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何も無い夏の日

夏休みの朝は、やけに静かだった。


窓の外から聞こえるのは、遠くで鳴く蝉の声と、時折通り過ぎる車の音だけ。


学校がある日なら、もう慌ただしくしている時間なのに、今日は何もない。


布団の中で目を開けた翔は、天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。


(……予定、なかったよな)


スマホを手に取って、何気なく画面を確認する。

通知はゼロ。

誰からも、何も来ていない。


少しだけ、胸の奥が軽くなるような、

それでいて、ほんの少しだけ、寂しいような。


「……ほんとに、オフだな」


呟いて、起き上がる。

顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して一口飲む。

何の変哲もない、ただの朝。


——けれど、


“何も起きない朝”が、今はやけに貴重に思えた。

そう思った、その瞬間。

スマホが、静かな部屋に不意に鳴り響いた。


【響:なあ暇】


「……いきなりすぎるだろ」


思わず声に出して笑ってしまう。

画面を見ながら、すぐに返す。


【翔:おはよう。いきなり何】


少し間を置いて、また通知。


【柊:唐突すぎ】


【響:今日オフだろ、遊ぼ】


【翔:どこで】


【響:知らん】


【柊:計画性ゼロ】


【翔:じゃあ駅前で】


【響:りょ】


【柊:了解】


たったこれだけのやり取り。


理由も、目的もない。

なのに、

それが自然に決まるのが、なんだか嬉しかった。


(……こういうの、いいな)


