鬼人の契
「はぁ、はぁ。」
日はとっぷりと暮れ、時刻は夜中。少年は息を荒らげ、1人深い山奥を彷徨う。
恐ろしげに手を伸ばす妖のような木々の隙間を抜け、化け物の背中と見間違えそうな岩を這い上がるも、灯はどこにも見つからない。もう駄目だと挫け地に膝を付ける。
すぐ背後で何かが喉を鳴らす。それはいくら逃げようと執拗にどこまでも僕の背中を追いかけてきて来た。「ようやくだ、待っていました。」そう言わんばかりの高揚感が冷たい空気を満たしていく。
「あぁ神様、せめて家に残してきた妹が心穏やかに暮らせるようお守りください。」
化け物の歯牙にかかる恐怖よりも、家で待つ妹の行く先が気掛かりでしょうが無い。多くを悔やみながらも僕はそっと瞼を下ろした。愛しい人を抱きとめるように、暗闇の奥底から悍ましい魔の手が伸びる_
『シャリン、シャリン。』
静寂な夜の山に鈴の音が響き渡った。澄んだ音色は心地良く、体の奥底から力が湧き上がってくる。その一方「おぉ、おおお。」と化け物は音の正体に怯え、狼狽するばかりだ。
「助けてくれ、ここだ!」
きっとこれが最後の機会だ。僕は必死に声を張り上げ、美しい音色の正体を探す。
化け物は僕を見逃さない。鈴の音の元へ辿り着く前に僕を仕留め、ゆっくりと巣で食事にありつこうと血走らせた目でこちらを睨む。
暗闇の中何度も何度も振り返る。肌を刺す小枝で着物は裂けに泥濘んだ地面に足を取られる。長年山で暮らしてきて身の扱いには自信はあったが、夜の山で化け物が相手となると到底比べ物にならない。走れども走れども化け物との距離は縮まるばかり、鋭利な爪先が僕を捕らえようとした刹那。
2枚の札が両脇掠め、矢のように化け物へと突き立たる。化け物はうざったそうにそれを振り払おうとするが、札はたちまちボウッと大きな音を立て、煌々と夜闇を照らす。はじめこそ真っ赤な炎の中で大きな影が藻掻いていたが、いつしかそれは灰のように崩れ、霧散した。
「随分と食い意地が悪いこと。」
札が飛んで来た方角から現れたのはすらりと背の高い1人の女性。骨も残さず燃え尽きたそれをじっと睨みながら「こんな時間に1人、何を?」と、彼女は凛とした声で問いかける。
その姿に、その声に覚えは無かった。彼女の姿は一度見れば忘れそうにもないが…。なにせ彼女は肌をすっぽりと覆い隠すように見慣れぬ装束を纏っている。さらに笠を目深に被っており、顔は見えない。
「病気の妹のために薬を貰いに来たら、帰り道を間違えて…。」
「不用心そのものですね。」
彼女は溜息を1つつくと、袖口からシュルリと縄を取り出した。その縄は丁寧に編まれており、夜闇の中でも目を引くような鮮やかな朱色に染められている。
「これを四方の木々に結びなさい。大抵のモノはそれで近付けない。あとは朝になるのを待ち、あちらへ向かって歩きなさい。」
女性は迷う事なく僕の帰路を指し示す。
「あ、ありがとうございます。」
「それでは。私はまだする事がありますので。…くれぐれも日が昇るまではここを動かぬように。」
女性は無愛想にそう応えると帯留めの先で光る鈴を鳴らし、踵を返す。僕は彼女の言いつけを守るべく、慌てて四方の木々に縄を結ぶ。その中心で1人座り込んでいるといつの間にか周囲はいつもの静かな山に戻っていた。雲の切れ目から瞬く星々を眺めていると、まるで今夜の出来事は夢か幻だったかのように感じる。しかし、周囲で風に揺れる朱色の縄が真実を告げていた。
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少年の足跡を辿り私は暗闇の奥へと足を踏み込む。
