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夏休み最終日

海水浴場を出た頃には、空がもう夕方の色になっていた。


昼間の青は薄く溶けて、オレンジと紫がゆっくり混ざり合っていく。


潮の匂いがまだ髪に残っていて、砂の感触が足裏に貼りついている気がした。


さっきまで、あれだけ騒いでいたのに。

今は電車の揺れが妙に心地よくて、窓に映る自分たちの顔が、少しだけ大人びて見える。


眠気とも違う。

疲労とも違う。


ただ、満たされた後にだけ残る、ふわっとした空白。


「……はぁ」


翔は息を吐いて、窓の外を見た。


夕焼けが街を染めていく。

今日の海の光が、まだ目の奥に残っている気がした。


(楽しかったな)


脳内で反芻するだけで、胸が少し温かくなる。


色々あった。

笑って、走って、食って、騒いで、最後には一瞬、背中が凍るような空気も流れた。


――でも結局、全部ひっくるめて「良い日」だったと思えるのが不思議だった。



駅から歩いて、翔の家の前に着く頃には、空はもう薄暗くなり始めていた。


街灯がひとつ、またひとつと灯り、家々の窓に明かりが増える。


玄関前。


ここが、今日の解散地点になった。


「じゃ、ここで解散な!」


響がいつもの声量で言う。


「近所迷惑」


結衣が即座にツッコむ。


「いいだろ、今日くらい!」


「今日くらい、って毎日言ってない?」


「細けぇなぁ!」


響が笑うと、夏樹もつられて笑った。


「ほんと、今日一日濃かったね〜」


「濃すぎたなぁ」


結衣は腕を組みながら、だけど口元は緩んでいる。


菜々はタオルバッグを抱えながら、少しだけ名残惜しそうに周りを見渡した。


「……楽しかったですね」


「だな」


翔が短く返すと、菜々の表情が少し柔らかくなる。


その隣で、陽菜がサングラスを外し、静かに髪を耳にかけた。

夕焼けの光が、横顔の輪郭をやけに綺麗に縁取っていた。


(……やっぱ、綺麗だなこの人)


翔が思っていると、陽菜がこちらを見て、小さく笑った。


「じゃあ、私はここで」


「え、陽菜さん一人で大丈夫?」


夏樹が心配そうに言う。


「大丈夫。言うても近いから」


淡々とした返答。

でも、その声には今日一日の柔らかさが混じっているように聞こえた。


「また部活でお願いします」


結衣が言うと、陽菜は少しだけ首を傾げた。


「……学校、もうすぐだね」


「うわ、その言い方やめて下さい。現実すぎます」


結衣が露骨に嫌そうな顔をする。


「明後日からだぞ。死ぬ〜」


響がわざとらしく倒れ込みそうになる。


「死ぬな」


柊が淡々と止める。

いつも通りのやり取り。

それだけで、安心する。


「じゃ、またな」


響が拳を軽く突き出し、翔がそれに合わせる。


「おう」


柊も黙って拳を合わせて、短く頷いた。


夏樹と結衣は二人で帰路につく。

陽菜は一人で、夕焼けの道をゆっくり歩き出す。

響と柊も、なんとなく並んで歩き出した。


そして――


翔と菜々は、家の中へ。

玄関の鍵を開ける音が、やけに現実っぽく響いた。


◆ side:夏樹・結衣


夏樹と結衣は、夕焼けの帰り道を並んで歩いていた。


海水浴場の喧騒が嘘みたいに、住宅街は静かで、蝉の声が余計に耳に入る。


さっきまで肌にまとわりついていた潮風が、今はもう薄くなっていて、代わりに夜の匂いが近づいてくる。


「は〜……楽しかった」


結衣が素直に言う。


「ほんとだね〜」


夏樹も頷く。


「めっちゃ疲れた。明後日から学校とか無理すぎるよ」


「マジでそれな……宿題もやってない」


「私も……」


二人で笑う。

笑いながら、同時に「終わっちゃうんだな」と思う。


夏の後半。

一生続いて欲しいとさえ思った夏休みが、確実に終わりに向かっている。


結衣がぽつりと言った。


「……てかさ」


「ん?」


「陽菜さん、バチバチに可愛かったな」


夏樹は即答する。


「ほんとそれ……負けを認めざるを得ない。あれは」


「だよな……チートすぎ」


「大人っぽいのに、変に距離感近いし」


「あれはズルい」


結衣は頬を膨らませる。


でも、その不満の奥にあるのは、ただの“可愛さへの嫉妬”だけじゃない。


夏樹もそれを分かっていて、わざと明るく言葉を続けた。


「でも、結衣も今日すごかったじゃん」


「は?どこが」


「水かけて沈められてたとこ」


「それは恥だろ!」


「でも必死な結衣、可愛かったよ」


「……は!?なに言って――」


結衣が顔を赤くして否定しようとする。

その瞬間、二人の頭に同じ映像がよぎった。


――翔の上裸。


普段の制服やジャージじゃない。

海の光の中で、無防備に笑って走る姿。


(……初めて見た)


