side2 レイナード→レイン
「ロクシーナ夫人が離縁して、カークマン伯爵家を去ったそうだ」
兄からそのことを聞いた時、私の心を占めたのは彼女がフリーになった喜びか、彼女に会えなくなる淋しさか、とにかく強く思ったのは“もう誰にも彼女を渡したくない”ということだった。
「…それで彼女は何処に?」
「さぁ、そこまでは聞いていないが、実家のアーカンソー子爵家に帰ったのではないか?」
他の男に先を越されては堪らない。
早速アーカンソー家に問い合わせてみたが、“そんな娘は知らない”と返ってきた。
どういうことだ?
彼女を隠しているのか?
納得できない私は密かにアーカンソー家を探ることにした。
すると驚くべき事実が分かったのだ。
彼女は子爵が気まぐれに手を出したメイドの子で、子爵家の外れに母娘で暮らしていたが、母親の死後は放置されていたらしい。
そしてカークマン伯爵家からの援助金欲しさに、売られたも同然で嫁いだとのこと。
子爵家に彼女の居場所は無かった。
伯爵家からも離縁されて、帰る家も無い。
…彼女は何処へ行ってしまったのか…
*****
あれから三ヶ月。
人を雇い伯爵領を探しているが、彼女は見つからない。
そんな中で、私の周囲の環境は変わっていった。
まず、我がクロムウェル子爵家と隣接するカークマン伯爵家との業務提携が停止された。
広大な農地を持つ子爵領からは農業指導者を、工芸技術が盛んな伯爵領からは職人を派遣しあっていた。
伯爵領は土壌改良や作物の品種改良を、子爵領は工芸技術の向上を目的としたものだ。
その両家の会議には、子爵家からは兄や私が、伯爵家からはロクシーナ夫人が出席していたが、カークマン伯爵は夫人が去った後も姿を見せることは無かった。
領の代表がいなければ、決める物も決められない。なにより、姿を見せない相手を信用することはできない。
…ということで、こちらから提携の停止を申し入れたが、こんな時でさえ返ってきたのは“諾”の旨が書かれた書類一枚だった。
そして、移民が増えた。
以前からもクロムウェル領への移住希望者は居たのだが、最近、特にカークマン領からの移民が多い。
驚いたことに、その中には伯爵領から派遣されていた職人たちも混ざっていた。
何でも、伯爵家からの派遣手当が未払いらしい。
夫人がいた頃は、このような話は聞かなかった。
伯爵は王都の社交界に入り浸っているとの噂があるが…
まさか、伯爵家の仕事を全て夫人にさせていたのか?
自分に都合良く夫人を使って捨てたのか?
私は伯爵に言いようの無い怒りを覚えた。
***
彼女が見つからないまま月日は過ぎていく。
もう諦めるしかないのかと気持ちが沈んでいく。
そんな頃だった。
彼女と再会したのは。
その日私はニーサを視察していた。
ニーサはコーヒー豆の産地だ。生産状況を確認し、事業に活かせないかと模索する。
兄への報告をまとめなければ、と考えながら通りを歩いていた時に見かけた女性。
腰まであった軽くウェーブのかかった濃茶の髪は肩の辺りで切りそろえられていたが、あの顔…あのキャメル色の瞳…
彼女だ!
まさかクロムウェル領に居たなんて!
私の心は驚きと喜びで忙しい。
あの女性のことを調べてくれ、と従者に伝えるので精一杯だった。
*
調査を頼んだ従者からの報告を聞く。
彼女の名はキャメル。
四ヶ月程前にニーサに現れ、今はパン屋で働いているそうだ。
従者からパン屋の場所も聞いた。
きっとこれは最後のチャンスだ。今を逃せば、この先彼女を手に入れることはできないだろう。
まずは彼女に会いに行ってみよう。
彼女は私を覚えているだろうか?
