何も無い夏の日
夏休みの朝は、やけに静かだった。
窓の外から聞こえるのは、遠くで鳴く蝉の声と、時折通り過ぎる車の音だけ。
学校がある日なら、もう慌ただしくしている時間なのに、今日は何もない。
布団の中で目を開けた翔は、天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
(……予定、なかったよな)
スマホを手に取って、何気なく画面を確認する。
通知はゼロ。
誰からも、何も来ていない。
少しだけ、胸の奥が軽くなるような、
それでいて、ほんの少しだけ、寂しいような。
「……ほんとに、オフだな」
呟いて、起き上がる。
顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して一口飲む。
何の変哲もない、ただの朝。
——けれど、
“何も起きない朝”が、今はやけに貴重に思えた。
そう思った、その瞬間。
スマホが、静かな部屋に不意に鳴り響いた。
【響:なあ暇】
「……いきなりすぎるだろ」
思わず声に出して笑ってしまう。
画面を見ながら、すぐに返す。
【翔:おはよう。いきなり何】
少し間を置いて、また通知。
【柊:唐突すぎ】
【響:今日オフだろ、遊ぼ】
【翔:どこで】
【響:知らん】
【柊:計画性ゼロ】
【翔:じゃあ駅前で】
【響:りょ】
【柊:了解】
たったこれだけのやり取り。
理由も、目的もない。
なのに、
それが自然に決まるのが、なんだか嬉しかった。
(……こういうの、いいな)
スマホを置いて、翔は制服でも部活ジャージでもない、
“ただの私服”に着替えた。
今日は、何も起きない日。
たぶん、そういう日だ。
◆
駅前は、昼に近づくにつれて人が増え始めていた。
買い物帰りの人、部活に向かう中学生、
カップルや家族連れが、行き交っている。
その人混みの中で、
一人だけ、やけにうるさいのがいた。
「おっせ翔!!」
遠くから聞こえてくる声に、翔はため息をつく。
「時間ぴったりですけど」
近づくと、響は腕をぶんぶん回しながらニヤニヤしている。
「気分の問題だ!」
「それ、遅刻魔の言い訳だろ」
横から、柊が淡々と突っ込む。
「年がら年中テンション高いお前が言うな」
「細けぇな〜!せっかくの男子会だぞ男子会!」
「いつからそんな単語覚えたんだよ」
「今!」
「成長ゼロだな」
そんなやり取りをしながら、三人並んで歩き出す。
この並び。
この距離感。
女子がいないだけで、空気が少し軽い。
「で、どこ行くんだ?」
翔が聞くと、響は即答する。
「ボーリング!」
「なんで?」
「なんとなく!」
「……それ以外の理由を期待した俺が馬鹿だった」
柊が小さくため息をつく。
でも、
誰も本気で反対しない。
「ま、いいか」
翔がそう言うと、響が満足そうに頷く。
「だろ?“なんとなく”で遊べるのが、男子の特権だ」
「女子に失礼だろ」
「いや、女子は“なんとなく”に理由つけるじゃん」
「偏見の塊かよ」
笑いながら、三人はボーリング場へ向かって歩き出す。
◆
ボーリング場は、思ったよりも賑やかだった。
天井からぶら下がるモニターの光、
ボールが転がる重低音、
どこかのレーンで響く歓声とため息。
「うわ、人多っ」
響が周囲を見渡しながら言う。
「夏休みだしな」
「こういうとこ、久しぶりだな」
柊がぽつりと呟く。
三人でシューズを履き替えて、レーンへ。
画面に表示された名前は、
【HIBIKI】【KAKERU】【SYU】
「お、ちゃんと入力されてる」
「“SYU”ってなんか強そうじゃね?」
「お前の“HIBIKI”は騒音公害だな」
「は!?ひど!!」
そんな軽口を叩きながら、先攻は響。
「よっしゃ見とけよお前ら!」
助走、構え、振りかぶり。
気合いだけはプロ並み。
ゴトンと言う鈍い音と共に、ボールは一直線に……
そして、そのままガーターへ。
「……え?」
一瞬、空気が止まる。
翔が口を開く。
「完璧な……」
柊が続ける。
「……ガーターだな」
「違う!今のは調整ミスだ!!」
響は即座にボールを取り直す。
「次は決める!マジで!!」