しかしそれは私1人ではない。背後には謎の影が1つ。少年の元を立ち去った時から、密かに後を付けてくる。その視線は先程の化け物とは違い血に飢えた様子は無い。しかし吟味するような疑るような、言いようのない心地悪さがある。
「何用ですか。」
「…山の者が失礼をしました。」
視線の正体は逃げも隠れもせず、星明かりの下に姿を現した。姿形は一見人のそれとよく似ているが細部は異なる。額から生えた2本の角、腕から生えた魚の背ビレに似た独自の器官。間違いない彼は"鬼"だ。
「私は葵と申します。見ての通りではありますが人に危害を加える趣味はありません。」
絵巻物でしか見たことがないその存在は物腰柔らかく接してくる。しかしその一方で、耳と同様に鋭く尖った瞳からは隠す気もない警戒心が滲み出る。
「…茜です。人を探してこの山に来ました。」
「茜、さん。もしかするとお力になれるやもしれません。私はここに居を構えておりますから。それで、探されている方というのは?」
「この山には腕の優れた医者がいると聞きました。何かご存知ではありませんか。」
「医者ですか?こんな辺鄙な場所に、本当にそのような者が?」
葵と名乗る人物は記憶を巡らせながら首を傾げる。彼に疑わしい素振りはなく、どうしても気持ちがはやってしまう。
「はい。山向の者からこの山には人だけでなく、『人ならざるもの』も診る医者がいると聞きました。」
震える両手で固く結んだ笠の紐を解く。背中まで伸びた黒い髪を分け、露わになった私の顔を見た彼はハッと息を呑む。
「1つ思い当たる節があります。しかし決して奴は腕利きとは言えませんし、そもそも医者でさえありません。それでも、よろしいですか。」
「診ていただけるのであれば構いません。」
「分かりました。家まで案内しましょう。」
私の揺るぎない意志を確認すると、彼は困ったように頭を掻いた。
「あなたのような女性をあげられる部屋じゃありませんけれど、どうか我慢して下さいね。」
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「ここです。」
辿り着いた先は山の中腹に建つ1軒の民家だった。辺りに人の気配はなくポツリと建ったその家はどこか寂しげな面持ちだ。
しかし茅葺き屋根のその建物は比較的新しく、中からは医療所で嗅いだような何ともいえぬ薬草の匂いが漂っている。
青年は「少しだけ、待っていて下さい。」と言い残すと先に家の中に入る。中からは随分と慌ただしげな物音が聞こえてくる。大きな音もするが、まさか家具でも持ち上げているのだろうか。鬼は人よりも力強いと言うが…。
そっと中を覗いてみると、床には見たこともない文字で書かれた多くの書物や巻物が散乱しており、壁には色とりどりの植物が所狭しと並んでいる。
「狭いですけれど、どうぞ。」
数分ほど外で待っていると、月のような銀髪に埃を付けた彼が出迎える。中に入ってみると小さな囲炉裏の側には薄くなった座布団が敷かれており、向かいでは彼が忙しなく動き回っている。
「あなたがお医者様だったのですね。」
「僕は医者なんかじゃありません。趣味で色々とやっているだけです。」
彼は恥ずかしそうに目を逸らす。
片付けに一区切りが付いたのかはたまた諦めが付いたのか、彼は囲炉裏の向かいで着古した着物の襟を直し板張りの床の上に足を組む。
「それで、どうされたんですか。」
「お察しの通り診て頂きたいのはこれです。」
私は右目の上に生えたコブのような突起物を指でなぞってみせる。それは彼の角の半分ほどの長さで、先は赤みがかっている。
「2年前、化生の類を追っていた際に深手を負い長らく生死を彷徨っていました。ようやく目が覚めたと思ったらこんな姿に。」
変わったのは額のそれだけではない。尖った耳先、獣のような瞳孔、両腕の骨張った凹凸物。どれも怪我の後遺症というには信じがたい。
