第一話 証拠は完璧、俺は被害者、復讐は正義――そう信じていた放課後
俺には彼女がいた。楔野遥。クラスで一番可愛くて、誰もが振り返るような容姿を持ちながら、いつも控えめで優しい。そんな彼女が、俺だけを見てくれる。それは運命だと思っていた。
出会いは去年の春。入学式の日、遥が落とした消しゴムを俺が拾ってあげた。そのとき彼女が見せた笑顔。あれは絶対に特別なものだった。「ありがとう」と言われたあの瞬間、俺の心臓は激しく鼓動して、これは運命の出会いなんだと確信した。その後も文化祭で同じ装飾係になったり、廊下ですれ違うたびに目が合ったり。偶然にしては出来すぎている。遥も俺のことを意識しているに違いない。
二年生になってクラスが同じになったとき、俺はこれが運命の後押しだと思った。だから積極的に話しかけるようにした。朝の挨拶、休み時間の雑談、放課後に教室で会ったときの何気ない会話。遥はいつも「うん」とか「そうだね」とか短く答えてくれる。それが彼女なりの恥ずかしさの表現なんだと理解していた。好きな人の前では饒舌になれない。そういうタイプの子なんだ。
だから俺は遥のために色々やってあげた。荷物が多そうなときは率先して持ってあげる。教室の席替えのときは、できるだけ遥の近くに座れるように友達に頼んで調整する。遥が好きそうな話題を振る。彼女の好きな音楽、好きな食べ物、休日の過ごし方。LINEで何度もメッセージを送った。既読がつくのに返信が来ないことも多かったけど、それは彼女が忙しいからだ。返信を考えすぎて時間がかかっているのかもしれない。俺はそう思って待った。
五月のある日、遥に「今度の日曜日、一緒に映画行かない?」とLINEで誘ってみた。既読はついたけど返信はなかった。次の日、学校で直接聞いてみた。
「遥、昨日のLINE見た?」
「え? あ、うん……」
遥は少し困ったような表情を浮かべた。その表情さえも可愛くて、俺は思わず笑顔になった。
「映画、どう? 新しいアクション映画、評判いいらしいよ」
「ごめん、予定があって……」
「じゃあ来週は? 再来週でもいいよ」
「その、ちょっと……また今度ね」
また今度。その言葉に俺は安心した。今度がある。そう言ってくれたということは、脈があるということだ。遥は俺のことを嫌っていない。ただタイミングが合わないだけ。そう思った。
六月に入ってからも俺は遥との関係を深めようと努力した。彼女が困っているときは必ず助ける。教室で一人でいるときは話しかける。でも最近、遥の反応が少し冷たくなった気がした。話しかけても目を合わせてくれないことが増えた。返事も「うん」だけで会話が続かない。廊下ですれ違っても、彼女は俺を避けるように早足で通り過ぎる。
最初は気のせいだと思った。でもある日、遥の友達の氷室詩が俺を睨んでいるのに気づいた。何か悪いことをしただろうか。俺は遥のために尽くしているだけなのに。もしかして、詩が嫉妬しているのかもしれない。遥と俺が仲良くなることを邪魔しようとしているのかもしれない。
そんな疑念が頭をよぎり始めた七月のある日。放課後、俺は遥を待っていた。最近彼女は俺が声をかける前に帰ってしまうことが多かったから、昇降口で待つことにした。そうすれば必ず会える。一緒に帰れるかもしれない。
昇降口の陰に隠れて待っていると、遥が階段を降りてきた。俺は声をかけようとして一歩踏み出した。そのとき、別の人物が遥に近づいた。真鍋柾樹。同じクラスの男子だ。目立たない奴で、俺はあまり話したことがなかった。
柾樹が遥に何か話しかけた。遥が笑顔で答える。その笑顔は、俺が見たことのない明るいものだった。二人は並んで昇降口を出て行く。俺の心臓が嫌な音を立てた。何だ、あれは。遥があんな表情を見せるなんて。
翌日、俺は柾樹の動きを注意深く観察した。休み時間、柾樹が遥の席に近づいて何か話している。遥がまた笑っている。昼休み、二人は一緒に購買に向かった。放課後、また一緒に帰っていく。
俺の頭の中で何かが音を立てて崩れていった。これは何だ。どういうことだ。遥は俺の彼女じゃないのか。なのにどうして他の男と親しそうに話しているんだ。
その日の夜、俺は遥のSNSを隅々までチェックした。投稿は少ないけれど、写真の背景に注意を払った。六月の投稿に映っている風景。あれは駅前のカフェだ。誰かと一緒にいたのか。コメント欄を見る。柾樹のアカウントがある。「楽しかったね」というコメント。遥は「うん、また行こう」と返している。
また行こう。俺が誘ったときは「また今度」と濁したくせに、柾樹には「また行こう」と言っている。これはどういうことだ。
俺は柾樹のSNSも調べた。プロフィール写真は何の変哲もない風景写真。投稿も少ない。でも五月の投稿に遥らしき後ろ姿が映っている写真があった。キャプションには「大切な人と」と書かれている。大切な人。それは誰だ。まさか遥のことか。
翌日、俺は二人を尾行することにした。放課後、遥と柾樹は一緒に校門を出た。俺は距離を置いて後をつける。二人は駅前のカフェに入った。窓際の席に座る二人。楽しそうに会話している。柾樹が何か言って、遥が笑う。その笑顔。俺には一度も見せたことのない、心からの笑顔。