結衣は咳払いをして、視線を逸らす。


「……まあ、今日の翔、ちょっとだけかっこよかった」


「うん」


夏樹も小さく頷く。

声が、少しだけ柔らかくなる。


「……ちょっとだけ、ね」


「ちょっとだけ」


同じ言葉を繰り返しながら、二人とも自分の心を誤魔化しているのが分かる。


でも、それでいいと思った。


十字路が見えてきた。

いつもの分かれ道。


「じゃあ、ここで」


夏樹が言う。


「うん。また学校で」


結衣が言う。


「……宿題、やっとけよ」


「結衣ちゃんもだよ」


夏樹は笑って手を振った。

結衣も軽く手を上げて応える。

それぞれの家へ向かう背中が、夕焼けの中に溶けていく。


二人とも、歩きながら口元を抑えた。

にやけを誤魔化すために。


◆ side:陽菜


陽菜は一人で歩いていた。


街灯が灯り始めた道。

遠くから聞こえるテレビの音。

家の前を通り過ぎるたび、夕飯の匂いが漂ってくる。

なのに、陽菜の頭の中はずっと、海のままだった。


(楽しかったな)


波の音。

砂の熱。

みんなの笑い声。


そして――


(……翔、かっこよかった)


二の腕を掴まれた瞬間の怖さ。

空気が凍った感覚。

その次の瞬間、迷いなく動いた翔。


「誰の女に手出してんすか?」


あの言葉の破壊力を、陽菜は今さら思い出してしまって、歩きながら頬が熱くなる。


(……私、ほんとに)


自分がこんなにも感情に振り回されるなんて、少し前まで想像できなかった。


好きだと伝えてから、色んな感情が止まらない。

嬉しいとか、恥ずかしいとか、寂しいとか、期待とか。


「待つ」って決めたはずなのに、待っている間にどんどん心が増えていく。


陽菜は小さく息を吐いた。


(私、変わってきてる)


悪い変化じゃない。

むしろ、ずっと眠っていた何かが、少しずつ動き出しているみたいだった。


街灯の下で立ち止まり、陽菜は空を見上げた。

夕焼けの名残が、まだ薄く残っている。


(……私の卒業までには)