「病では無さそうですね。ある日突然、となると呪術の類ですか。」
「私も最初はそう思い、都中の医師と術師をあたりました。しかし何も得られずご覧の通りで。…人では治せずとも人ではないものになら?とあなたの用な方をずっと探していました。」
「そう、でしたか。さぞかし大変な思いをされた事でしょう。」
彼は少し考えてから口を開くが、うまく言葉が出てこない。
「申し訳、ないのですが、僕もすぐには見立てが付きません。そもそも化生の類は未だ古臭い祈祷に頼ってばかりで、人ほど医術や薬術が進んでおりません。病を診るという点では、都の方がずっと優れているでしょう。」
やはりここでもと肩を落とす。そんな私を見た彼は「しかし」と続ける。
「…呪術や鬼についてなら都の医師よりも、術師よりも詳しい自信があります。少しだけお時間を頂けますか。」
「えぇ、…えぇもちろんです。お代も用意しますから是非。」
「お代は治ってからで結構です。」
喜びのあまり身を乗り出す。彼は私を制止させようと骨張った手を伸ばす。「せめて前金を」と荷を解くが彼は頑なに受け取らない。諦めかけていた己の境遇に差した一筋の光を頼りに、私は茅葺き屋根の下での生活を始めた。
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滝壺で清めた身体を滴る水滴を拭い、煎じられた薬を一気に飲み下す。毎日の繰り返しではあるが未だ慣れない。薬に使われる材料は毎日異なるが、どれも決して味が良いとは言い難いからだ。
努力も虚しく未だ目に見えた効果は感じられない。しかし「お手上げだ」と見放され、宛もなく彷徨っていた過去を思い返せばこの目の前の薬さえ甘い蜜のように感じる。
「コンコンコン」と誰かが入り口を叩く。日に数度客が訪れ葵が相手しているが、生憎周囲に彼の姿はない。私は空になった腕を置き彼の代わりに戸を開ける。
「どうなされましたか。」
「あぁ、茜さんか。葵さんは留守かね。」
戸口に立っていたのは胸ほどの高さの狸。2本足でぴょこりと立ち、人と同じ言葉を話す。
「えぇ、今日は天気も良いので薬草を採りに出かけているようです。」
「それは参ったな。子供が熱を出してね、すぐに薬を貰いたいんだけれども。」
「風邪薬なら私も分かります、用意しましょうか。」
「本当かい?助かるよ!」
「少々お待ち下さいね」と足早に部屋へ戻る。隅にある薬棚の上から2段目、そして右端。取っ手を引くと書付が1枚、そしてその下には薬包紙に包まれた顆粒薬が積み重なっている。
する事もないからと毎日日中は修行をしその後は読書か散らかった部屋のを整頓を。日が暮れる頃には山を見回って過ごしてきた。そのお陰か、葵の住処と山についてなら一通り分かるようになってしまった。部屋には日に日に物が増え片付けに切りは無いがそれも全て治療のため。そう思うと彼には頭が上がらない。
「朝晩2回、食事の前に飲ませてあげてください。もし拗らせるようであればまた仰って下さい。」
「あぁ分かったよ、ありがとう。茜さんも随分ここに馴染んできたものだね。」
書付を読み上げながら、狸に薬を差し出すと「これはお礼に」と新鮮な川魚を3匹を渡される。
「どこの鬼の里から嫁いできたかは知らないけれど、慣れない場所だと大変だろう。いつでも力になるから言っておくれよ。」
「ありがとう、ございます。」
引きつった口角でそう返すと狸は嬉しそうに西の方へピョコピョコ飛び跳ねていく。訂正したくてもこんな場所に私のような人間がいるだなんて、到底口にできない。
「誰か来ていたんですね。」