スマホを置いて、翔は制服でも部活ジャージでもない、

“ただの私服”に着替えた。

今日は、何も起きない日。

たぶん、そういう日だ。



駅前は、昼に近づくにつれて人が増え始めていた。


買い物帰りの人、部活に向かう中学生、

カップルや家族連れが、行き交っている。

その人混みの中で、

一人だけ、やけにうるさいのがいた。


「おっせ翔!!」


遠くから聞こえてくる声に、翔はため息をつく。


「時間ぴったりですけど」


近づくと、響は腕をぶんぶん回しながらニヤニヤしている。


「気分の問題だ!」


「それ、遅刻魔の言い訳だろ」


横から、柊が淡々と突っ込む。


「年がら年中テンション高いお前が言うな」


「細けぇな〜!せっかくの男子会だぞ男子会!」


「いつからそんな単語覚えたんだよ」


「今!」


「成長ゼロだな」


そんなやり取りをしながら、三人並んで歩き出す。

この並び。

この距離感。

女子がいないだけで、空気が少し軽い。


「で、どこ行くんだ?」


翔が聞くと、響は即答する。


「ボーリング!」


「なんで?」


「なんとなく!」


「……それ以外の理由を期待した俺が馬鹿だった」


柊が小さくため息をつく。

でも、

誰も本気で反対しない。


「ま、いいか」


翔がそう言うと、響が満足そうに頷く。


「だろ?“なんとなく”で遊べるのが、男子の特権だ」


「女子に失礼だろ」


「いや、女子は“なんとなく”に理由つけるじゃん」


「偏見の塊かよ」


笑いながら、三人はボーリング場へ向かって歩き出す。



ボーリング場は、思ったよりも賑やかだった。


天井からぶら下がるモニターの光、

ボールが転がる重低音、

どこかのレーンで響く歓声とため息。


「うわ、人多っ」


響が周囲を見渡しながら言う。


「夏休みだしな」


「こういうとこ、久しぶりだな」


柊がぽつりと呟く。


三人でシューズを履き替えて、レーンへ。


画面に表示された名前は、


【HIBIKI】【KAKERU】【SYU】


「お、ちゃんと入力されてる」


「“SYU”ってなんか強そうじゃね?」


「お前の“HIBIKI”は騒音公害だな」


「は!?ひど!!」


そんな軽口を叩きながら、先攻は響。


「よっしゃ見とけよお前ら!」


助走、構え、振りかぶり。

気合いだけはプロ並み。


ゴトンと言う鈍い音と共に、ボールは一直線に……


そして、そのままガーターへ。


「……え?」


一瞬、空気が止まる。

翔が口を開く。


「完璧な……」


柊が続ける。


「……ガーターだな」


「違う!今のは調整ミスだ!!」


響は即座にボールを取り直す。


「次は決める!マジで!!」


二投目。


――またガーター。


「おかしいだろこれぇぇぇ!!」


「フルパワーでガーター出せるの、逆に才能だよ」


「そんな才能いらねぇ!!」


次は翔。

大きく構えず、軽く助走して投げる。

カラカラと、乾いた音。


ピンが倒れ、表示は【8】。


「……地味」


「安定感だけで生きてる男だな」


「それ褒めてます?」


最後は柊。

何も言わず、静かに構えて投げる。


一際大きな音とともに、全ピンが吹き飛ぶ。


【STRIKE】


「……」


「は!?今の何!?」


柊は淡々と。


「……普通」


「普通じゃねぇ!!!」


その後も、

響は全力で外し、

翔は堅実に拾い、

柊は静かに決める。


「なんでお前だけ静かに決め続けられるんだよ!」


「余計な力、入れないから」


「じゃあ俺は何入れてんだよ!」


「無駄な気合」


笑い声がレーンに響く。

三人で騒いで、ツッコんで、

気付けば、誰よりも声を出していた。


——こういう時間が、


本当は一番“贅沢”なんだと、翔は思っていた。



ボウリングの後、

三人はフードコートに流れ込むようにして座った。

トレーを持ち、

適当に空いている席に陣取る。


翔はカツ丼、

響は唐揚げ定食、

柊はラーメンと小ライス。


「柊、ラーメンに米って正気か?」


「いちばん美味いだろ」


「炭水化物×炭水化物って一番太るやつじゃね?」


「お前にだけは言われたくない」


しばらくは、さっきのプレーの話で盛り上がっていた。


「お前、あそこでガーター出すなよ!」


「だってあのレーン、絶対呪われてたって!」


「呪いにかかってたのお前のフォームだろ」


そんな他愛ない会話が、自然と落ち着いていく。


そして、不意に――


響が、少しだけ声のトーンを落とした。


「なあ翔」


「ん?」


「最近、ちょっと無理してね?」


翔の箸が、止まる。


「……別に」


「いや、してる」


響は珍しく、即否定した。

柊も、視線を上げる。


「顔に出るタイプだからな翔は」


「……え、マジ?」


響がじっと翔の顔を見る。


「目、死んでる時あるぞ最近」


「言い方」


翔は、少しだけ困ったように笑った。


「……まあ、ちょっとな」


「何が“ちょっと”だよ」


響が箸を置く。


「この前さ、夏樹ちゃん、途中で帰っただろ」


その名前が出た瞬間、

翔の視線が一瞬、落ちる。


「……うん」


「理由、ちゃんと聞いた?」


「……ちゃんとは」


柊が淡々と続ける。


「誤魔化された感じか?」


翔は、少し間を置いて、頷いた。


「……なんか、変だった」


沈黙が落ちる。

周囲の騒がしさが、逆に遠く感じる。

翔は、箸を持ったまま、ぽつりと呟いた。


「でも……今は、信じたいんだ」


その言葉に、

響も柊もすぐには何も言わなかった。

少しして、柊が言う。


「信じるのはいい」


一拍。


「……でも、目は逸らすなよ」


翔は、小さく息を吐いた。


「……わかってる」


響はしばらく黙っていたが、

唐揚げを一つ口に放り込んでから言った。


「ま、とりあえず今は食え!冷めるぞ!」


「今さらそれ言う?」


「俺の唐揚げ、もう冷えてんだよ!」


「知らんわ!」


笑いが戻る。

でも、その裏に、

“ちゃんと心配してる”のが、伝わる空気だった。

翔は思った。


(……一人じゃないな)