答えを、聞かないと。


逃げるつもりはない。

ただ、決めたい。

自分の気持ちが、どこへ向かうのかを。


陽菜は軽く笑って、また歩き出した。


◆ side:響・柊


響と柊は、帰り道の途中でコンビニに寄った。


「アイス食うぞ!」


響が言い、柊は「好きにしろ」と言う。


結局、二人ともアイスを買って、コンビニ前の段差に座った。


夕方の風が、汗を冷ましていく。

アイスの冷たさが、頭の熱も少し下げる。


「にしても、たのしかったな」


響が素直に言う。


「だな」


柊も頷いた。


「つい俺もハメ外したわ」


「だよな!お前が泳いでるの見て、俺びびったもん」


「泳ぐのは別に普通だろ」


「“普通”のテンションじゃなかっただろ」


響が笑う。


一拍置いて、響がアイスを咥えたまま言った。


「……ってか、翔が先に手出したのが一番驚きだわ」


柊も同意する。


「分かる。いつもは俺かお前が先に出る。成長したのか、悪い方向に進んでるのか」


「どっちだろうな」


響は空を見上げた。


「まぁいいんじゃね。俺らくらいの年はヤンチャが一番だ」


「はは。違いねぇ」


柊は笑いかけて――そこで、少しだけ表情を変えた。


「……けど響」


「ん?」


「分かってるよな」


響の笑いが、ほんの少しだけ消える。


「……あぁ。翔のことだろ」


柊はアイスの棒を指で回しながら言った。


「あいつ、ああ見えて今相当追い詰められてる」


響は短く頷いた。


「気張って見とくよ」


柊は少し黙ってから、低い声で続ける。


「……それに俺は、だいぶ前の翔の父親の件、ずっと気がかりだ」


その言葉で、忙しなくバタつかせていた響の足が止まった。


「……あいつね」


「俺はしばらくそっち探ってみる」


柊の目が、いつもの無機質さじゃなく、妙に鋭い。

響は頷いた。


「おっけい。翔は任せろ」


柊が立ち上がる。


「じゃ、また学校でな」


「おう」


拳を合わせる。

いつもの軽い挨拶みたいに見えるのに、そこには小さな決意が混ざっていた。


二人はそれぞれ別の方向へ歩き出した。


◆ side:翔・菜々


玄関を開けると、家の中は温かかった。


「おかえり」


母の声が、台所から聞こえる。


「ただいま」


翔が言うと、母は笑った。


「たのしかった?」


「……めちゃくちゃ」


その一言だけで、母は満足そうに頷く。


「菜々ちゃんも楽しめた?」


菜々は丁寧に頭を下げた。


「ただいまです、お母様。はい!とても充実してました!」


元気のいい返事。


母は「よかった」と言って、出来上がった料理をテーブルに並べる。


いつもの夕飯。

なのに、今日だけは、少しだけ“特別”に感じた。


「海どうだったの?」


母が聞く。


「結衣ちゃんとか夏樹ちゃんもいた?」


「いた。響と柊も陽菜先輩も」


翔が言うと、母が目を丸くした。


「あらあら、賑やかね」


菜々が笑う。


「はい!すごく賑やかでした!」


テーブルの上には、たわいない会話が流れる。

今日の出来事を少しだけ話して、笑って、箸が進む。

翔は思う。


(……こういうの、なかったな)


一度目の人生。


高校生の夏休みなんて、ただ過ぎていくだけだった。

思い出になる出来事も、誰かと笑った記憶も、ほとんど残っていない。


でも今は――


海に行って、騒いで、帰ってきて、家で飯を食っている。


それだけなのに、胸が満たされる。


食後、翔は洗い物を手伝い、風呂に入って部屋に戻った。

菜々も片付けを手伝ってから風呂に入り、しばらくして部屋に入ってくる。

髪が少し濡れていて、シャンプーの匂いがする。


「お疲れ様です、翔さん」


菜々が微笑む。


「お疲れ」


「楽しかったですね」


「あぁ。相当楽しかった」


翔は布団に座りながら、ぽつりと続けた。


「……いい夏休みだった」


菜々は少しだけ目を丸くして、嬉しそうに笑う。


「はい。……本当に」


沈黙が落ちる。

その沈黙が気まずくないことが、少し不思議だった。


菜々が言う。


「明後日からまた学校ですし、頑張りましょうね」


「そうだな……はー、嫌だな」


「ふふ。嫌ですね」


二人は小さく笑った。

菜々はいつも通りベッドへ。

翔は敷布団へ。

電気を消す。


部屋が暗くなると、外の虫の声が少し大きく聞こえた。


海の音じゃない。

波の音でもない。

でも、夏の夜の音。


しばらく沈黙が続く。


翔は目を閉じて、今日の海を思い出していた。


――波。

――夕焼け。

――笑い声。

――そして、陽菜の声。


「私、翔の女!」


背中が冷えた視線。

結衣と夏樹と菜々の殺意。

響と柊の「ご愁傷さま」。


(……平穏はまだまだ先だな)


そんなことを考えながら、翔は小さく息を吐く。


その時。

隣のベッドから、菜々の声がした。


「翔さん」


「ん?」


暗闇の中で、少しだけ震える声。


「……一緒に寝て……くれませんか?」


翔は一瞬、息を止めた。


「……え?」


返事が、間抜けに聞こえるくらい、頭が追いつかなかった。


沈黙。

虫の声。

菜々の呼吸。


暗闇の中で、菜々が小さく続ける。


「今日……すごく楽しくて」


「うん」


「……でも、終わっちゃうのが、ちょっとだけ怖くて」


翔は言葉を失った。

菜々は、普段みたいに強く言わない。

弱さを見せないように、必死に抑えている声だった。


「だから……今だけ」


「……」


翔は天井を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


夏休みは、終わる。

明後日から学校が始まる。

日常が戻る。

でも、今日の余韻は、まだ胸に残っている。


翔は静かに答えた。


「……分かった」


その返事に、菜々の呼吸がふっと緩むのが分かった。


「……ありがとうございます」


「……ただし」


翔が続ける。


「寝相悪いぞ俺」


「知ってます」


菜々が小さく笑う。


翔は起き上がり、ベッドに近づいた。

菜々が少しだけ体をずらす。

そこに、翔がそっと横になる。


暗闇の中で、菜々が小さく呟いた。


「……翔さん、あったかい」


「……お前の方があったかいだろ」


「ふふ」


その笑いが、妙に胸に沁みた。

翔は目を閉じる。

今日の海の音はもう聞こえない。


でも、確かに残っている。

波が引いたあとに、砂浜に残る小さな貝殻みたいに。


――この夏休みは、きっと忘れない。


そう思いながら、翔は静かに眠りに落ちていった。

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