いつの間にか葵が薬草摘みから帰ってきていたようだ。家の横に青々しい草花で一杯の籠を背中から下ろし、額の汗を拭う。籠の中にはまだ試したことのない薬草も多々あり、彼は一体どこまで出かけていたのだろうと少し心配になる。
「えぇ、狸が一匹。お子さん用に風邪薬を3日分差し上げました。」
「きっと丸伊さんですね。」
ピチピチと水滴を散らす魚を見せると「今日は焼き魚にしましょうか。」と嬉しそうに微笑む。
いつしか彼は自分のことを「腕が立たない、医者ではない」だなんて自信なさげに言っていたけれど、その割には随分と山の者達に信頼されている。本人は「食い扶持を稼ぐため」だと言い張るが彼等の信頼に応える彼の表情はいつも明るい。
「お手伝いします。」と魚を台所に運ぶ。魚は随分と立派な肉付きだが、彼ならば唇の隙間からチラリと見えるその牙で骨も取らずに丸ごと咀嚼する事だろう。いつも美味そうに食事を食べる彼の姿を思い出しながら肩にたすきを掛ける。
その直後、まるで空を引き裂くかのように大きな雷が遠くの山に落ちた。不気味な紫色の光を帯びており、思わず鳥肌が立つ。
轟音。鼓膜が強く揺すぶられ、思わず身を屈める。サッと音の方角へと振り返ると、葵の背が目に入る。彼は雷が落ちた瞬間庇うようにして私の前に立ち塞がっていたようだ。
「あれは一体。」
「以前はここまでではなく、もっと遠くに落ちていたんですが、今日は少し近かったですね。…あの雷が落ち始めてから血の気が多い者が増えました。」
「力を持った化生でも現れて、住処を追われているのやもしれませんね。」
この山は都と比べれば平穏そのもので、いつしかの夜以来血に飢えた化け物に遭遇する事は滅多にない。
嫌な汗が背中を伝う。都に近い場所ならばすぐに誰かが気付き、退治の備えが始まることだろう。だが近くに詰所さえ無い、こんな僻地ではそうともいかない。
「早く都の者が気付いてくれたら良いのですが。」
瞼の裏に焼き付いた光に、私は不安を募らせた。
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数日後の深夜、「ドンドンドン」という大きな音で目を覚ます。誰かが戸口を叩いている。葵はこんな夜更けにも書物を読んでいたようで、彼は慌てて戸を開ける。表には息も絶え絶えといった様子の青年が1人。彼の額には葵同様、立派な角が2本並んでいる。
「坊っちゃん、ご無事でしたか!」
「お前、平蔵じゃないか。一体どうしたんだ!」
平蔵、と呼ばれた人物は葵の顔を見ると歪に頬を緩める。
「里が、鬼の里が大きな蜘蛛の化け物に襲われました。いつここにも現れるか分かりません。早く、今すぐにお逃げください!」
「そんな、先の雷が原因なのか。里から離れた所に落ちていただろう。」
その声に応える者はいない。ただただ平蔵の嗚咽だけが響く。葵は悔しそうに歯噛みしながら平蔵を土間の縁に座らせる。
「僕は里に行く。お前は少し休んでから、周りの山に住む者達へ安全な所まで逃げるよう伝えてきてくれ。」
「そんな、危険です!」
「一度里を捨てたとはいえ、元は里長の子だ。皆を助けないと。」
過去を語りたがらない彼の口から飛び出たのは意外な言の葉。同じく過去について語りたがらない私にとっては都合が良かったが、…どうやら彼は過去と向き合わねばならぬようだ。
「茜さん、僕は_。」
「これまでのお代を支払わせて下さい。」
「お代?あなたの身体は、まだ…。」
私の身体は依然として何も変わらない。明日2人揃ってここに戻れる保証もない、だから。
「あなたには薬だけでなく食事に寝床、多くの物を頂きました。治った後にまとめて支払うとなると随分な金額になるでしょう。なので先に少しだけ支払わせて下さい。」
言い淀む彼の手をそっと取る。
(始めて会った日の夜を忘れたわけでもないでしょう?)
