第二話 真実が暴かれた教室で、俺だけが世界から孤立していく
水曜日の朝、学校に着くと雰囲気がおかしかった。クラスメイトたちがひそひそと話している。俺を見る目が、何か探るようだ。でも気にしない。もうすぐ真実が明らかになる。そうすれば皆、俺が被害者だったことを理解するはずだ。
一時間目が終わった休み時間、諸岡先生が教室に入ってきた。
「蒼井、楔野、真鍋、ちょっと職員室に来なさい」
俺の心臓が跳ねた。来た。ついに来た。先生が投書を読んだんだ。これから事実確認が始まる。俺は証拠を全部持っている。遥と柾樹の不適切な関係が明るみに出る。職員室に入ると、諸岡先生の他に学年主任の男性教師と、生徒指導の教師がいた。三人の教師が深刻な表情で俺たちを見ている。遥は不安そうな顔をしている。柾樹は冷静だけど、どこか緊張している様子だ。
「座りなさい」
諸岡先生が促した。俺たち三人は並んで椅子に座った。
「今日、投書箱にこんな手紙が入っていました」
先生が封筒を取り出した。俺が入れた手紙だ。
「楔野さんと真鍋くんが不適切な交際をしている、という内容です。しかも、蒼井くんが被害者だと書かれている。これについて、一人ずつ話を聞きます」
先生は遥を見た。
「楔野さん、真鍋くんとはどういう関係ですか」
遥は少し躊躇してから答えた。
「真鍋くんは、私の彼氏です。去年の夏から、正式に付き合っています」
その言葉に俺の頭が真っ白になった。彼氏? 去年の夏から? 何を言っているんだ。遥の彼氏は俺だ。俺が彼女で、遥が彼氏だ。いや、違う、俺が彼氏で遥が彼女だ。そうだ、そうに決まっている。
「待ってください」
俺は思わず口を挟んだ。
「遥は俺の彼女です。それなのに柾樹が横から入ってきたんです」
諸岡先生が俺を見た。その目は、俺が期待していた同情ではなく、困惑の色を浮かべていた。
「蒼井くん、楔野さんとはいつから付き合っているんですか」
「去年の春からです。入学式の日に出会って、それから」
「楔野さん」
先生が遥に向き直った。
「蒼井くんと付き合っていますか? 付き合っていたことはありますか?」
遥は首を横に振った。
「ありません。蒼井くんとは、クラスメイト以上の関係になったことは一度もありません」
嘘だ。そんなはずがない。俺たちは特別な関係だった。運命の出会いをして、何度も話をして、LINEもやり取りして。
「でも、俺は何度もメッセージを送って、遥も返信してくれて」
「蒼井くん」
学年主任が口を開いた。
「具体的に、楔野さんから好意を示されたことはありますか。告白されたとか、デートに誘われたとか」
「それは……直接的には……でも、態度で分かります。俺のことを見てくれていました」
「楔野さん、蒼井くんに好意を持っていましたか」
遥はまた首を横に振った。今度は、申し訳なさそうな表情で。
「持っていません。蒼井くんは、クラスメイトとして普通に接していただけです」
「嘘だ!」
俺は立ち上がった。
「何度も話しかけて、俺が荷物を持ってあげて、遥は『ありがとう』って言ってくれた! 映画に誘ったときも『また今度』って言ってくれた!」
「蒼井くん、座りなさい」
生徒指導の教師が厳しい声で言った。俺は従うしかなかった。
「楔野さん、蒼井くんから荷物を持つと言われたとき、頼みましたか」
「いえ、頼んでいません。勝手に持たれて、断りづらくて」
「映画の誘いは?」
「お断りしました。『予定がある』『また今度』と言ったのは、やんわり断るつもりで」
違う。そんなはずがない。遥は俺のことを。
「真鍋くん」
先生は柾樹に向き直った。
「君と楔野さんの関係について、詳しく話してください」
柾樹は落ち着いた声で答えた。
「はい。楔野さんとは去年の七月、夏祭りで知り合いました。共通の友人の紹介です。それから何度か遊んで、八月の終わりに告白して、付き合うことになりました。お互いの両親も知っています」
「両親公認?」
「はい。何度か家にも遊びに行っています」
俺の頭の中で、何かが崩れていく音がした。両親公認。去年の八月から。それは俺が遥に話しかけ始める前だ。いや、でも、それは。
「待ってください。それは後付けの嘘です。俺が投書したから、辻褄を合わせるために」
