで、こんなこと書かれるの。私、何もしてないのに」。私は確信した。これは蒼井刻の仕業だ。
翌日、学校の投書箱にも同様の内容の手紙が入っていたらしい。先生たちが動いた。遥と真鍋くん、そして蒼井刻が職員室に呼ばれた。私は廊下で待っていた。遥を一人にしたくなかった。一時間後、遥が出てきた。目が赤かった。泣いていたんだ。私は遥を抱きしめた。
「大丈夫? 何があったの?」
「先生たちが、全部聞いてくれた。蒼井くん、私のこと、彼女だと思い込んでたって。一度も付き合ったことないのに」
遥の声は震えていた。
「私、怖かった。蒼井くんの目、本気だったの。本当に信じ込んでたの。私が彼女だって」
「もう大丈夫だよ。先生たちが対応してくれるから」
でも、それで終わりではなかった。私は先生に呼ばれて、これまで記録してきたメモを提出した。遥からの相談内容、日時、蒼井くんの行動パターン。全て。先生は真剣な顔で読んでいた。
「氷室さん、よく記録してくれました。これは重要な証拠になります」
「遥を守りたかったんです。あの人、おかしいって、最初から思ってました」
「蒼井くんの行動は、ストーカー規制法に抵触する可能性があります。楔野さんと真鍋くんのご両親にも連絡して、今後の対応を相談します」
その後、蒼井刻は停学になった。遥と真鍋くんの保護者は、民事訴訟を起こすことを決めた。名誉毀損と精神的苦痛に対する損害賠償。当然だと思った。遥がどれだけ怖い思いをしたか。どれだけ悩んで、苦しんだか。蒼井刻は、その責任を取らなければならない。
停学期間中、学校では蒼井刻の噂で持ちきりだった。「あいつ、ストーカーだったんだって」「マジでキモい」「楔野さん、可哀想」。私は複雑な気持ちだった。蒼井刻がしたことは許されない。でも、こうやって晒し者にされるのも、どこか痛々しい。遥に聞いた。
「遥、蒼井くんのこと、どう思う?」
「分からない。怖かったけど、可哀想でもある。あの人、本気で信じ込んでたんだよね。私が彼女だって」
「病気なのかもね」
「うん、多分。先生も、認知の歪みがあるかもって言ってた」
遥は優しい。あれだけ怖い思いをしたのに、相手を完全に悪者にはできない。それが遥のいいところであり、弱点でもある。私は言った。
「でも、遥は悪くないからね。あなたは何も間違ってない。普通に接してただけ。それを勝手に解釈した蒼井くんが悪いんだから」
「うん、分かってる。でも、もっと早く、はっきり断ればよかったかなって」
「そんなことない。あなたは何度も断ってた。相手が理解しなかっただけ」
二週間後、蒼井刻が復学した。でもクラスは変更されていた。遥と同じクラスではなくなった。遥は安心していた。「もう、廊下で顔を合わせることもほとんどないと思う」。でも、完全に安心はできなかった。蒼井刻が、また遥に近づいてこないとは限らない。私は遥に言った。
「もし、また何かあったら、すぐに言ってね。私がなんとかするから」
「ありがとう、詩。あなたがいてくれて、本当に助かった」
十一月、裁判所で和解が成立したと聞いた。蒼井刻側が八十万円を支払い、正式に謝罪し、二度と接触しないことを誓約したという。遥は少しだけ肩の荷が下りたようだった。
「やっと終わった」
「うん、終わったね」
「柾樹くんも、ずっと守ってくれて。あなたも、ずっと支えてくれて。二人には感謝してもしきれない」
遥が笑顔を見せた。久しぶりに見る、本当の笑顔。私も笑顔になった。でも心の中では、まだ警戒していた。蒼井刻は本当に変わったのか。もう二度と、遥に近づいてこないのか。
十二月、蒼井刻が転校するという噂を聞いた。隣県の通信制高校に行くらしい。遥に伝えると、遥は複雑な表情をした。
「転校するんだ」
「うん。もう、この学校にはいられないでしょ」
「そうだね。でも、向こうの学校で、ちゃんとやっていけるのかな」
「遥、あなたは優しすぎるよ。あれだけのことをされたのに、相手の心配をするなんて」
「だって、あの人も苦しんでると思うから」
遥は本当に優しい。でも、その優しさは、自分自身を守るためには使わない。だから私が守る。それが親友の役目だから。年が明けて一月、蒼井刻は本当に転校した。遥は安心したようだった。廊下を歩くとき、もう周りを警戒しなくていい。休み時間も、リラックスして過ごせる。本来の遥が戻ってきた。
三月、卒業式の日。遥と真鍋くんは、晴れやかな顔で式に臨んだ。二人で写真を撮った。その写真をSNSに投稿すると、たくさんの祝福コメントが届いた。「お似合い」「ずっと幸せに」「二人とも素敵」。私もコメントした。「遥、おめでとう。これからも幸せにね」。遥は返信してくれた。「ありがとう、詩。あなたがいなかったら、私、どうなってたか分からない」。
卒業後、私たちは別々の大学に進学することになった。遥と真鍋くんは遠距離恋愛になるけれど、きっと大丈夫だろう。二人の絆は、あの事件を乗り越えて、さらに強くなった。私は自分の大学生活を楽しみながらも、時々遥のことを心配する。大学で、また同じようなことが起きないかと。でも、遥は強くなった。あの事件を通して、はっきり断ることの大切さを学んだ。そして、何かあったらすぐに相談することも。
ある日、遥から連絡が来た。
「詩、報告。私と柾樹くん、婚約したよ」
私は驚いて、すぐに電話した。
「えっ、まだ大学生なのに!?」
「正式な婚約じゃなくて、将来結婚しようねって約束したの。お互いの両親にも挨拶して」
「すごい! おめでとう!」
「ありがとう。あのね、詩には絶対に伝えたかったの。あなたが守ってくれたから、今の私たちがあるって」
電話越しに、遥の幸せそうな声が聞こえた。私は涙が出そうになった。良かった。本当に良かった。遥は幸せになった。蒼井刻という悪夢を乗り越えて、本当の幸せを掴んだ。私が記録を取り続けたこと、先生に相談するよう説得したこと、全て無駄じゃなかった。
今でも時々、蒼井刻のことを考える。あの人は今、どうしているのか。ちゃんと更生できているのか。また同じことを繰り返していないか。でも、それは私の知るところではない。私が守るべきは、遥だけ。そして遥は、もう大丈夫。強くなった。自分を守れるようになった。
親友を守るために、私がしたことは正しかった。記録を取ること、証拠を残すこと、先生に相談すること。もし、誰かが似たような状況に陥ったら、私は同じことをするだろう。泣き寝入りしてはいけない。我慢してはいけない。自分を、そして大切な人を守るために、行動しなければならない。
今、私は大学で心理学を専攻している。将来は、スクールカウンセラーになりたいと思っている。遥のような被害者を、そして蒼井刻のような加害者を、早期に発見してサポートしたい。ストーカーや認知の歪みは、早期発見、早期介入が大切だと学んだ。放っておけば、被害者も加害者も、もっと深く傷つく。
遥との出来事は、私の人生を変えた。親友を守るために必死だった日々。先生に提出した記録ノート。裁判の証人として話した内容。全てが、今の私を形作っている。そして、これからの私の進む道を示してくれた。
遥、ありがとう。あなたを守ることで、私も強くなれた。あなたの幸せが、私の幸せ。これからもずっと、親友でいようね。