私は精一杯、胸を張ってみせる。
「坊っちゃん、その方は一体。」
「以前この山に迷い込んだ悪霊を軽々と退治してみせた心強い…、同居人さ。」
葵は私の手を握り返すと力強く頷き、私達は夜の山を満月に照らされながら駆けた。
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本気の鬼の、いや葵の脚力というものは凄まじいものだった。「里まで案内します」と流れるままに抱き上げられて、彼の腕の中から見える疾風の如き風景に息を呑む。
あっという間にいくつかの山を飛び越えると、冷たい夜空から真っ赤に燃える里の姿が目に入る。
「あそこです。」
思ったよりも被害は深刻なようだ。飛び交う悲鳴に渦巻く恐怖。遠目で見ただけでも分かる、今回の相手は今まで対峙してきた相手の中でも随一だろう。それを見越してか、耳元で鳴る彼の脈動も一層高まる。
「戦いの経験は?」
「…悔しながら、熊や猪を相手取るのに精一杯です。」
雷を見たあの日の晩、都へ急ぎ文を飛ばしたが返事は無い。周辺の状況を鑑みても援軍は期待できず、到底討ち倒せそうにもない。
「それなら里の人達を逃がして下さい。私が時間を稼ぎます。」
「そんな、1人では危険です。倒せはせずとも、時間を稼ぐのであれば僕にも…。」
「私はこの近辺について分かりません、何よりも戦うことしか取り柄がありません。でもあなたは違う。1人でも多く生かすために、お互い出来ることに尽力しましょう。」
「生かす」というその一言が彼の瞳に火を灯した。
里の中では混乱し逃げ惑う者に怪我をして動けなくなった者、多くの鬼が死の淵で助けを持っている。
「一刻でも早く避難させます。どうか無理だけはしないで下さい。」
頼もしくなった顔つきはいつもと様変わりしており、まるで鬼を率いる里の長といった風貌だ。
「あなたこそ」里の門を潜り葵に別れを告げると、空から見えた真っ黒い化け物が待つ方角へと真っ直ぐ走る。倒れた建物、燃える櫓、生臭い血の匂い。化け物に近付く程にその凄惨さは増していく。熱い炎、思考に身を焦がされる程に段々と頭の中が冷たく澄み渡っていく。まるで身体中の細胞が己の存在を思い出していくかのようだ。
「___!!」
少し開けた広場の中心。そこでは建物よりも大きな蜘蛛の化け物が八脚で全てをなぎ倒し、咆哮する。そこに怒りは無い、悲しみは無い。ただ蹂躙する喜びに酔いしれた存在は最早災害に近しい。
手を空中に翳す。これは生半可な術だけで太刀打ちできる相手ではない。心を静め、一点に集中する。白い花弁のような光が竜巻のように舞い形を成す。
真っ白なそれからスラリと刃を抜くと背の丈ほどある太刀の刀身に私の姿が映り込む。たなびく髪は家を出る前よりも随分と伸びており、仏前で見た母の面影を彷彿とさせる。
(どうか、力を貸して下さい。)
私の願いを聞き入れたかのように刀身が月明かりを照り返し、銀色に光る。
シャリン、と1つ鈴を鳴らして走る。化け物の側面に回り込み太刀を水平に構えながら化け物の様子を窺う。ギョロリとした化け物の目には、妻や子を守るため勇敢に抗う鬼の姿しか映っていない。
ならば、と地を這う足に渾身の一太刀を浴びせる。不意の出来事で化け物は躱すことができない。
「_____!!!!」
痛みに苦しんでいるのか、化け物はすぐさま大鎌の用な手を振り下ろす。土埃が舞い、見る影もない残骸が跡形も無く吹き飛ばされている。しかしそこに私の姿は無い。ギョロリ、ギョロリ。右か左か、化け物は足を斬りつけた張本人を探すがそれも遅い。再度、咆哮。下手人はとっくに化け物の背後に回り込んでいる。
