増幅器男
社会のノイズ増幅器男の存在、本質を見極めなければ俺たちは生きていくことができない。それを知れ。
奴の名は、増福鬼 一之助。どんな男かと聞かれれば、まずはこう答えるだろう――とんでもないクチャラーだ。だが、ただのクチャラーではない。奴が一度でも口を開けば、その咀嚼音は地獄の門から這い出てきた悪鬼の叫びの如く響き渡る。ミンミン、バリバリ、ジュルジュル。まるでセミの大群が夏の空を埋め尽くすかのように、増福鬼のミンミン音は街中を震え上がらせるのだ。
一之助は、どこにでもいるような25歳の男でありながら、その実、どこにでもいない。奴が現れる場所には必ず騒音が巻き起こり、平穏を求める者たちの間に戦慄を与える。奴の食事音が耳に入れば、たちまち周囲の人間は眉をひそめ、顔を歪め、早々に退散する者も少なくない。噂では、近所の定食屋が奴の音に耐えかねて閉店に追い込まれたという話まである。そんな男が増福鬼 一之助だ。
だが、増福鬼自身は周りの反応など意に介さない。むしろ、その不快な音を自ら楽しんでいる節さえある。奴にとって“ミンミン音”とは、日々の退屈をぶち壊す唯一の快楽なのだ。人々の不快な表情、店主の呪いのような罵声、そして逃げ惑う客たち――それらすべてが奴にとっては、ただただ愉快な「音楽」なのかもしれない。
仕事も適当にこなしているように見えるが、実際のところ何をしているのかは定かでない。奴の存在そのものが社会のノイズのように、曖昧で、曖昧ゆえに不確定な存在感がある。奴はただその不協和音の中で生き、笑い、食べ、そしてミンミンと音を立て続ける。まるでこの世の全てを食い尽くそうとしているかのように。
彼の生活には秩序も規則もない。ただ一つあるのは、いつでもどこでもミンミンと音を立てて食うこと。増福鬼 一之助は、今日もどこかの食卓で、蝉のようにミンミンと鳴き続けるのだ。その異様な音が止むことはない。それは奴の生きる証、そして他人にとってはただの騒音でしかない。
その日、一之助は朝から異様に高揚していた。通勤ラッシュの電車内こそ、彼のステージだ。すし詰め状態の車内で、彼の「ミンミン音」がいかに不協和音を奏でるか、その狂気のパフォーマンスが頭を駆け巡る。スーツ姿のサラリーマンたち、化粧を完璧に仕上げたOLたち、学生たちが詰め込まれた箱の中で、彼はまるで観客に囲まれたロックスターのように感じていた。
駅のホームで待つ間、彼は背中のリュックをゴソゴソと漁りながら、密かに「準備」を始める。出てきたのは、ビニール袋に詰められた大量のピーナッツ。それは安っぽいコンビニのものだが、彼の手にかかれば、もはや一種の楽器と化す。「バリバリ」「ポリポリ」。一之助はピーナッツを口に放り込み、咀嚼の音を自らの魂に刻み込むように、音を立て始めた。
そして、いよいよ電車の扉が開いた瞬間、一之助は車内に乗り込んだ。まるで彼自身が電車のエンジン音そのものになったかのように、「ミンミン、バリバリ、ジュルジュル」。一瞬にして車内の空気は凍りついた。人々の顔には驚愕の色が広がり、眉間にシワが刻まれる。だが、一之助の顔には狂気の笑みが浮かんでいる。彼は音を止めない。いや、それどころか、さらにその音を増幅させるのだ。
「ねぇ、ちょっと静かにしてくれない?」隣の席に座る中年の女性が、眉をひそめて声をかける。だが一之助は振り返り、まるで無視したかのように再びピーナッツを頬張る。「ミンミン、ジュルジュル」。女性の顔が青ざめていく。車内はすでに一種の戦場だ。乗客たちは一之助の異常さに耐えかね、距離を取ろうと必死だ。
だが、一之助は怯まない。彼の心の中では、自分がこの電車の支配者であり、その支配を強固にするために、さらなる「音」を求めている。次なるアイテムを取り出す――それは、巨大なポテトチップスの袋だ。彼は袋を無造作に引き裂き、その中から一枚一枚を取り出しては口に運び、音を立てながら食べ始めた。「カリッ、バリッ、ジュワッ」。音の強度が増し、まるで車内全体が共振するかのようだ。
「おい、いい加減にしろよ!」若い男が耐えかねて叫ぶが、一之助の反応は笑い声だ。「ハッハッハ!お前も聴け、このオレのアンプサウンドを!」叫ぶ男の顔は怒りに染まるが、その怒りは一之助には届かない。むしろ、それが彼の狂気にさらに火をつける燃料となっているのだ。
そして、その瞬間だ。突然、電車の揺れが激しくなり、一之助の持つポテトチップスの袋が宙を舞った。「オレのチップス!」と叫びながら一之助は袋を追うように立ち上がり、その体がまるでバネのように飛び跳ねる。乗客たちの驚愕の表情の中、袋は天井にぶつかり、中身がばらまかれる。車内は一瞬でポテトチップスの雪景色と化す。
しかし、一之助は止まらない。「これがオレのアンプ道だ!ミンミン、バリバリ、ジュワジュワ!」彼はポテトチップスの破片を拾い上げ、再び口に運び、無理やり音を立てる。まるで世界がその音に包まれたかのようだ。
乗客たちはパニックに陥り、電車のドアが開くやいなや、まるで逃げるように次々と降りていく。だが一之助は笑いながら、「次はどこでアンプを鳴らすか…楽しみだな」と呟いた。
その目は、すでに次なる標的を見据えているかのようだった。奴のミンミン音が止むことはない。人々が逃げ惑うその瞬間こそ、増福鬼 一之助の真の生き様が輝くのだ。
彼の「アンプ道」は、まだ始まったばかりだ。
ヌーン