諸岡先生がため息をついた。
「蒼井くん、君が集めたという証拠を見せてもらえますか」
俺はスマホを取り出した。保存してある写真、スクリーンショット、記録ノートの写真。全部見せた。先生たちは一つ一つ確認していく。その間、俺の心臓は激しく打っていた。これで分かるはずだ。俺が正しいと。でも、先生たちの表情は変わらなかった。むしろ、困惑が深まっていくようだった。
「蒼井くん」
学年主任が静かに言った。
「これらの写真、全て公共の場で撮影されたものですね。二人が手を繋いでいる、一緒に歩いている。でもこれは、恋人同士が普通にすることです。楔野さんと真鍋くんが付き合っているなら、何もおかしくない」
「でも、俺の彼女なのに!」
「蒼井くん、君と楔野さんが付き合っていたという証拠はありますか。二人で撮った写真、楔野さんからのメッセージ、何か具体的なものは」
俺はスマホを操作した。遥とのLINEのやり取りを見せる。でも、画面を見た瞬間、俺は愕然とした。俺からのメッセージがずらりと並んでいる。「おはよう」「今日も可愛いね」「一緒に帰ろう」「週末空いてる?」「今何してる?」。でも遥の返信は、ほとんどない。たまに「ありがとう」「予定がある」「忙しい」といった短い返事があるだけ。しかもスタンプすらない。
「これを見てください」
生徒指導の教師が画面を指した。
「君は一日に何通もメッセージを送っているけど、楔野さんはほとんど返信していない。これは、彼女が君との会話を避けていたということではないですか」
「でも、返信してくれたときもあって」
「社交辞令です、蒼井くん」
諸岡先生が優しく、でもはっきりと言った。
「楔野さんは、君を傷つけないように、丁寧に距離を取ろうとしていた。それを君が、好意と勘違いしていた」
違う。そんなはずがない。俺は、俺たちは。
「実は、楔野さんから相談を受けていました」
諸岡先生が続けた。
「蒼井くんが最近、付きまとってくるようになったと。断っているのに、しつこく話しかけてくる。荷物を勝手に持とうとする。席替えのときも、必ず近くに座ろうとする。怖いと言っていました」
怖い? 俺が? 遥を? そんな、俺は遥のために。
「真鍋くんからも相談がありました」
学年主任が言った。
「彼女、楔野さんが、蒼井くんから不快な行動を受けていると。真鍋くんは何度か、それとなく蒼井くんに警告しようとしたそうですが、気づいてもらえなかった」
柾樹が小さく頷いた。
「何度か、蒼井くんに『楔野さん、困ってるみたいだよ』と言ったんですが、聞いてもらえなくて」
俺は柾樹を見た。確かに、そんなことを言われた気がする。でもその時、俺は柾樹が嫉妬しているんだと思った。俺と遥の関係を邪魔しようとしているんだと。
「蒼井くん」
諸岡先生が真剣な顔で言った。
「君がしていたことは、ストーカー行為です。相手が嫌がっているのに、一方的に付きまとう。メッセージを大量に送る。尾行する。これは犯罪になりかねない行為です」
ストーカー? 俺が? 冗談じゃない。俺は遥を愛していただけだ。彼女のために尽くしていただけだ。
「さらに、匿名掲示板への投稿もあります」
生徒指導の教師がタブレットを見せた。俺が投稿した掲示板のスレッドだ。
「これも君ですね。IPアドレスから、君のスマホからの投稿だと特定できました」
「これは、事実を知らせようと」
「事実ではありません」
先生は厳しく言った。
「君の思い込みです。そして、この投稿によって、楔野さんと真鍋くんの名誉が傷つけられた。これは名誉毀損にあたります」
名誉毀損。その言葉が、俺の胸に突き刺さった。
「楔野さんと真鍋くんのご両親は、警察への被害届と、法的措置を検討しています」
警察。法的措置。その言葉に、俺の体が震えた。
「蒼井くん、これは非常に深刻な問題です。学校としても、厳正に対処します。君の保護者にも連絡します」
その後、俺は別室に移された。母親が呼ばれた。母は最初、「うちの子が何をしたっていうんですか!」と先生に食ってかかった。でも、証拠を見せられ、説明を受けるうちに、母の顔は青ざめていった。
「刻、本当なの? 遥ちゃんと付き合ってないの?」