丸太よりも大きな化け物の脚が四方八方から降り注ぐ。走り、躱し、受け流し化け物を引きつけたまま入り口とは真逆へ、森の方へと引きつける。
「今のうちに逃げて!」
化け物の足元で戦う鬼達に向かって叫ぶ。彼等は状況を理解したようで、ある者は脚を怪我した者に肩を貸し、ある者は傷口を押さえながら入り口へと走る。
「すぐに助けを連れてくるから!」
その声に反応し、化け物が振り返ろうとするがその首元で何枚もの札が爆ぜる。
「いいから、早く!」
パチリパチリと火花を散らし、札が燃え尽きるが化け物は意に介さない。私達はすぐに向かい合い、お互いの命を刈り取らんと全力を尽くす。
形勢はこちらが不利だ。化け物は無尽蔵に暴れているが、一方こちらは体力も物資も限界というものがある。その上奇襲による最初の二大刀では化け物の脚を切り落とすに至らず、深い傷を付けただけだ。化け物は6本の脚で2本の脚を庇うが、依然として攻撃の手は緩まらない。
一撃でも受けたら少なくとも致命傷になる。今動けなくなれば時間を待たずして確実に死に至る。
(まだ、死ねない。まだ!)
都の人々を、里の鬼達を、そして温かな日々を思い出し剣を握る手に再度、力を込める。不快な羽虫を押し潰そうと躍起になる化け物の魔の手を掻い潜り、逃げる、逃げる、どこまでも!
そして私達は里を囲む外壁まで辿り着く。
「はぁ、はぁはぁ。」
とっくの昔に体力は底をついており持ち合わせた札はもう無い、せめて酸素を取り込もうと必死に肩で息をするが…化け物に私の都合は関係ない。むしろ好奇とばかりに右上から1本目の脚が振り下ろされる。その脚先を見切り既のところで横に避ける。左から2本目の脚が薙ぐ。大刀で受け、必死に踏ん張る。右から挟むようにして3本目の脚。2本目の脚を押し返し、3本目の脚を斬りつけ…大刀の先がパキリ、と折れる。
「あ…。」
4本目の脚が直ぐ様私の背中を押し潰す。ミシリ、ミシリ。内側から軋むような、潰れるような不快な音が聞こえる。
ベシャリ。私はなすすべなく泥で顔を汚しながら、遠く離れた入り口へと目を向ける。
(皆、逃げられたでしょうか。)
死の間際、脳裏を過ぎるのは絶望でも恐怖でもなく、ただ少しの無念だった。
(人の姿に戻ってまた帝を、都をお守りしたかった。)
目を瞑ると懐かしい母の姿が思い起こされる。母は優しく私を抱きとめ、後ろから誰かが大きな手で私の頭を撫でる。誰だろう。振り返ると見知らぬ男性が微笑んでいた。
「お前にとって人である事と、生きる事。どちらの方が大切だ?」
「どちらも大切だけれど…。」
人である事を選んだならば間違いなくここで命を落とすだろう。過去の自分を、都で別れた皆の事を思えば己の誇りを守り死ぬというも悪くはない。
だけれど
「生きたい。」
素直な気持ちが口から溢れた。今の私には例え人で無くなったとしても見たい明日がある。共にいたい人ができた。だから生きたい。
「そうか。」
「なら行きなさい。」
母と男性は頷き、私の背を押す。理由も分からず私は前に押し出される。1歩、1歩と歩く事に身体に力が満たされ、五感が研ぎ澄まされていく。それはまるで人では無くなっていくかのように。
別れの時、振り向きざまに確かに見えた。彼の頭上にある燃えるような真っ赤な角が。
ハッと目を覚まし、全身に力を込める。
手も脚も出なかったはずの蜘蛛の脚が、軽々と宙に浮く。一閃。柄の先に残った刀身は、落ち葉でも切るかのようにそれを真っ二つにする。
蜘蛛は大きな声を上げジリジリと後ろへ下がる。その様子は先程までとは打って変わり、醜い瞳には焦燥と恐怖の色が映り込む。
