傷跡
翌朝、携帯のアラームで目が覚める。
母さんは今日の夜に帰ってくる予定らしい。
(やっと母さんのうまい飯が食える……)
そう思っただけで、口元が勝手にニヤけた。
「はぁぁ〜……眠たぁ……」
大きく欠伸して背伸びをし、支度を始める。
さすがに今日の朝は何か食わないと、また倒れる未来しか見えない。
教科書を鞄に詰めて制服に着替え、せっせとリビングへ――
「あ……」
キッチンに立った瞬間、思い出した。
(食洗機にぶち込まれてる、昨日の皿……)
トースト焼いてる場合じゃない。
露骨にテンションが下がる。だが――
(今日一日頑張れば、夜は母さんの飯だ)
そう思えば、なんとかモチベは戻った。
俺は食洗機の中の皿を一枚ずつ、丁寧に食器棚へ戻す。
思ってたより量が多くて軽く絶望しつつも、作業は進む。
(昨日……楽しかったな)
そんなことを考えていると、いつも通りインターホンが鳴った。
「はいよー」
鞄を掴み、玄関を開けて外に出る。
「おはよう翔!」
「おっはー!」
「おはようございます、翔さん!」
――そこには、ヤンデレ三人組が満面の笑みで立っていた。
「お、おはよう……? こりゃまた大勢で」
いつもは夏樹だけなのに、結衣と菜々までいる。
昨日で家の位置を把握されたのだから、まあ、こうなるとは思っていたけども。
「大丈夫だったか?」
心配そうに眉を下げる結衣。
「全然大丈夫。完全ふっかーつ!だ!」
親指を立ててグッとやると、三人の顔に安心した笑顔が戻った。
そのまま、四人で学校へ向かって歩き出す。
通学途中、他の男子の視線が痛いほど刺さるが――これももう慣れるしかない。
◆
俺が倒れてから三日。
それからは倒れることもなく、大きなトラブルもなく、平和な学園生活を楽しんでいた。
……まあ、例の三人のおかげで多少のイレギュラーはあるが、許容範囲内だ。
部活も、倒れた翌日から普通に出られている。
あの日が嘘みたいに身体が軽い。
前世じゃ走るどころか生きるだけで精一杯だったから、ついていけるか心配していたが――
驚くほど陸上部の生活に馴染んでいった。
夏樹は順調にマネージャー業を覚え、
結衣も楽しそうに走り、
菜々は未経験とは思えない勢いで吸収して、どんどんタイムを縮めている。
ただ一つ、気がかりがあるとすれば――
この三日、二年の蓮と颯太のヤンキー二人が、一度も部活に来ていないことだ。
(まあ、サボってるだけだろ)
正直、いない方が平和で助かってる部分もある。
そして今。
部活が終わり、三人と一緒に帰路についていた。
今日は金曜日。
明日は朝練があって、それを越えれば日曜で休み。
二度目の高校生活でも、平日はやっぱ長い。
乗り越えた俺のテンションは、自然と上がっていた。
「明後日の休み、どっか行かない?」
夏樹の一言で――修羅場が確定した。
「おい!抜け駆けしてんじゃねぇよ!」
「そうです!ありえないです!」
ほら見たことか。
火がついたおバカ二人が、予想通り声を荒らげる。
(夏樹……絶対ちょっと悪意あっただろ)
俺はため息をつきつつ、先を歩いた。
「……ッ、いたっ!」
ふと、菜々の悲鳴。
「は?」
振り返った瞬間、理解が追いつかない。
路地から現れた颯太が、菜々の手首を掴んで引っ張っていた。
「明後日、俺と出かけりゃいいじゃん。菜々ちゃん」
不敵な笑み。
結衣と夏樹は呆気に取られて動けない。
(動けるの、俺しかいない)
俺は菜々のもとへ駆け出した。
颯太に手を伸ばし、掴もうとした――その瞬間。
右頬に、激痛。
凄まじい衝撃で身体が回り、地面に倒れ込む。
「はっ。クソガキが調子乗りやがって」
視線の先に、蓮。
俺を殴り飛ばして、満足気な顔をしている。
(最初から……路地で待ってたのか)
「夏樹ちゃんと結衣ちゃんは、俺ね〜」
気持ち悪いことを言いながら、蓮が二人に手を伸ばす。