母が信じられないという顔で俺を見た。
「付き合ってはいない、けど」
俺が小さく言うと、母は崩れるように椅子に座った。
「じゃあ、全部、あなたの思い込みだったの?」
思い込み。その言葉が、頭の中で何度も反響した。その日、俺は母と一緒に帰宅した。学校からは「当面、自宅謹慎」と言われた。警察からの連絡を待つこと、遥と柾樹には一切近づかないこと、接触しないことを厳重に命じられた。家に帰ってから、母は何も言わずに自分の部屋に閉じこもった。俺も部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。何が起きたんだ。俺は何を間違えたんだ。遥は俺の彼女だったはずだ。柾樹が間男だったはずだ。俺は被害者だったはずだ。なのにどうして、俺が加害者みたいに扱われているんだ。
スマホに通知が来た。クラスのグループLINEだ。恐る恐る開くと、メッセージが大量に流れている。
「蒼井ってストーカーだったんだ」
「マジで引く」
「遥ちゃん可哀想」
「ずっと怖かったんだって」
「真鍋くんが守ろうとしてたの知ってる?」
「マジで? いい彼氏じゃん」
俺についての噂が、クラス中に広まっていた。いや、クラスだけじゃない。学年中、学校中に広まっているかもしれない。次の通知は、氷室詩からの個人メッセージだった。
「蒼井くん、遥はずっと怖がってた。あなたが話しかけてくるたび、どうやって断ればいいか相談されてた。私、ずっと記録してたんだよ。あなたがいつ、どんなことをしたか。遥の相談内容も全部。それ、証拠として提出するから」
記録。証拠。俺がストーカーをしていたという証拠。でも俺は、ただ遥を愛していただけなのに。
翌日、警察から連絡があった。母が対応して、俺は呼ばれた。警察署に行くことになった。警察署で、俺は事情聴取を受けた。若い男性警官と、女性警官が対応してくれた。でも優しい雰囲気ではなかった。
「蒼井さん、楔野さんに対して、どういう行動を取っていましたか」
俺は全てを話した。話しかけたこと、荷物を持とうとしたこと、LINEを送ったこと、尾行したこと。話しながら、自分でも気づき始めていた。これは、普通の行動じゃない。
「楔野さんから、好意を示されたことはありますか」
「『ありがとう』と言われたことが」
「それだけですか」
「『また今度』とも」
女性警官がため息をついた。
「蒼井さん、それは社交辞令です。好意ではありません」
「でも、俺は」
「あなたがどう思っていたかではなく、相手がどう感じていたかが重要なんです」
警官の言葉が、胸に重く響いた。
「楔野さんは、あなたの行動に恐怖を感じていました。ストーカー規制法という法律があります。あなたの行動は、それに該当する可能性があります」
ストーカー規制法。犯罪。俺が、犯罪者。
「今回は、楔野さんと真鍋さんのご両親が、あなたが未成年であることを考慮して、刑事告訴は見送る方向で検討されています。ただし、民事訴訟については別です。名誉毀損で損害賠償請求をされる可能性があります」
損害賠償。お金を払わなければならない。俺が、いや、母が。
「そして、接近禁止命令を申請される可能性もあります。楔野さんと真鍋さんに、二度と近づかないこと。これを破ったら、今度こそ刑事罰の対象になります」
帰宅後、母は俺を前に座らせた。母の目は泣き腫らしていた。
「刻、精神科に行きましょう。先生がそう勧めてくれたの」
精神科。俺が、おかしいのか。俺の考えが、間違っていたのか。でも俺は、ただ。
「お母さんね、あなたのこと信じたかった。あなたが嘘をつくはずないって。でも先生たちの話を聞いて、証拠を見て、分かったの。あなたは、思い込んでたのよ。遥ちゃんが好きだって気持ちが強すぎて、現実が見えなくなってた」
母の言葉一つ一つが、俺の心に突き刺さった。翌週、俺は母と一緒に精神科クリニックに行った。中年の男性医師が対応してくれた。俺は全ての経緯を話した。医師は黙って聞いていたが、最後にこう言った。
「蒼井さん、あなたは認知の歪みがあります。特に、相手の行動を自分に都合よく解釈してしまう傾向が強い。これは治療が必要です」