全身の神経に意識を巡らせ、ゆっくりと太刀を構える。
(いける。)
そう確信した私は燃える里を全力で駆け抜ける。
その姿を見た蜘蛛は絶叫しながら、決して己に近付かせまいと一心不乱に脚を振り回す。襲い来る蜘蛛の脚は随分と遅く。川石を跳ねて遊ぶ子供のように私は蜘蛛の脚を飛び越える。目の前には大きな満月。あぁ、今ならば月までも手が届きそうだ。
しかし、今欲しい物はそんな物ではない。私はくるりと向き変え、大きな背に足を降ろす。眼下のそれに目掛けて刀を振り下ろす_
2撃目は不要だった。足元がグラリと揺れ、沈んでいく。頭を失った胴体はゆっくりと重力に従い傾き始める。地に伏したそれはやがて灰となり暗闇の中風に舞う。
地面に背を預けたまま、その有様をただ呆然と眺める。
遠くから声が聞こえる。提灯のような灯が見える。だけれどどれも朧げで輪郭が掴めない。
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目を覚ましたのは上等な敷布団の上。部屋は温かく、隙間風1つ吹いていない。どこからか柔らかな香の香りまで流れており…、こんな立派な寝室で眠るのはいつぶりだろう。
まだ重い瞼越しに周囲を眺めると、傍らに座り祈るように私の手を握る彼と目が合う。
「遅くなって、すみません。」
彼は目に涙を浮かべながら静かに頭を垂れる。周囲の人々は口々に声を上げ、部屋の外まで慌ただしい。
「里の、人達は?」
痛む身体を起こそうとするもうまく力が入らない。嵐に揺れる案山子のように頼りない私の身体を彼が横から支える。「まだ、無理をしないで。」耳元で囁く彼自身もまた身体中を包帯で包み所々を血で滲ませている。
「生きている者は皆、逃げおおせられました。」
「そう、ですか。」
「あなたが助けてくれなかったら、どれだけの者が犠牲になっていたか分かりません。」
気丈に振る舞う反面、消え入りそうな彼の声にそっと耳を傾ける。きっと薬や包帯ではこの胸の傷を癒やす事は出来ない。
_こつりと脳に違和感が走る。違和感の正体は額の左側。葵の肩にぶつかったそれに手を伸ばす。何も無かったはずのその場所には周囲の鬼同様、長い角が生え出ている。
「私は…?」
思わず声が裏返る。全身から血の気が引き、青ざめる私を葵は力強く抱きしめる。
「…大丈夫。全て、僕が治しますから。」
思わず目から涙が溢れる。そうだ彼に任せていれば、彼と共にいれば大丈夫。私はまた人に_
ピシャリと襖が開け放たれ、思考が途切れる。
「目が覚められたのですね。」
しずしずと入ってきたのは長い髪を結い上げ、豪奢な着物で身を包んだ奥方だった。顔は煤に汚れているが、その立ち姿は気迫に満ちている。
「この度は鬼の里を救って頂き、誠にありがとうございます。負傷により身動きの取れない里長に代わり、お礼を申し上げます。」
彼女は面と向かって静座すると、深く頭を下げる。
「僕からも改めて…、本当にありがとうございました。」
並んだ2人は纏う雰囲気こそ異なるが、その顔付きはよく似ている。
「頭を上げて下さい。流れ者であった私に近隣の方々は随分と良くして頂きましたから、当然のことです。」
「…ご配慮、痛み入ります。」
顔を上げた彼女と目が合う。それは鷹のように鋭い目付きで、一直線に私を射抜く。
「失礼を承知でお伺いしますが。産まれはどちらに?」
その口をついたのは、思いがけない言葉だった。
「愚息から呪いを受けて鬼になられた、と聞き及びました。しかし…本当に鬼に"なられた"のですか?どちらにせよ都の妖祓いと同じ術を使う鬼など聞いたことがありませんが。」
「母上ッ!」