「お前、殺す」
俺が殴られたことで、結衣のスイッチが入った。
次の瞬間――
結衣の蹴りが綺麗な弧を描き、蓮の顔面に直撃した。
「いってぇ! テメェ!」
普通なら一発で倒れる。
でも蓮は、喧嘩慣れしてる。倒れない。
「夏樹! 警察呼べ!」
俺は起き上がり、叫んだ。
結衣も菜々も、完全にブチ切れかけている。
ここで夏樹まで巻き込まれたら終わる。
夏樹は一瞬固まって、すぐに頷く。
携帯を耳に当てながら走り出した。
「おい! ちょっと待て!」
慌てた颯太が、菜々を乱暴に押し退けて夏樹を追う。
「いった……!」
菜々が地面に倒れ、二の腕を擦って出血する。
「颯太! ちょっと――」
蓮も焦ったのか追おうとしたが――
その途中で、蓮の顔面に綺麗な飛び蹴りが炸裂した。
「結衣さん?だっけ。いい蹴りしてんじゃん」
声の主は、柊。
蹴り飛ばされた蓮は背中から倒れ、そのまま気絶。
鼻から血が垂れていた。
(なんで柊が――)
疑問が浮かぶより先に、俺は颯太の方を追おうとして振り返る。
「いぇ〜い!」
そこには――地面に伸びてる颯太。
その上に座り込んで、ピースしてる響。
隣で身を潜めてる夏樹も無事っぽい。
「お前ら……なんで……違う! 菜々!」
俺は菜々のもとへ駆け寄る。
「大丈夫か!?」
傷の確認をするため、腕を取って服をめくろうとした瞬間――
菜々が、震える声で止めた。
「……ちょっと待って。ダメです……」
「今はそんなの気にしてられないだろ!」
俺はそのまま、二の腕の傷を確認した。
……擦り傷。
そして、その下に。
刃で刻んだような白い線が、幾重にも。
呼吸が止まった。
頭の中で、何かが軋む音がした。
◆
俺はその傷跡を見た瞬間、
見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われ、一瞬、動きが止まった。
傷を見られた菜々は、俺と目を合わせようとせず、俯いたまま黙り込む。
その姿を見て、ようやく我に返った。
――違う。
固まってる場合じゃない。
一番苦しいのは、見られた菜々の方だ。
一瞬でも動けなくなった自分に嫌気がさしながら、俺は意識を切り替え、傷の手当てに集中することにした。
「これ使って」
そう言って結衣が差し出してきたのは、消毒液と絆創膏だった。
この三人の中で一番男勝りな結衣が、こんな時にさっと気遣いを見せるのが意外で、少しだけ胸が温かくなる。
「ありがとう」
短く礼を言い、それを受け取って、菜々の腕に触れる。
出来るだけ優しく、慎重に。
「菜々、大丈夫か?」
「……はい」
返事はあった。
けれど、そこにいつもの明るさはなく、今にも消えてしまいそうな、か細い声だった。
胸が、ちくりと痛む。
「翔〜! 夏樹ちゃんもちゃんと無事だぜ〜!」
その空気をぶち壊すような、響のやかましい声が響く。
視線を向けると、夏樹と並んで手を振りながら、こちらに歩いてきていた。
……そうだ。
この二人にも、ちゃんと礼を言わなきゃな。
「柊も響もありがとう。マジで助かった。
……でも、なんでここに?」
「全然〜。なんかコイツらコソコソしてて怪しかったからさ。
何企んでんのか気になって。とりあえず学校に報告しとかないとな」
そう言いながら、柊は気絶している蓮の頬を思い切り叩いた。
パァン、と乾いた音。
「ッ……てめぇ、この間の一年のガキ!」
頬にくっきり手形を残したまま、蓮が目を覚ます。
どうやら以前から柊と面識があるらしい。
「知り合いなのか?」
「空き教室占領してた時に居たから、一回ボコしただけ」
……なるほど。
可哀想に……いや、やっぱり自業自得だな。
「じゃ、俺らこいつら連れて学校に報告してくるわ。
まだ開いてるだろうし。
悪いけど、夏樹ちゃんと結衣さんも来て」
「「えー!?」」
二人が見事に声を揃えて顔を見合わせる。