認知の歪み。治療。俺は病気なのか。俺の愛は、病気だったのか。学校からは正式な処分が下された。二週間の停学。そしてカウンセリングを受けること。復学後も、遥と柾樹とは別のクラスになること。それが条件だった。さらに、遥と柾樹の保護者からは、弁護士を通じて正式な通知が届いた。民事訴訟の準備を進めているという内容だった。慰謝料として百万円を請求する可能性があるとのことだった。
停学の二週間、俺は家に閉じこもった。学校に行けない。友達もいない。クラスのグループLINEは退会させられた。SNSでも、俺の悪評が広まっていた。「あの学校のストーカー」として、顔写真は晒されていないものの、特徴から俺だと分かる形で拡散されていた。
その間、何度もカウンセリングに通った。カウンセラーは優しかったが、俺に現実を突きつけた。遥とは付き合っていなかったこと。俺の行動がストーカー行為だったこと。相手の気持ちを無視していたこと。全てを、何度も何度も確認された。最初は反発した。でも、証拠を見せられ、第三者の意見を聞かされるうちに、少しずつ、ほんの少しずつ、理解し始めた。俺が間違っていたのだと。
二週間後、俺は学校に復帰した。でもクラスは変更されていた。新しいクラスで、俺は完全に孤立していた。誰も話しかけてこない。休み時間、俺の周りだけ人がいない。昼食も一人。放課後もすぐに帰宅した。廊下で遥や柾樹を見かけることもあったが、目も合わせられなかった。遥は俺を見ると、明らかに怯えた表情を見せた。柾樹は遥を守るように、常に寄り添っていた。ある日、トイレで数人の男子生徒に囲まれた。
「お前、蒼井だろ。ストーカー野郎」
「マジでキモいんだけど」
「楔野さんに何したんだよ」
俺は何も言い返せなかった。彼らの言う通りだと、どこかで理解していたから。
十月になって、正式な民事訴訟の通知が届いた。遥と柾樹の保護者が、それぞれ五十万円、合計百万円の損害賠償を請求してきた。名誉毀損と精神的苦痛に対する賠償だという。母は弁護士を雇わなければならなくなった。弁護士費用だけでも数十万円。さらに裁判で負ければ、百万円を支払わなければならない。母の貯金が、俺のせいで消えていく。弁護士は言った。
「勝ち目はほとんどありません。相手には明確な証拠があります。あなたの行動記録、SNSへの投稿、全てが不利に働きます。和解を勧めます」
和解。つまり、お金を払って許してもらう。俺が、加害者として。
十一月、裁判所で和解交渉が行われた。俺と母、そして弁護士。向こう側には遥と柾樹の両親、そして彼らの弁護士。遥と柾樹本人は来ていなかった。来る必要もないのだろう。俺という存在は、もう彼らの人生に関係ないのだから。
和解金は八十万円で決着した。さらに、正式な謝罪文を書くこと。二度と接触しないことを誓約すること。それが条件だった。母は震える手でサインした。俺も、自分の名前を書いた。帰り道、母は一言も話さなかった。家に着いてから、母は自分の部屋に入った。そして、壁越しに泣き声が聞こえた。俺のせいだ。全部、俺のせいだ。
十二月、学校で三者面談が行われた。俺と母、そして担任と学年主任。
「蒼井くん、正直に言います。このまま、この学校にいるのは難しいでしょう」
学年主任が言った。
「あなたの評判は、もう回復不可能です。他の生徒たちも、あなたを受け入れられない。何より、楔野さんと真鍋くんが、あなたと同じ学校にいることに恐怖を感じています」
「転校を、考えてください」
諸岡先生が優しく言った。
「新しい環境で、やり直すんです。カウンセリングを続けながら、少しずつ、正しい人間関係を築いていく」
転校。逃げるように、この街を出ていく。それが俺の結末。年が明けて一月、俺は隣県の高校に転校することが決まった。通信制の高校だった。生徒との接触が少ない。そういう環境の方が、俺には向いているのかもしれない。
転校前の最後の日、俺は遠くから、遥と柾樹を見た。二人は校門の前で話していた。遥が笑っている。柾樹も笑っている。二人の間には、温かい空気が流れていた。本物の恋人の空気。俺が勝手に妄想していたものとは、まるで違う、本物の関係。
