side1 ロクシーナ→キャメル
「ロクシーナ、私は君と離縁し新しくこのアマンダを妻に迎える!」
結婚して三年、王都へ行ったきり一度も帰って来なかった旦那様−セルジオ・カークマン伯爵−が領邸に着くなりこうおっしゃいました。
旦那様がお連れになった女性は、桃色の髪に青い瞳の可愛らしい方です。
社交界に入り浸って何をしているのかと思えば…浮気相手を見つけてきただけですか。
呆れた私は返す言葉もありません。
そんな私に旦那様は尋ねてもいない理由を述べてくださいます。
「君は領地に引き篭ったままで社交も満足に出来ない。おまけに地味だし。それに引き替えアマンダは社交が出来るし容姿も華やかだ。何より愛らしい。私の隣に立つ女性はアマンダこそふさわしい」
私が領地を離れられなかったのは旦那様(領主)が全く帰って来ないからです。領主夫妻が長期不在なんて領地経営の意思無し、と見られて領地も爵位も失いかねませんもの。
そのような事には気付いていないであろう旦那様は尚も宣います。
「私は勝手に決められたこの婚姻が不服だった!離縁手続きが済み次第、早々に去るがいい!」
−こうして私はわずかな私物といくばくかの慰謝料だけを持たされ、邸から追い出されました。
*
「…これからどうしましょうか」
実家のアーカンソー子爵家には戻りたくありませんし、心配った地とはいえ、あんな浮気者(元夫)の下にもいたくありません。
「そうだわ、クロムウェル領に行ってみましょう」
私は伯爵家での仕事で関わりのあった、お隣の子爵領へと向かうことにしました。
*****
半年後。
「いらっしゃいませ。…あら、レイナード様」
「やぁ、こんにちは。キャム」
私は今、クロムウェル領南方のニーサという街のパン屋で働いています。
そのパン屋に最近よく来てくださるこのお客様は、レイナード・クロムウェル子爵子息。
私はこの街では自分の瞳の色から取った“キャメル”という名で過ごしているのですが、なぜかレイナード様は私を“キャム”と呼びます。
カークマン伯爵家とクロムウェル子爵家は業務提携をしていたのでレイナード様とは伯爵夫人時代に会ったことがあります。
なのでレイナード様は私がロクシーナであると知っているのですが、黙っていてくださいます。
何か理由があるのかしら?
「子爵家御次男がこんなに頻繁に街に来られて…お暇なんですか?」
私は少しいじわるを言ってみます。
「この店のパンが美味しいのもだけど、私はキャムに会いたくて来てるからね」
「…っっっ」
レイナード様は黒い髪に青い瞳の美丈夫です。
「君の笑顔は私の癒しだから」
そんな方が端正なお顔でこのような事を言うものだから、私の顔はたちまち真っ赤です。
「かっ、からかわないでくださいっ!」
私ができたのは、背中を向けて赤くなった顔を隠すことだけでした。
***
「キャメル、ニコルさんの所へ配達に行ってくれないかい?」
パン屋のおかみさん−ソニアさん−が私に声を掛けます。
ニコルさんは街外れのお邸に住む御婦人です。
もとは商家の奥様なのですが、御主人を亡くされ跡を御子息に託し隠居生活をされています。
最近は足を悪くされて、お店に来ることができないのだとか。
私はソニアさんに了承の返事をし、準備を始めます。
ふかふかの食パンにソニアさんお手製の木いちごジャムをかごに詰め
「行ってきます!」
お店を出発しました。
*
「やぁ、キャム。今日はお出掛けかい?」
配達の途中でレイナード様に会いました。
「こんにちは、レイナード様。今日は街外れのお邸まで配達の日なんです」
「なるほど。これから君に会いに店に行こうかと思っていたのだけど、今日は話す時間が無さそうで残念だな。…そうだ、先日新しいカフェがオープンしたのだが、今度の君の休みに一緒に行かないか?」
「新しいカフェですか?」
「ああ、コーヒーがおすすめの店なんだ。君はコーヒーが好きだろう?」
「ええ、好きです!御一緒していいんですか?」
「もちろん。私が君と一緒に行きたくて誘っているのだから。…おっと、これ以上話していると君の配達が遅れてしまうね。じゃあ、当日は私が迎えに行くよ。デート、楽しみだね!」
最後に爆弾発言と投げキスを残して、レイナード様は颯爽と去って行きました。
「デっ、デデデデートっっっ!?」
残された私の顔が真っ赤になったのは言うまでもありません。
*
「いらっしゃい、キャメルさん。…あら?お顔が真っ赤よ?」
あの後、顔の火照りはなかなか治まらず…私は赤い顔のままニコルさんのお邸に到着しました。
侍女のマーサさんに手を引かれて玄関まで出迎えてくれたニコルさんが不思議そうに尋ねます。
「いえ…あの…ちょっと…」
私は何と答えたら良いかわからずしどろもどろ。
「…ふふっ。良かったらお茶でもいかが?少し落ちついてからお帰りなさいな」
恋愛話が大好きで、恋愛事にも敏感なニコルさん。
…何か気付いたのでしょうか?