***
彼女との再会から一ヶ月。
結果から言うと、彼女は私を覚えていた。
私が“キャメル”と初めて会った時は少し身構えていたようだが、私が“ロクシーナ”のことを明かすつもりが無いと知った彼女は店員と客として接してくれている。
今では顔馴染みくらいにはなれただろうか。
私はそれで満足するつもりは更々ないが。
手始めに、“キャム”と愛称で呼んでみた。
キャムは不思議そうな様子ながらも、愛称呼びを受け入れてくれた。
*
キャム…ロクシーナ嬢との出会いは三年前。
派遣提携の会議のために、彼女が子爵家に初めて来た時だった。
伯爵が代替わりして、先代から引き継いだばかりだと不安そうにしていたのを覚えている。
不慣れながらも一所懸命に頑張る姿を、何時しか目で追うようになった。
そんな彼女がロクシーナ“嬢”ではなく、ロクシーナ“夫人”だと知って、私が失恋するのはもうしばらく後の話。
…そういえば、彼女はコーヒーが好きだったな。
私は思い出の蓋を閉じ、子爵家当主である兄の執務室へと向かった。
*
「兄上、クロムブレンドとウェルブレンドの使用許可をください」
「何だ、藪から棒に」
「ニーサに子爵家直営のカフェをオープンしませんか?そこでクロムブレンドとウェルブレンドを提供したいのです」
「ニーサにカフェ?…ああ、きっかけはキャメル嬢か」
「いえ…その…」
キャムがロクシーナ嬢だということは兄には話してある。
少し狡いとは思ったが、キャムの市民権の許可を私が直接兄に頼んだからだ。
万が一、伯爵がキャムを連れ戻しに来た時に子爵家で守れるようにしておきたかった。
彼女は子爵領の領民だ、と。
「彼女はコーヒーが好きだっただろう?」
「ご存知なのですか?」
「以前、彼女が我が家のブレンドを喜んでくれたのを覚えている。…ニーサなら需要はあるだろう。だが、クロムブレンドとウェルブレンドは父上の許可をいただかねばならん。この二つのブレンドの監修は父上だからな」
「そうですか、では早速父上に許可をいただきます。…それとカークマン領から移住してきた職人たちに協力を依頼して、新しい磁器の開発をしたいのですが」
「新しい磁器?」
「はい。磁器はカフェでも使用できますし、なによりうちの特産品が増えます」
「なるほど。磁器については私が許可を出せる。やってみるといい」
「ありがとうございます」
カフェがオープンしたら、キャムをデートに誘ってみよう。その時にウェルブレンドを出せば、喜んでくれるだろうか?
…是非とも父には許可をいただかねば。
***
彼女との再会から二ヶ月。
父からは無事に許可をいただけた。
ただ、クロムブレンドとウェルブレンドは豆の販売はせず店での提供のみ、という条件付きで。
店で提供できるだけで充分だ。
価格を少し高めにして、プレミア感を演出してみた。
特別な日に飲むコーヒーになれば良いと思っている。
もちろん、この街のオリジナルブレンドであるニーサブレンドもメニューに加えた。
店舗の場所も決まり、店主は我が家の隠居した執事に頼んだ。
着々と準備は進んでいる。
オープンが楽しみだ。
そして私は今日もパン屋へ行く。
「いらっしゃいませ。…あら、レイナード様」
「やぁ、こんにちは。キャム」
さぁ、今日はどうやって口説こうか?
***
「………先日新しいカフェがオープンしたのだが、今度の君の休みに一緒に行かないか?」
カフェのオープン後、街で出会ったキャムをデートに誘った。
「………御一緒していいんですか?」
…これはデートの誘いだと気付いていなさそうだ。
彼女からの好意は感じるが、そろそろ私を恋愛対象として意識してほしい。
そう思った私は
「………デート、楽しみだね!」
少しの刺激と投げキスを残して去った。
…今頃キャムはどんな顔をしているだろう?