二投目。
――またガーター。
「おかしいだろこれぇぇぇ!!」
「フルパワーでガーター出せるの、逆に才能だよ」
「そんな才能いらねぇ!!」
次は翔。
大きく構えず、軽く助走して投げる。
カラカラと、乾いた音。
ピンが倒れ、表示は【8】。
「……地味」
「安定感だけで生きてる男だな」
「それ褒めてます?」
最後は柊。
何も言わず、静かに構えて投げる。
一際大きな音とともに、全ピンが吹き飛ぶ。
【STRIKE】
「……」
「は!?今の何!?」
柊は淡々と。
「……普通」
「普通じゃねぇ!!!」
その後も、
響は全力で外し、
翔は堅実に拾い、
柊は静かに決める。
「なんでお前だけ静かに決め続けられるんだよ!」
「余計な力、入れないから」
「じゃあ俺は何入れてんだよ!」
「無駄な気合」
笑い声がレーンに響く。
三人で騒いで、ツッコんで、
気付けば、誰よりも声を出していた。
——こういう時間が、
本当は一番“贅沢”なんだと、翔は思っていた。
◆
ボウリングの後、
三人はフードコートに流れ込むようにして座った。
トレーを持ち、
適当に空いている席に陣取る。
翔はカツ丼、
響は唐揚げ定食、
柊はラーメンと小ライス。
「柊、ラーメンに米って正気か?」
「いちばん美味いだろ」
「炭水化物×炭水化物って一番太るやつじゃね?」
「お前にだけは言われたくない」
しばらくは、さっきのプレーの話で盛り上がっていた。
「お前、あそこでガーター出すなよ!」
「だってあのレーン、絶対呪われてたって!」
「呪いにかかってたのお前のフォームだろ」
そんな他愛ない会話が、自然と落ち着いていく。
そして、不意に――
響が、少しだけ声のトーンを落とした。
「なあ翔」
「ん?」
「最近、ちょっと無理してね?」
翔の箸が、止まる。
「……別に」
「いや、してる」
響は珍しく、即否定した。
柊も、視線を上げる。
「顔に出るタイプだからな翔は」
「……え、マジ?」
響がじっと翔の顔を見る。
「目、死んでる時あるぞ最近」
「言い方」
翔は、少しだけ困ったように笑った。
「……まあ、ちょっとな」
「何が“ちょっと”だよ」
響が箸を置く。
「この前さ、夏樹ちゃん、途中で帰っただろ」
その名前が出た瞬間、
翔の視線が一瞬、落ちる。
「……うん」
「理由、ちゃんと聞いた?」
「……ちゃんとは」
柊が淡々と続ける。
「誤魔化された感じか?」
翔は、少し間を置いて、頷いた。
「……なんか、変だった」
沈黙が落ちる。
周囲の騒がしさが、逆に遠く感じる。
翔は、箸を持ったまま、ぽつりと呟いた。
「でも……今は、信じたいんだ」
その言葉に、
響も柊もすぐには何も言わなかった。
少しして、柊が言う。
「信じるのはいい」
一拍。
「……でも、目は逸らすなよ」
翔は、小さく息を吐いた。
「……わかってる」
響はしばらく黙っていたが、
唐揚げを一つ口に放り込んでから言った。
「ま、とりあえず今は食え!冷めるぞ!」
「今さらそれ言う?」
「俺の唐揚げ、もう冷えてんだよ!」
「知らんわ!」
笑いが戻る。
でも、その裏に、
“ちゃんと心配してる”のが、伝わる空気だった。
翔は思った。
(……一人じゃないな)
そう思えるだけで、
少しだけ、胸の奥が軽くなった。
◆
ご飯を済ませた三人はそのままの流れで、
三人はカラオケへ流れ込んだ。
自動ドアが開いた瞬間、
外の静けさとは別世界みたいな音と光に包まれる。
「……急に世界変わったな」
「これが娯楽というやつだ」
「なんでそんな無機質なんだよ」
受付を済ませ、
案内された部屋に入ると、
響が即リモコンを掴んだ。
「じゃ、俺からいくわ!」
「はいはい」
「どうせうるさいだけだろ」
翔と柊に適当に流されながらも、
響は気にせず選曲。
流れ出す前奏。
「お、懐かしいやつ来たな」
「それ原キーでいくん?」
「当然!!」
マイクを握りしめ、
響は全力で歌い出す。
――音程、行方不明。
――リズム、迷子。
――声量だけ一級品。
「うるせぇ!!」
「音ズレてんぞ!!」
「心で歌ってるから関係ねぇ!!」
「心壊れてるだろ!」
それでも本人はノリノリで、