「それで、あなたのそのお顔の原因はレイナード様なの?」
「へぁっ!?」
開口一番切り込まれた質問に、私は変な声が出ました。
「な、なぜ…?」
「だって、レイナード様の片想いは有名だもの」
「街中で噂になっていますからね」
ニコルさんに続いてマーサさんまで…
そのまま私はレイナード様にデートに誘われた事まで白状させられてしまったのです。
この日のニコルさんの恋愛話は大いに盛り上がりました。
***
「おはよう、キャム」
「…おっ、オハヨウ、ゴザイマス」
デート当日。私は緊張の面持ちでレイナード様に挨拶をします。
今日の私はニコルさんプロデュースの若草色のふんわりとしたワンピースに、髪にはワンピースと共布のリボン。肩から小さめのポシェットを掛けています。
対するレイナード様は白のシャツに黒のロングパンツ、ダークブラウンのベストとロングブーツを合わせてらっしゃいます。シンプルな服装ですが、レイナード様のご容姿が引き立てられています。
「そのような色味の服を着た君は初めて見るね。良く似合っているよ」
ス、スマートっっっ!!
レイナード様の前での私は、真っ赤になるしかできないのでしょうか?
「レイナード様も、その…素敵です」
私はその一言を返すので精一杯でした。
*
「このお味は…」
カフェに着いて早速、レイナード様おすすめのコーヒーを一杯。
その味は以前、子爵家でいただいたものと同じ味でした。
「気付いたかい?」
私が零した呟きにレイナード様が一言。
「ええ、以前子爵家でいただいたコーヒーと同じブレンドですね。あれから探していたのですが、同じお味には出会えなくて…」
「これは子爵家のオリジナルブレンドなんだ。父がコーヒー好きでね。父好みの深めのクロムブレンドと父が母のために作った軽めのウェルブレンド。君が飲んでいるのはウェルブレンドだよ」
「街のカフェで見つからなかったのはそういう事だったんですね。街のカフェのコーヒーも美味しいのですけど、やっぱりこのお味が忘れられなくて…でもなぜこのお店ではいただけるのですか?」
「この店は子爵家が出資しているんだ。子爵家のオリジナルブレンドをカフェで提供してみようと提案してね。出店地にニーサを選んだのは、この街がコーヒー豆の産地だから。…私としては君がこの街に居るというのもあるのだけど…」
「えっ?」
最後の方が小声で良く聞こえず、思わず聞き返してしまいました。
「あっ、いや、君がこの街に来てくれたのはここがコーヒー豆の産地だからなのかな?と思って。この街のコーヒーもニーサブレンドというオリジナルのブレンドなんだ」
レイナード様が少し慌てた様子で答えます。
「そうですね。伯爵家を出た時に…コーヒーと穏やかな生活があれば良いかなって思ったんです。貴族の義務に囚われず、自分のペースで生活できたら、と」
「では、今の君は貴族に戻りたいとは思わない?」
「はい。実家では貴族の生活はしていませんでしたし、伯爵家との縁も切れました。それに何より私はこの街と今の生活が好きです」
「−そうか。それを聞いて私も心が決まったよ。これから準備をするから、少しの間待っていてくれるかい?」
「えっ?何を…?」
「それは秘密」
そう言ってレイナード様は優しく微笑まれました。
***
「最近、レイナード様来ないねぇ…」
ソニアさんの呟きに私は淋しさを感じました。
あのデートの日からしばらく経ちますが、レイナード様に会えていません。
「どこか断れないお家の人との婚約話でも出ているのかねぇ…」
その言葉を聞いた途端、私の心がズキリと痛みました。
レイナード様は貴族、あり得ない話ではありません。
私はなぜその事に気付かなかったのでしょう?