俺は何をしていたんだろう。遥を愛していると思い込んで、実際には彼女を怖がらせていただけだった。彼女の気持ちなんて、一度も考えなかった。自分の感情だけを押し付けて、相手の「嫌だ」というサインを全部無視して。そして、彼女の本当の恋人を「間男」呼ばわりして、二人の幸せな関係を壊そうとした。俺は被害者じゃなかった。加害者だった。ストーカーだった。犯罪者だった。
新しい学校に転校してからも、俺の孤独は続いた。通信制なので生徒との交流は少ないが、それでも完全に孤立していた。カウンセリングは続けている。少しずつ、自分の間違いを理解し始めている。でも、失ったものは戻ってこない。母との関係、学校生活、友人、そして八十万円という大金。全てを失った。
三月のある日、SNSで遥と柾樹の写真を見かけた。二人で卒業式の写真を撮っている。遥は綺麗な着物を着て、柾樹はスーツ姿。二人とも笑顔だった。コメント欄には「お似合い」「ずっと幸せに」という言葉が並んでいた。
俺はその写真を見て、初めて心から思った。良かった、と。遥が幸せそうで、良かった。柾樹という素晴らしい人と一緒にいられて、良かった。俺という存在が、彼らの人生から消えて、良かった。でも同時に、絶望も感じた。俺にはもう、何も残っていない。友達も、居場所も、未来への希望も。ただ、自分の犯した過ちの重さだけが、肩に乗っている。この重さは、一生消えないのだろう。
四月、新学期が始まった。通信制の学校での二年目。俺は相変わらず一人だった。誰とも親しくならないようにしている。また同じ過ちを犯さないために。相手の気持ちを勝手に解釈しないために。距離を取ることを選んだ。カウンセラーは言った。
「蒼井さん、あなたは償いをしている最中です。時間がかかるでしょう。でも、いつかは前を向ける日が来ます」
前を向ける日。それがいつ来るのか、俺には分からない。もしかしたら、一生来ないかもしれない。ある日、母が言った。
「刻、お母さんね、あなたのこと見てなかったのかもしれない。あなたの言うことを鵜呑みにして、本当はどうなのか確かめなかった。お母さんも悪かったの」
母も傷ついている。俺のせいで。そして母も、自分を責めている。でもこれは、俺の責任だ。俺が全部、間違えたんだ。
それから数ヶ月が経った。俺は相変わらず孤独な日々を送っている。学校に行って、勉強して、カウンセリングを受けて、家に帰る。それだけの毎日。友達はいない。恋愛なんて考えられない。ただ、毎日を生きるだけで精一杯。
時々、思い出す。遥の笑顔。柾樹の優しい表情。二人が手を繋いで歩いている姿。あれは、俺が壊そうとしたものだった。でも壊れなかった。二人は強かった。本物の愛は、俺の妄想なんかでは壊れなかった。そして俺は、壊れた。自分で自分を壊した。妄想に囚われて、現実を見失って、大切なもの全てを失った。これが、俺の因果応報。自分で蒔いた種を、自分で刈り取っている。
今でも時々、考える。もし、あの時。入学式の日、消しゴムを拾った時。もし、あれを「ただの親切」として終わらせていたら。もし、遥の社交辞令を、社交辞令として受け止めていたら。もし、相手の気持ちを考えることができていたら。
でも、過去は変えられない。俺は間違えた。そして、その代償を払っている。一生、払い続けるのだろう。遥と柾樹は、今も幸せに付き合っているだろう。きっと、もう俺のことなんて忘れているかもしれない。忘れてくれた方がいい。俺という嫌な記憶は、彼らの人生から消えた方がいい。
俺はこれから、どう生きていけばいいのだろう。カウンセラーは「償いながら、少しずつ前に進む」と言う。でも、前がどこにあるのか、俺には見えない。ただ、暗闇の中を、手探りで歩いているだけ。
これが、俺の物語。俺の彼女だと思い込んでいた女の子と、間男だと決めつけた男の子に、復讐しようとした結果。全てが俺の妄想で、全てが俺の勘違いで、全てが俺の罪だった。そして俺は、全てを失った。
遥と柾樹の幸せを、心から願う。俺が壊そうとしたものが、壊れずに続いていることを。それが、せめてもの、俺にできる唯一のこと。
俺の人生に、ハッピーエンドは来ない。それでいい。それが、俺の受けるべき結末だから。