そう思えるだけで、

少しだけ、胸の奥が軽くなった。



ご飯を済ませた三人はそのままの流れで、

三人はカラオケへ流れ込んだ。


自動ドアが開いた瞬間、

外の静けさとは別世界みたいな音と光に包まれる。


「……急に世界変わったな」


「これが娯楽というやつだ」


「なんでそんな無機質なんだよ」


受付を済ませ、

案内された部屋に入ると、

響が即リモコンを掴んだ。


「じゃ、俺からいくわ!」


「はいはい」


「どうせうるさいだけだろ」


翔と柊に適当に流されながらも、

響は気にせず選曲。


流れ出す前奏。


「お、懐かしいやつ来たな」


「それ原キーでいくん?」


「当然!!」


マイクを握りしめ、

響は全力で歌い出す。


――音程、行方不明。

――リズム、迷子。

――声量だけ一級品。


「うるせぇ!!」


「音ズレてんぞ!!」


「心で歌ってるから関係ねぇ!!」


「心壊れてるだろ!」


それでも本人はノリノリで、

サビでは無駄にシャウト。

歌い切った後、満足げに一言。


「……どうよ?」


翔が即答。


「……元気はもらえました」


「フォローになってねぇ!」


柊が淡々と。


「災害レベル」


「ひでぇな!?!?」


次は翔。


「じゃあ俺いくか……」


無難な選曲。

テンポも音程も安定。

可もなく不可もなく、

ちょうど“聴いてられる”歌。


歌い終わると、響が腕を組む。


「つまんねぇくらい安定してんな」


「褒めてます?」


「面白くないって意味で褒めてる」


「褒めてないですよね?」


柊が一言。


「……安心感はある」


「ありがとう柊。唯一まとも」


最後は柊。


「……じゃあ」


選曲画面を見て、

翔が一瞬目を見開く。


「え、それ歌うの?」


「意外すぎるだろ」


流れ出すのは、

少し切なめなバラード。

響も思わず口を閉じる。

柊の声は低くて落ち着いていて、

感情を込めすぎないのに、

やけに胸に残る歌い方だった。


歌い終わると、

一瞬、部屋が静かになる。


「……なんでそんな上手いんだよ」


響がぼそっと言う。


「練習した」


「いつの間に!?」


「……一人の時」


「急に重いな!」


翔は少しだけ笑いながら思った。


(こいつ、意外と繊細だよな)


その後はもう、完全にワチャワチャ。

響がネタ曲入れて暴走したり、

翔がそれを止めようとして一緒に被弾したり、

柊が無言でタンバリン叩いてたり。


「なんでお前そんなノリいいんだよ!」


「今だけ」


「限定かよ!」


気付けば、

三人とも笑いっぱなしだった。

何も考えずに、

ただ騒げる時間。


——それが、今の翔には、やけにありがたかった。



夕方。


三人はコンビニでお菓子とジュースを買って、学校へ向かっていた。

夏休みの校舎は、ひどく静かだった。

人の気配が抜け落ちた廊下は、足音だけがやけに響く。


屋上の扉を開けると、

熱を帯びた風がふわりと吹き抜ける。


フェンス越しに、沈みかけの夕日が街を染めていた。

オレンジ色の光が、校舎の影を長く引き延ばしている。


「……なんか、エモいな」


響が、袋をガサガサ鳴らしながら言った。


「語彙力ゼロか」


柊が呆れたように言う。


「いや、でも……わかるだろ。こういうの」


翔は無言で頷いた。


三人でフェンスにもたれ、地面に座る。

誰が言い出すでもなく、同じ方向を見つめていた。

しばらく、誰も喋らない。


風の音と、遠くの蝉の声だけが聞こえる。


「……高校生みたいだな」


柊が、ぽつりと呟く。


「実際高校生だろ」


翔が言うと、響が首を振った。


「いや、“あの頃”って意味でさ」


「あの頃?」


「部活終わりとか昼休みとかにさ、意味もなくここ来て、だらだら喋ってたじゃん」


「ああ……あったな」


翔は、少し懐かしそうに笑う。


「なんで来てたんだろうな、あの頃」


「暇だったからだろ」


柊が即答する。


「夢も希望もねぇ理由だな!」


「でもさ……」


響は夕日を見たまま言う。


「今思うと、あの時間、結構好きだったんだよな」


翔は、何も言わずに、袋からスナック菓子を一つ取り出して口に放り込んだ。


(……俺もだ)


心の中でだけ、そう思う。

ただ並んで、

何かを話すでもなく、

それでも“ひとりじゃない”って分かる時間。


それが、どれほど贅沢なことかを、

今はまだ、完全には理解していないけれど。

柊が、不意に言った。


「翔」


「ん?」


「何かあったら言え」


短い言葉。

でも、それだけで、全部伝わる。


「一人で抱え込むなよ」


響も、いつもの軽い口調で続ける。


「お前、そういうとこ無駄に真面目だからさ」


翔は、一瞬だけ言葉に詰まってから、静かに笑った。


「……ありがとな」


その一言に、二人はそれ以上何も言わなかった。

夕日が、ゆっくりと地平線に沈んでいく。

三人の影が、屋上に長く伸びる。


何も起きない、ただの一日。


でも、

こんなにも穏やかで、

こんなにも確かな時間があることを、

翔は、心のどこかに刻みつけていた。


(こういう時間が、ずっと続けばいいのに)


そう思ってしまうくらいには。

けれど、

続かないことも、もう知っている。


だからこそ――


この何も起きない一日が、

忘れられない一日になった。

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