レイナード様が他の女性と婚約…
辛い、苦しい、嫌だ。
ああ、そうか、私はレイナード様が好きなんだ。
私はようやく自分の気持ちに気付きました。
しかし彼は貴族。私は平民。
この想いは叶いません。
恋してすぐ失恋なんて、運命はいじわるです。
私は彼を忘れることができるのでしょうか…?
***
それからまた月日は流れ…でもレイナード様を忘れることはできず、私は心の痛みを抱えたまま。
そんなある日、ニコルさん宅の配達の帰りに掛けられる声。
「キャム、久しぶり」
レイナード様でした。
「お久しぶりです、レイナード様」
「君と話がしたいのだけど、今日時間あるかい?」
「15時に仕事が終わるので、その後で良ければ」
「わかった。じゃあ15時半に迎えに来るよ」
*
やって来たのはあの日のカフェ。
私の前にはウェルブレンド。
「もっと早く来たかったのだが、家族の説得と手続きに時間が掛かってね」
「説得…?手続き…?」
「私は貴族籍を返上して、新たに市民権を得た」
「ええっ!?」
「これからはこの街で平民として暮らすんだ」
「なぜ…?」
「…あの日、君は言ってたね。貴族の生活に戻るつもりはないと」
「…はい」
「君のその言葉を聞いて決心した。…私は君の傍で生きていきたい」
「あの、それはどういう…?」
「キャム、私は君が好きだ。結婚してほしい」
「はぇっ!?」
思わず変な声が出てしまいました。
急な展開について行けません。
…レイナード様が、私を好き…?
…結婚…?
「………!!!」
ぼぼぼぼぼっ!
状況を理解した途端、私の顔が真っ赤になったのがわかりました。
恥ずかしくて顔が上げられません。
「ずっと前から君のことが好きだった。伯爵夫人だと知っても、諦められなかった。きみが離縁したと聞いて、この街で再会した時に、最後のチャンスだと思ったんだ」
…レイナード様が平民に…?身分の差が、無い…?それほどまでに想ってくださっているの…?私はレイナード様を諦めなくていいの…?
私はそっとレイナード様のお顔を窺ってみます。
あら?レイナード様のお顔も赤らんでいるような…?
も、もうこれ以上私の顔は赤くなりませんよ…っ。
私の恥ずかしさは最高潮ですが…これほど真摯に気持ちを告げてくださったレイナード様に私もきちんと気持ちをお伝えせねば…。
「…あの、私もレイナード様のことを、お慕い…しています。レイナード様のお気持ち、嬉しい、です」
「で、では…」
「はい。レイナード様のお申し込み、お受けします」
「そ、そうか。ありがとう!…ハハッ、緊張した…」
「…ふふっ、レイナード様も緊張するんですね」
「私も人間だからね。ましてや一世一代のプロポーズだ。…ああ、私はもう貴族ではない。新しい名前はレイン・ロクスという。これからはレインと呼んでほしい。様も要らないよ」
「…わかりました、レイン。これからよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
私たちはまだほんのり赤い顔を見合わせながら、少し冷めたコーヒーを飲みました。
*****
一年後。
私たちは結婚し、レインは貴族の知識と経験を活かしてニーサの役所で働いています。
なんとクロムウェル産の新しい磁器が完成したそうで、ニーサの新しいコーヒーブレンドと共に売り出すのだと張り切っています。
彼が“キャメルブレンド”と名付けようとした時は必死に止めました。恥ずかしすぎるのでやめてください。
私は今もソニアさんのパン屋で働いています。
新たにカフェコーナーもできて、今ではレインはじめ役所の皆さんは常連さんです。
忙しくも充実した日々。
出会いに恵まれ、愛情と和らぎを得て、私は今とても幸せに暮らしています。
***
「…レイン、貴方私にプロポーズする前に貴族籍を返上してたけど…私がプロポーズを受けなかったらどうするつもりだったの?」
「君に夢中すぎて、そこまで考えてなかったよ」
「…っっっ!」
彼は私を真っ赤にさせないと気が済まないのでしょうか?
fin