過去からの脱出
「あの時は助けてくれてありがとうございます……翔さん!」
そう言いながら差し出された、
俺の中学時代の学生証を見た瞬間、
胸の奥に溜まっていたものが一気に溢れ出した。
……そうだ。
俺は、あの日のことを忘れていた。
どうして、
こんなに大事なことを忘れてしまっていたんだ。
頭の中で、
バラバラだった記憶のピースが、
カチリと音を立ててはまる。
駅のホーム。
泣きそうな顔をした女の子。
何も考えず、ただ体が動いた、あの日の光景。
年月が経っているはずなのに、
学生証は当時のまま、綺麗な状態で保管されていた。
それだけで、
菜々がどれほど大切にしてきたのかが、痛いほど伝わってくる。
「……気付けなくて、ごめんな。
それと……ありがとう」
俺がそう言って受け取ると、
菜々は満面の笑みで、何度も頷いた。
……守りたい。
こんな笑顔をする子が、
これ以上苦しい思いをしていいわけがない。
「菜々、俺の家に来ないか?」
「……え?」
母さんがどう言うかは分からない。
でも、この家にこの話を聞いた上で、
菜々をここに置いておくなんて、できるはずがなかった。
「で、でも……
翔さんのお母さんとか、私のお母様とか……色々……」
「全部、大丈夫だ。
とにかく、俺の家に来てから考えればいい」
俺がそう言うと、
菜々は目に涙を浮かべながら、ゆっくり頷いた。
……ここからが大変だろうな。
菜々のお母さんの反応もそうだし、
一緒に住むって聞いた夏樹や結衣の反応も、
きっと嵐みたいになるだろう。
それでも――
なぜか、全てが上手くいく気がしていた。
「とにかく準備しよう。
家、近いし。運ぶの手伝うよ」
「……ありがとうございます!」
◆
キャリーケースや鞄に荷物を詰め、
家出の準備を終えた俺たちは、玄関へと向かっていた。
他愛のない話をしながら靴を履いている、その途中――
玄関の戸が、音を立てて開いた。
……やっぱり、そう簡単にはいかない。
そこに立っていたのは、
菜々の母親だった。
最悪のタイミング。
二人きりでいるところを、
しかも荷物をまとめて出て行こうとしている場面で、
鉢合わせてしまった。
「菜々!
何してるの!?」
怒声が、玄関に響き渡る。
聞いていた通りのヒステリックな声に、
俺は一瞬、身構えた。
……このままなら、強行突破も視野に入れた方がいい。
「はじめまして。
菜々を、今から俺が家に連れて帰りますので」
「はぁ!?
アナタ、そもそも誰よ!
意味の分からないことしないでくれない!?
ウチの――」
「お母様!!」
俺の言葉にさらにヒートアップしかけた母親だったが、
菜々の叫び声に、思わず言葉を詰まらせた。
「もう、やめてください!
あの頃の優しいママはどこにいるの!?
私は、もうここには居たくない!
翔さんと二人で、幸せになります!!」
そう叫ぶと、
菜々は靴を履き、扉の前に立つ母親を無理矢理押しのけた。
突然の出来事に、
母親は呆然と立ち尽くし、顔面蒼白になっていた。
……そりゃそうだ。
言い方的に、
今すぐ結婚でもするのかと思われてるだろう。
まあ、今はそれでもいい。
この場を切り抜けられるなら。
その流れに乗って、
俺も母親の横をすり抜け、外へ出た。
外に出ると、
菜々は満面の笑みで振り返り、
「行こ!」
そう言って、キャリーケースを引きながら駆け出した。
家までの距離は、徒歩四分程。
ふざけながら走っていると、
あっという間に俺の家に着いた。
玄関の戸を開けると、
靴がきちんと揃えて置いてある。
……母さん、もう帰ってるな。
「あら、おかえり〜」
「ただいま〜」
そう返すと、
母さんがエプロン姿でリビングから顔を出した。
「お邪魔します!」
母さんを見るなり、
菜々はそう言って、深く頭を下げた。
時刻はすでに十九時。
こんな時間に女の子を連れて帰ってきた俺を見て、
母さんは一瞬だけニヤッとしたが、
荷物の多さに、すぐ何かを察したようだった。
荷物を俺の部屋へ運び終え、
事情を説明するため、リビングへ戻る。
戻ると――
すでに菜々と母さんが、仲良さそうに話していた。
……ほんと、
誰とでも打ち解けるの早すぎだろ、この人。
「母さん、話……あるんだけど」
「どうしたの?」
切り出しにくさに一瞬ためらったが、
渋っていても仕方ない。
俺は腹を括った。
「ちょっと色々事情があってさ。
菜々、ウチに住まわせてあげたいんだけど……大丈夫?」
「いいわよ」
……え?