***
デートは成功だったと思う。
今日のキャムはいつもと違う雰囲気で可愛かった。
私のためにお洒落をして来てくれたのかと思うと、嬉しくて仕方ない。
キャムの思いも聞くことができた。
彼女は貴族の生活に戻るつもりは無いそうだ。
…私はキャムと共に居たい。
私は貴族籍を返上し、新たに市民権を得る決心をした。
*
「兄上、私の籍を子爵家から抜いてください」
「は?急に何を言っている?」
「私はずっとキャムのことが好きでした。彼女が伯爵夫人だと知っても、彼女が平民になっても諦めることができません。…キャムは貴族の生活に戻るつもりは無いと言いました。私はキャムと共に生きていきたい」
「…貴族として育ったお前が平民になって、どう生きていく?キャメル嬢と一緒になれたとして、養っていけるのか?」
「ニーサの役所で文官になります。…許可をいただけるのなら、新しい磁器の開発に携わりたいと」
「…そこまで考えているのなら、お前の思いを覆すことはできないのだろうな。だが、不手際を起こした訳でもないお前を私の一存で除籍することはできない。…このことは父上と母上にも相談する」
「わかりました」
後日、家族で話し合った。
父母は急な話に驚き、戸惑っていたが…私の決意が固いと知り、最終的には兄と共に受け入れてくれた。
「離れて暮らそうと、子爵籍から抜けようと、お前が私たちの家族であることは変わりない。それは、忘れるな」
父が言ったこの言葉がとても印象深く私の中に残った。
*
家族の説得が無事に済み、私は晴れて平民として生きることが決まった。
兄から
「お前の除籍は一月後だ。それまでに住む場所と仕事を決めろ。…但し、子爵家のコネは使うな」
とのお達しが来た。
望むところだ。
キャムは貴族のコネなど一切無く、自分の力で頑張っている。
私もやってやるさ。
でなければ、キャムにプロポーズをする資格など無い。
*****
一ヶ月後。
ニーサの役所での採用も無事決まり、今までの貯えを使って小さいながらも一軒家を買った。
小さいと言っても、キャムを迎え、家族が増えても充分暮らせる。
…先走りすぎか?…
兎にも角にも今日から私はレイン・ロクスだ。
***
いよいよ今日、キャムにプロポーズする。
緊張して落ち着かない私は、とある場所へ向かった。
カランカラン
「いらっしゃいませ。…おや、坊っちゃん」
「坊っちゃんは止めてくれないか、セバス」
「ホッホッ。これは失礼、レインさん」
やって来たのは、子爵家が経営するカフェ。
あのデートの日、キャムと来た店だ。
「今日はいかがされたのですか?」
「セバス。今日これから、先日一緒にここへ来た女性を連れてくる。…私の大切な人なんだ。とびきりのウェルブレンドを淹れてほしい」
「…今日は貴方の大事な日なのですね。わかりました。ホホッ、この爺やに御任せあれ」
子爵家を出て立場が変わった私だが、今でもまだ私の爺やだと言ってくれるセバスの気持ちが嬉しかった。
*
キャムに私が子爵籍を抜けたこと、これからもキャムの傍で生きていきたいということを伝える。
とびきりのコーヒーと共に伝える、私の一世一代のプロポーズ。
キャムは顔を真っ赤にしながら、私の気持ちに応えてくれた。
ありがとう、全力で君を幸せにする!
*****
一年後。
私とキャムは結婚し、私は役所で、キャムは引き続きパン屋で働いている。
先日、ようやく新しい磁器が完成した。
白い磁器にコーヒーの花を描いたティーセットのシリーズで、“カフルール”と名付けた。
宣伝も兼ねて、セバスの店で使ってもらっている。
そして、新しいコーヒー豆のブレンドも作った。
カフルールと共にクロムウェル領の特産品として売り出す予定だ。
その新しいブレンドの名前を“キャメルブレンド”にしようとしたら、なぜか顔を真っ赤にしたキャムに必死に止められた。
キャム好みの味で作ったから、彼女の名前を付けたかったのだが…
最終的にブレンドの名は“オアシスブレンド”に落ち着いた。
皆で話し合い、“このコーヒーを飲む時間が癒しの時間になってほしい”との思いを込めた。
…以前キャムが言っていた。
「………コーヒーと穏やかな生活があれば良いかなって思ったんです。貴族の義務に囚われず、自分のペースで生活できたら、と」
私は彼女の望む生活をさせてあげられているのだろうか?
貴族の生活に不満は無かったが…貴族籍を離れ市井に下りた今、キャムの隣に立ってみて彼女が求めているものが何か、解った気がする。
私はこの生活を守ろう。
そしてこれからも、この穏やかで幸せな道を最愛の妻と共に歩いて行く。
fin