「“えー”じゃない。証人いるし、菜々さん怪我してるんだから当たり前でしょ」
まさか柊から、こんな正論が飛んでくるとは思わなかった。
正直、少し感動してしまった。
渋々文句を言いながら、夏樹と結衣は柊たちと一緒に学校へ戻っていく。
ビンタされて起こされた蓮はともかく、引きずられながら連れていかれる颯太が、少しだけ哀れに見えた。
……まぁ、完全に自業自得だけど。
「菜々……帰ろう」
そう声をかけると、菜々は小さく頷いた。
再び歩き出した帰り道。
さっきまでの賑やかな雰囲気は消え、氷のように冷えた沈黙が続く。
――どうする。
菜々が自傷行為をしているなんて、夢にも思わなかった。
けれど、その気持ちは、俺にも分かる。
前の人生で、俺も似たところまで追い詰められたことがある。
だからこそ、余計に胸が痛んだ。
空気をどうにかしたい。
でも、どんな言葉も浮かばない。
……なら。
ええい、ままよ。
俺は菜々の手に、そっと自分の手を伸ばし、握った。
「っ……!」
突然のことに、菜々の肩がびくっと跳ねる。
みるみる顔が赤くなり、恥ずかしそうに俺とは逆の方を向いたまま歩き続ける。
俺も、顔が熱くなっていくのが分かった。
多分、同じような顔をしている。
うるさく脈打つ心臓を必死に抑える。
……これ、ワンチャン悪化してないか?
そんな不安とは裏腹に、菜々はその手を、ぎゅっと握り返してきた。
数分後、俺の家が見え始めた頃。
ようやく菜々が口を開く。
「……家、来ませんか?」
心臓が、さらに早鐘を打つ。
体の奥から、熱が込み上げてくる。
「……行く」
人生二度目の、女の子の家。
胸は高鳴るが、脳裏には先ほど見た傷跡がちらつく。
俺は、この子を少しでも楽にしてやれるだろうか。
……いや、もう見てしまった以上、見なかったふりは出来ない。
そんなことを考えているうちに、菜々の家の前に着いていた。
「あはは……手、びっしょりですね」
繋いでいた手を離しながら、菜々が笑う。
言われて初めて気付いた。
確かに、手汗でびちゃびちゃだ。
……そりゃそうだ。
人生でまともに女の子と手を繋いだことなんて、ほとんど無い。
菜々は鍵を開け、俺を中へ招き入れる。
そのまま再び手を引かれ、部屋へと案内された。
「……え?」
扉を開けた瞬間、俺は言葉を失った。
勉強机と布団だけの、簡素な部屋。
その壁一面に貼られた、無数のスケジュール表とテストの点数表。
「陸上辞めろ」
そんな言葉が書かれた紙まで、無造作に貼られている。
中でも目を引いたのは、休日用のスケジュール表だった。
――朝四時起床。
――三十分で朝食。
――十八時まで勉強。
――三十分で夕食。
――深夜一時まで勉強。
――就寝。
……異常だ。
一目見ただけで分かった。
菜々の親は、間違いなく“毒親”だ。
「何も無い部屋だけど……適当に座って。
今日、お母さん帰って来ないから……心配しなくて大丈夫だよ」
菜々はそう言って、床に座り込んだ。
「……菜々のこと、ちゃんと聞かせてほしい」
考えるより先に、言葉が出ていた。
学年トップの成績。
何でも器用にこなす優等生。
そして、ヤンデレ。
俺は、この子のことを、何も知らない。
「全部受け止めきれるかは分からないけど……
俺で良かったら、話してほしい」
その瞬間――
「……っ……ぁ……わぁぁぁぁぁ……!」
菜々は一瞬固まり、次の瞬間、堰を切ったように泣き出した。
大粒の涙を零し、声を上げて泣く。
普段の明るい姿からは、想像も出来ないほどの泣き方だった。
俺は何も言わず、菜々を抱き締める。
「……っ……ご、ごめん……ありがとう……」
しばらくして、ようやく落ち着いてきた菜々が、そう呟いた。
そして――
菜々は、自分の“闇”を語り始めた。
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