「え?」
「なに?
いいわよって言ったの」
「そ、そんなすんなり!?」
母さんは笑いながら、さらっと言った。
「菜々ちゃん、話してみていい子だし。
何か事情があるんでしょ?
アンタも普段から世話になってるし、別にいいわよ。
……まあ、理由はちゃんと聞くけどね」
「ありがとう母さん!」
「翔さんのお母様、ありがとうございます!」
懐が広すぎる母さんに、
俺も菜々も、思わず深く頭を下げた。
そして、三人でリビングの席についた。
◆
事情を全て話し終えると、
母さんは泣きながら、菜々を強く抱き締めた。
……やっぱり、涙脆さは遺伝か。
「菜々ちゃん、本当に偉いね。
もう、ずっとここに居なさい」
「向こうの親が何か言ってきても、
お母さんが全部対処してあげるから」
「は、はい……!
ありがとうございます……!」
その光景を見て、
少し強引だったかもしれないけど、
連れてきて本当に良かったと、心から思った。
「私のことは、お母さんって呼んでいいからね」
「はい!
よろしくお願いします、お母さん!」
「あ〜、可愛い!」
そんな平和な空気の中――
インターホンの音が、部屋に響いた。
……嫌な予感しかしない。
モニターに映ったのは、
予想通り、菜々の母親だった。
……まあ、このまま引き下がるわけないよな。
対応しに行こうとした俺を、
母さんが静かに止めた。
「アンタは菜々ちゃんと話してなさい、私が何とかしてきてあげる」
そう言って立ち上がった母さんの顔は、
いつもの優しい表情ではなかった。
その目は――
はっきりと、怒りに満ちていた。
◆
怒りに満ちた表情で玄関を開けた母さんは、開口一番、菜々の母親を怒鳴りつけた。
「このバカ女が! あんたみたいなやつに親の資格はない!
子供の未来を潰すような親は、出直してきな!」
母さんはそう言うと、菜々の母親の話を聞くこともなく、再び扉を荒々しく閉めた。
……カッコよすぎる。
自分の母親の背中に、思わず惚れそうになる。
流石、俺の母さんだ。
その男勝りなところは一度目の人生から変わってない。
いや、むしろ鋭さが増してるまである。
「よし! ご飯にしよう!」
母さんはそう言って、いつもの優しい顔と口調に戻り、キッチンへ向かった。
菜々の母親は突然の出来事に呆気にとられたのか、それ以上事を荒らげることはなかった。
母さんが夕飯の準備をしている間、俺たちは菜々が持ってきた荷物を整理するため、自室へ向かう。
勢いで決めてしまったが……今日から同じ屋根の下で女の子と暮らすのか。
荷物置きにしている部屋を片付けて菜々の部屋にする……という案も一瞬浮かんだが、
結局のところ荷物が溜まりすぎていて、片付けるのはほぼ不可能。
つまり、消去法で――菜々が寝られる場所は俺の部屋しかない。
俺、襲われないよね……?