俺の胸に黒い感情が渦巻いた。これは浮気だ。遥が俺を裏切っている。いや、待て。冷静になれ。もしかしたら、ただの友達かもしれない。でも、あの笑顔は。あの親密な雰囲気は。
カフェを出た二人は、駅のホームで別れた。でもその前に、柾樹が遥の手を握った。ほんの一瞬だったけど、確かに握った。遥は恥ずかしそうに笑って、手を振って電車に乗った。
その瞬間、俺の中で何かが決壊した。これは確実だ。遥は俺を裏切っている。柾樹という間男と密会している。俺が一生懸命尽くしてきたのに、俺が彼女のために色々やってあげたのに、こんな仕打ちを受けるなんて。
家に帰ってから、俺は冷静に考えた。いや、冷静になろうとした。でも頭の中は怒りと悲しみでいっぱいだった。遥は俺の彼女だ。それなのに柾樹と密会している。これは許されることじゃない。俺は被害者だ。裏切られた被害者だ。
そうだ、証拠を集めよう。確実な証拠を集めて、二人の関係を暴いてやる。そうすれば遥も目が覚めるかもしれない。柾樹という間男の本性を知れば、遥は俺のところに戻ってくるかもしれない。
翌日から俺は本格的に証拠集めを始めた。二人の行動パターンを記録した。いつ、どこで会っているのか。どんな会話をしているのか。休み時間、俺は遥と柾樹の席の近くに行って、聞こえないふりをして会話を盗み聞きした。
「週末、どこ行く?」
「駅前の本屋さん、見たい本があるんだ」
「じゃあ一緒に行こうか。その後、ご飯食べて帰ろう」
「うん、楽しみ」
週末デート。確実だ。これは確実に浮気だ。俺の記録ノートに日時と会話内容を書き込む。SNSもくまなくチェックした。遥の投稿に柾樹がコメントするたびに、スクリーンショットを撮って保存した。柾樹の投稿に映る遥らしき人物の写真も全て保存した。
ある日、遥が教室に忘れ物をしたらしく、休み時間に柾樹に「ロッカーの鍵持ってきて」とお願いしているのを見た。鍵を預けている。これはもう同棲レベルの関係だ。いや、高校生だから同棲はしていないかもしれないけど、それに準ずる関係だ。
放課後、二人が手を繋いで帰る場面を何度も目撃した。その度に俺の心は引き裂かれた。遥の手。俺が握るべき手。それを柾樹が握っている。許せない。絶対に許せない。
七月の終わり、俺は決意した。このままでは何も変わらない。二人の関係を白日の下に晒さなければならない。そうすれば遥も目が覚める。周りの人たちも、柾樹という間男の本性を知る。遥を騙している男、人の彼女に手を出す最低な男だと。
復讐計画を練った。まず、SNSでの晒し。匿名掲示板に二人の関係を暴露する。学校の匿名投書箱に手紙を入れる。証拠の写真も添付する。そうすれば学校も動かざるを得ない。遥の両親にも知らせるべきかもしれない。娘が間男と付き合っていることを。柾樹の両親にも。息子が人の彼女を奪っていることを。
でもまずは証拠を完璧にしなければならない。俺は八月に入ってからも尾行を続けた。夏休みに入っても、遥と柾樹は頻繁に会っていた。映画館、カフェ、図書館、公園。色々な場所で二人は時間を過ごしていた。俺はその全てを記録した。写真も撮った。距離を置いて、気づかれないように。
八月の半ば、決定的な場面を目撃した。公園のベンチに座る二人。柾樹が遥の肩に手を回した。遥は嫌がる様子もなく、柾樹の肩に頭を預けた。その光景を見たとき、俺の中で最後の何かが壊れた。
もう充分だ。証拠は揃った。あとは実行するだけ。遥、どうして俺を裏切ったんだ。俺はこんなに君のことを想っているのに。こんなに尽くしてきたのに。でも大丈夫。俺が真実を明らかにする。そうすれば君も気づくはずだ。柾樹がどれだけ卑劣な人間か。俺がどれだけ君を愛しているか。
夏休みが終わり、二学期が始まった。俺の手元には膨大な証拠が揃っていた。記録ノート、写真、SNSのスクリーンショット。完璧だ。これだけあれば誰も反論できない。
九月の最初の月曜日。俺は復讐を実行することに決めた。まず匿名掲示板に投稿する。学校名は伏せるけど、特徴的な情報を含める。そうすれば同じ学校の生徒なら誰のことか分かる。次に学校の投書箱。証拠の写真も印刷して同封する。
放課後、人気のない場所から掲示板に投稿した。「人の彼女を奪う間男について」というタイトル。俺と遥の関係、柾樹の介入、二人の密会の証拠。全てを書き連ねた。投稿を終えて、深呼吸をした。これでいい。これで真実が明らかになる。
翌日、投書箱に手紙を入れた。担任の諸岡先生宛。「クラスで問題のある交際が行われています」という内容。証拠写真も同封した。
これで俺の復讐は始まった。遥と柾樹、お前らが俺にしたことの報いを受けるときが来たんだ。俺は被害者だ。裏切られた被害者。だからこれは正当な報復だ。正義の鉄槌だ。
そう信じていた。この時の俺は、まだ何も分かっていなかった。真実が何なのか。自分が何をしているのか。そして、これから自分がどんな結末を迎えるのか。全く理解していなかった。