始めて聞く怒声に身が震える。声を荒げたのは紛れもない、葵だ。彼は「突然何を仰るのですか」と母親を睨みつけ、その額には青い血管が浮かび上がる。
葵の母はそれをものともせずに一瞥し、ただ淡々と言葉を続ける。
「言わぬが優しさとでも思うたか。真実はいつまでも隠し通せぬぞ。」
彼女の見解は確かに的を射ったようで、葵は次に続ける言葉を失う。「家出して少しは成長したかと思ったが、まだまだ青いものよ。」呆れた表情で彼女は立ち上がる。
「何かあればいつでも女中にお申し付け下さい。傷が完治するまではどうぞゆっくり。」
手を伸ばした先ではまだ幼さが残る女中が2人慣れた手つきで仕事をこなす。葵の母は再度頭を下げると部屋を後にした。
「葵も、気付いていたんですね。」
「…はい。病でも呪術でも無いと聞いて、様々な薬を試して、一番最初に思い浮かべた可能性ではありました。」
始めて会った夜の事から、順番に思い出すようにして彼はポツリ、ポツリと話し始めた。
「病で無ければ治せない。呪いで無ければ祓えない。産まれ持ったものであれば_」
「……。」
「伝えるべきだとは思っていました。ですがどうしても怖くて、今に至るまで伝えられずにいました。」
「恐怖、ですか?」
「あなたはたまに、人であった頃の出来事を嬉しそうに話したでしょう。最後には必ず、『いつかまた都に戻るのだ』と。あなたから生きる希望を奪いたくありませんでした。」
真実に気付いた彼はどれだけ思い悩み、どれだけ苦しんだ事だろう。後悔に打ちひしがれる彼に「怒っているわけではないのです」と表情を緩める。
「もう都に戻れない、と気付いた時私の胸はぽっかりと穴が開いたようでした。昔の私だったら自ら命を絶っていたでしょう。」
幼い頃から帝を、都を守護する一員としてその誇りを胸に生きてきた。喜びも、悲しみも、怒りもただそこにあった。聖獣である鳳凰の一文字を冠した名字は祖先が帝から頂いた宝だ。ここにいる者が鳳茜であれば、鬼に身を堕とす苦痛に耐えきれなかっただろう。
「でも今は違う。私は父母に誓ったのです、『鬼になってでも私は生きる』と。そう決意させてくれたのはあなた。」
蝶が殻を破り羽化するように、私は、鳳茜にさようならと告げる。明日へ向けて1人手を伸ばす。
「私に生き方を教えてくれませんか。」
「喜んで。」
伸ばした手を彼が取る。二度と離さぬようにと、固く指を絡みつかせる。彼の手が熱い。その熱は2人の手首の青い筋を沿って赤く、印を刻み込む。
「僕の全てを懸けて、必ずあなたを幸せにします。」
鏡写しとなったその印に、彼はそっと口付けをした。
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この後葵は里長の座を継ぎ、茜は里長の妻になりました。
思慮深い里長と元々強いのにパワーアップした妻の力は計り知れず、鬼の里はメキメキと復興しましたとさ。
葵 鬼の里、里長の長男。古臭い慣習や閉じ込められた世界に嫌気が差して家を飛び出しました。父は怒り勘当になりかけていましたが、母がこっそりと助け舟を出していました。
茜 都で帝に使える妖祓い集団の総本家です。亡き母は都最強とまで謳われた剣士です。2年前の任務中に大怪我を負い、その際身体に眠る鬼の血が目を覚ましました。
最後までの閲覧、ありがとうございました。
書き上げられた短編の2本目です。
これも昔、夢で見た内容を元にした作品になっています。
格好いい系ヒロインと呪いのような婚約方法いいな〜!と思いずっと温めておりました。
またまた完結後に修正をかけたら申し訳ありません。
10/22 完結