サビでは無駄にシャウト。
歌い切った後、満足げに一言。
「……どうよ?」
翔が即答。
「……元気はもらえました」
「フォローになってねぇ!」
柊が淡々と。
「災害レベル」
「ひでぇな!?!?」
次は翔。
「じゃあ俺いくか……」
無難な選曲。
テンポも音程も安定。
可もなく不可もなく、
ちょうど“聴いてられる”歌。
歌い終わると、響が腕を組む。
「つまんねぇくらい安定してんな」
「褒めてます?」
「面白くないって意味で褒めてる」
「褒めてないですよね?」
柊が一言。
「……安心感はある」
「ありがとう柊。唯一まとも」
最後は柊。
「……じゃあ」
選曲画面を見て、
翔が一瞬目を見開く。
「え、それ歌うの?」
「意外すぎるだろ」
流れ出すのは、
少し切なめなバラード。
響も思わず口を閉じる。
柊の声は低くて落ち着いていて、
感情を込めすぎないのに、
やけに胸に残る歌い方だった。
歌い終わると、
一瞬、部屋が静かになる。
「……なんでそんな上手いんだよ」
響がぼそっと言う。
「練習した」
「いつの間に!?」
「……一人の時」
「急に重いな!」
翔は少しだけ笑いながら思った。
(こいつ、意外と繊細だよな)
その後はもう、完全にワチャワチャ。
響がネタ曲入れて暴走したり、
翔がそれを止めようとして一緒に被弾したり、
柊が無言でタンバリン叩いてたり。
「なんでお前そんなノリいいんだよ!」
「今だけ」
「限定かよ!」
気付けば、
三人とも笑いっぱなしだった。
何も考えずに、
ただ騒げる時間。
——それが、今の翔には、やけにありがたかった。
◆
夕方。
三人はコンビニでお菓子とジュースを買って、学校へ向かっていた。
夏休みの校舎は、ひどく静かだった。
人の気配が抜け落ちた廊下は、足音だけがやけに響く。
屋上の扉を開けると、
熱を帯びた風がふわりと吹き抜ける。
フェンス越しに、沈みかけの夕日が街を染めていた。
オレンジ色の光が、校舎の影を長く引き延ばしている。
「……なんか、エモいな」
響が、袋をガサガサ鳴らしながら言った。
「語彙力ゼロか」
柊が呆れたように言う。
「いや、でも……わかるだろ。こういうの」
翔は無言で頷いた。
三人でフェンスにもたれ、地面に座る。
誰が言い出すでもなく、同じ方向を見つめていた。
しばらく、誰も喋らない。
風の音と、遠くの蝉の声だけが聞こえる。
「……高校生みたいだな」
柊が、ぽつりと呟く。
「実際高校生だろ」
翔が言うと、響が首を振った。
「いや、“あの頃”って意味でさ」
「あの頃?」
「部活終わりとか昼休みとかにさ、意味もなくここ来て、だらだら喋ってたじゃん」
「ああ……あったな」
翔は、少し懐かしそうに笑う。
「なんで来てたんだろうな、あの頃」
「暇だったからだろ」
柊が即答する。
「夢も希望もねぇ理由だな!」
「でもさ……」
響は夕日を見たまま言う。
「今思うと、あの時間、結構好きだったんだよな」
翔は、何も言わずに、袋からスナック菓子を一つ取り出して口に放り込んだ。
(……俺もだ)
心の中でだけ、そう思う。
ただ並んで、
何かを話すでもなく、
それでも“ひとりじゃない”って分かる時間。
それが、どれほど贅沢なことかを、
今はまだ、完全には理解していないけれど。
柊が、不意に言った。
「翔」
「ん?」
「何かあったら言え」
短い言葉。
でも、それだけで、全部伝わる。
「一人で抱え込むなよ」
響も、いつもの軽い口調で続ける。
「お前、そういうとこ無駄に真面目だからさ」
翔は、一瞬だけ言葉に詰まってから、静かに笑った。
「……ありがとな」
その一言に、二人はそれ以上何も言わなかった。
夕日が、ゆっくりと地平線に沈んでいく。
三人の影が、屋上に長く伸びる。
何も起きない、ただの一日。
でも、
こんなにも穏やかで、
こんなにも確かな時間があることを、
翔は、心のどこかに刻みつけていた。
(こういう時間が、ずっと続けばいいのに)
そう思ってしまうくらいには。
けれど、
続かないことも、もう知っている。
だからこそ――
この何も起きない一日が、
忘れられない一日になった。