「翔さんのお母さん、カッコいいですね。流石、翔さんのお母さんって感じです!」
そう言って上機嫌に荷物を整理する菜々。
毒親とはいえ、いきなり離れ離れになったんだ。少しは寂しい気持ちとか、思うところがあるんじゃないかと思っていたが――
そんな心配は、菜々の表情を見た瞬間に吹き飛んだ。
「だろ? 自慢の母さんだよ、ほんとに」
◆
やがて荷解きを終え、三人でワイワイ食卓を囲み、夕飯を食べ終える。
菜々がお風呂へ行っている間、俺は母さんと話をしていた。
「急なこと言ってごめんな、母さん。
でも俺の中で、それしか考えられなくてさ」
「大丈夫よ。翔が優しい子に育ってくれて、母さん嬉しい。
私でも多分、同じことしてたと思うしね」
申し訳なさそうに言う俺に、母さんは微笑みながらそう返した。
……そうだ。これが普通の家庭の母親ってもんだ。
俺のやったことに間違いはなかった。母さんのおかげで、より一層そう確信できた。
その後、それぞれ入浴やらを済ませ、寝室へ移動する。
もちろん菜々は俺の部屋だ。
俺は敷布団を敷いて床で、菜々は俺のベッドで寝ることにした。
準備が整い、布団へ入って眠ろうとする――が、すんなり寝られるはずもない。
人生初の“女の子と過ごす夜”。
心臓がバカみたいに脈打っている。
別に何もする気もない。起こるはずもない。
……のに、こうなるのが男の性ってやつなんだろうな。
そんなことを考えながら無理やり目を閉じ、俺は眠りについた。
翌朝。携帯のアラームで目を覚ますと――
俺の隣に、俺に抱きついて眠っている菜々の姿があった。
「お、おおおおおい!!!」
思わず漏れる叫び。
「うわぁ! びっくりしましたよ、もう」
俺の叫びに菜々は飛び起きたが、特に気にした様子もなくそう言った。
……びっくりしましたよ、じゃねぇ。
「な、な、なんで隣で寝てんの!?」
明らかに動揺して震える声。
自分がバキバキ童貞すぎて嫌になるが、いや待て、この状況で何も言わない男の方がいねぇだろ!
そう自分に言い聞かせた。
「ん〜……ちょっと寂しくて」
菜々は少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、下を向いた。
……まあ、そりゃそうか。昨日あんなことがあったんだし。今日くらいは許してや――
「まあ、全然嘘で。翔さんと寝たかっただけなんですけど」
「馬鹿野郎! 許すか!!!」
◆
朝食と支度を終え、時刻は八時前。
今日は部活の朝練がある。もうすぐ夏樹たちが迎えに来るはずだ。
……ん?
……夏樹たちが?
……迎えに?
やっっっっっっべぇ状況じゃねぇか!!!
そうだ。俺と菜々は二人で家を出なきゃいけない。
同じ家、同じ部活。時間をずらす……も、もう手遅れ。
なんで俺、これが思い浮かばなかったんだ……!
焦り散らかしていると、無情にもインターホンが鳴り響く。
「翔さん! 夏樹さんたちですよ! 行きましょ〜!」
なんでお前はそんなノリノリなんだ。
事の重大さに気付いてないな? 俺、死ぬかもしれないんだぞ?
……だが、いくら考えても埒が明かない。
俺は母さんに「行ってきます」と伝え、玄関の扉を開けた。
「翔、おはよ……う」
俺と菜々が並んで姿を現すと、結衣は途中まで出ていた言葉を飲み込み、
夏樹は目が完全に点になっていた。
「あの、待て。お前ら、これには事情が――」
「翔さんと一緒に住むことになりました! 木下 菜々です! お見知り置きを!」
ぁぁぁぁああ終わった!
終わりました!
ていうかなんで名前、木下!? 結婚したわけじゃないだろ!!!
それを聞いた二人の表情は、見るまでもなく殺意で満ちた顔だった。
「話、聞かせろや……翔」
「内容次第で殺すよ、翔くん」
ひぃい!!!
そう言う夏樹と結衣を尻目に、菜々は満足そうな顔で二人の間をすり抜け、朝練へ向かった。
あの馬鹿野郎、言い逃げしやがった……!
「理由が! 理由があるんですぅ!!!」
住宅街に響き渡る、俺の情けない声。
今日も朝日ヶ丘は、変わりなく平和だ。




